一生の夢、昔の夢(3)
奥さまの期待に添うべく、立派な男にならなければならない。
その思いで勤めにも学業にも励んだ。もともと学ぶのは好きであったし、御前がふんだんに書物を貸し与えてもくださり、その甲斐あって中学時代の成績はほとんど甲をもらった。そして卒業後は正式に「表」の職員として家政に携わることになった。
大恩ある御前夫妻は自分が十七歳のとき、相前後して薨去した。御前が亡くなったあと家令の田崎から、『黒田の倅が高校への進学を望むなら学費は伯爵家が負担する』との言付けを預かっていると告げられて、かたじけなくも、さすがにそこまではと遠慮申し上げた。自分のこの反応は田崎の心証をよくしたようだ。
それでよかった。自分が御前のお気に入りであったのは、邸内の誰もが知るところだった。内心それをやっかんでいる者もいることだろう。
たとえば女中頭の菊野だ。
誘拐騒動のあと、運転手の黒田は馘首にすべきだと強硬に主張したと聞いている。菊野はどうも昔から苦手だった。当たりがきつく、つんけんして、自分を見る目に険がある。おそらく菊野もこちらを虫が好かないと思っているのだろう。そういうのはなんとなく分かるものだ。だが、そんな菊野ともうまくやっていかなくては。
敵をつくってはならない。誰からも好かれ、かわいがられなければならない。そうして着々と邸内で出世していかねばならない。お嬢さまと――奥さまをそば近くでお支えするために。
家の家政に与る「表」の職員のなかで、自分は最も下っ端の「家丁」だった。朝は誰よりも早く事務所に出勤して、掃除する。「茶!」と言われたら元気よく「はい!」と返事する。常に謙虚であるよう心がけ、まじめに誠実に勤めた。そうして、書生時代には分からなかった家の内情が、だんだんと見えてきた。
どうやら若旦那さまは経済観念が希薄な方で、家政の運営には興味がないようだ。優雅な趣味人ではあるが、それだけに遊興などに惜しみなく金を遣う。
その点で亡き御前は厳しかった。日に一度、必ず事務所を訪れて、抜き打ちで帳簿の確認もした。少しでも数字が合わなければ田崎に問い質し、職員たちを緊張させた。
その気になれば使用人は横領や盗みなど、いくらでもできる。実際、執事に金を持ち逃げされて破産した華族の例も二、三ある。尤も、そういう家はもとの家風がだらしがなかったのだろう。
白川家の場合、当主が金に無頓着である分、家令の田崎がしっかりしている。亡き御前さまの信頼も厚く、部下からも慕われている。性格は寡黙で穏やか。年齢は六十代半ばで、背すじはぴんと伸び、身ごなしもきびきびしているが、十年後はどうなっているか分からない。
いずれは田崎も引退する。そのときまでに後を任せられる部下を育てておきたいと考えていることだろう。伯爵家に忠実で、財産管理ができる程度の能力があり、自分が信頼を置ける者を――。
その座を心ひそかに狙っている。
仕える家の家令になりたいとは、男子一生の夢としてはスケールが小さいかもしれない。だが自分のような者にとっては充分に大望だ。人生を捧げるだけの甲斐がある。
その夢を叶えるために日々懸命に働いた。進んで雑用を引き受け、さまざまなことを覚え、少しずつ信頼を積み上げていった。そうしてある日突然、夢は断たれた。夢だけでなく自分の人生そのものがひっくり返った。
お嬢さまの誕生日パーティーを翌日に控えたあの日、その準備で邸内がざわついていたときのこと。事務所でひとり書類仕事をしていたら、田崎に呼ばれた。
廊下の奥にある家令専用の執務室へ向かうと、田崎だけでなく家扶に家従、それに父の運転助手をしている井上までがそこにいた。どことなくただならない空気が漂っていた。
上役に呼びだされたときの常として、何かミスでもしただろうかとまず考えた。提出した書類に不備でもあったか、あるいは仕事ぶりについて注意でも受けるのだろうか……と。
「まあそう緊張するな。説教するために呼んだのではないのだから」
こちらの顔色を読んだのか、田崎は笑いかけて室内の雰囲気をやわらげようとする。その温厚な顔の鼻の頭に、汗粒がいくつか浮かんでいる。
「つかぬことを尋ねるのだが、お前の父の黒田なのだがな……」
なんてことなさそうな口調で切りだされ、父親についていくつか訊かれる。
最近の父の様子や態度、交わした会話についてなど。気になる点はなかったか、おかしな素振りや、思い詰めてるような顔をしていなかったか、などなど。さっぱり意味が分からない。
「至って変わりありませんが」と答えると「今朝もか?」と問われる。
「はい」
痛くもない腹を探られているようで、若干憮然として(だが顔にはださずに)うなずく。今日の朝、いつもどおり父と自分は使用人食堂で朝食をとり、それぞれの仕事場へ向かった。自分は事務所の棟へ、父は車寄せに併設されている運転手たちの控室へ。「じゃあな」と声をかけられ、「ええ」と返した。いつもと同じやりとりだった。変わったことなどひとつもない。
包み隠さずそう話すと「そうか」と田崎はため息をつく。
「父がどうかしたのですか」
尋ね返すと、田崎はしばし考えて、口を開く。今日の午後、奥さまがお出かけになって、まだ帰ってらっしゃらないのだと。黒田の運転するフォードを使って、と。
窓外はもう暗かった。奥さまは外出しても、常に夕方までには帰宅される。遅くなる場合には必ず出先からお電話でご連絡される。それはこの伯爵家に嫁いでからの十四年間、ずっとそうであった。なのに今日に限って連絡がないという。
「もしや事故にでも遭ったのではないでしょうか」
問うと「ならばまだいいのだが」と、それまでずっと黙っていた家扶の小川が、ぼそっとつぶやく。
旦那さまの“別宅”との連絡係を務めている小川は、このところ旦那さまが別宅に入り浸っているのを憂慮していた。
「とかく上流階級では、家庭内に波風があると問題が起きやすいですからな。特に夫の女遊びに当てつけて、妻が手近な使用人と間違いを犯すことなんかが……」
小川は自分をちらと見る。いやな目つきだ。痩せて風采の上がらないこの小男はなにかにつけて説教がましく、平職員たちから嫌われている。
「い、いや、まあ万が一奥さまに何かあったとしても、黒田がついているのだから、大丈夫だと思うのだが、その、な」
田崎が歯切れの悪い口調であとを引きとる。そこで、この場に自分が呼ばれた理由に思い至った。もしや田崎らは、奥さまと父の関係を疑っているのだろうか。帰りが遅いのは、どこかで逢引きでもしているのではないだろうか……と。
そんなこと、絶対にありえない。
父ほどまじめな男はいない。それは息子の自分が一番よく知っている。他の職員たちのように連れだって女を買いにいくこともないし、酒もさほど嗜まない。少しでも時間があれば車の手入れをしているような人だ。
まじめな人柄を見込まれて、後添えをもらわないかという話も何度かきたことがあるが、すべて断っている。それは亡き母に想いを残しているからだろう。
そんな父が、奥さまとどうにかなるなんて、天地がひっくり返っても考えられない。そもそも奥さまが運転手風情を相手にするはずがないではないか。
なんでも井上によると、父の運転するフォードで奥さまが出かけたのは、午後一時頃だったという。すぐ戻ってくるかと思ったが、お嬢さまの下校時刻が近づいても帰ってこないので、やむなく予備のパッカードを自分が運転してお嬢さまを迎えにいった。
「そういえば昨日、パッカードの運転の仕方について黒田さんから指導を受けたのです。左ハンドルを切るコツやブレーキの注意点などを」
なぜ普段使いのフォードではなく、めったに使わないパッカードのことを詳しく教えてくれるのだろう、と不思議には思ったそうだ。
それを聞いた田崎が「女中頭に伝えよ」と家従に命じる。「奥さまの部屋になにか……書き置きでもないか調べさせるように」と。
その声の深刻さに、知らず手のひらが湿ってきた。
まさか父は予め、今日、奥さまの御用で外出するのが分かっていたとでもいうのだろうか。帰りが遅くなることも。それで井上に予備車の運転を教えていたとでも……。だがなぜ? なんのために?
そこまで考え、だからなんだと考え直す。前以て外出する旨を告げられていただけかもしれないじゃないか、と。明日はお嬢さまの誕生日だ。きっと贈りものを買うために出かけたのだろう。時間がかかることを見越して、井上に予備車の運転の仕方を伝えておいたのだ。まじめな父のことだ、そうに違いない。
そんなことを考える間も手のひらは汗で濡れていた。
そのとき、きつめにドアがノックされ、菊野が家令室にあらわれる。普段に増して険しい顔つきだ。
「こんなものが化粧机の上にありました」
鳩居堂の印字がついた一筆箋を手にしている。水茎のような筆跡で簡素にひと言、
『お許しください』
くらりと、めまいがしそうになった。
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