一生の夢、昔の夢(2)


 人生で転機となったのは十三歳のときだった。

 この年の秋、お嬢さまの誘拐騒動が起きた。お嬢さまの登下校の運転を任されている父が、ちょっと車を離れた隙を見計らうかのように怪しい二人組が近づいてきた。車の外へ引きずりだされたとき、死に物狂いで誘拐犯にしがみついた。

 お嬢さまを奪われてはならない。

 忠誠心というよりも、そうしなければ自分たち親子は邸を追いだされると思ったから。だが、はたから見れば忠実な家来そのものだったろう。犯人一味の隠れ家へ連行されてからも、忠誠心をお嬢さまに精いっぱいアピールした。

 自家用車ごと令嬢を誘拐されるという失態を犯した父の分も、ここで自分がカバーをしなければ……と。今頃父は田崎から叱責を受け、きっと菊野のばばあにも責められて針の筵だろう。旦那さまもさぞお怒りだろう。奥さまは泣いてらっしゃるかもしれない。

 奥さまの泣くお姿を想像すると、きゅうと胸が痛んだ。

 伯爵家から放逐されるわけにはいかない。親子そろってルンペンにはなりたくない。その思いでクニとお嬢さまだけ先に逃がそうとしたのだが、しくじって半殺しの目に遭った。

 だが、それだけの甲斐はあった。結果的に身を挺してお嬢さまを守り抜くかたちとなったから。

 隠居した前伯爵こと御前さまから激賞され、書生に取り立てられたのは嬉しかった。それまでは父のおまけ扱いで丁稚にも等しい存在だったのが、一気に御前さまのお気に入りだ。しかも一度は諦めた中学校へも通わせてもらえることになった。災い転じて福となすとは、まさにこのこと。父へのお咎めがなかったのにもほっとした。

御前さまの書生となってから、しばらくのちのこと。使用人の食堂で昼食をとっていると、奥さま付きの小間使いから本館にくるよう言われる。

 女たちの仕える「奥」の空間へ足を踏み入れるのは、これが初めてだった。

 絨毯が敷かれた廊下は迷路みたいに長く、入り組んでいて、しまいにはどこをどう歩いているのかも分からなくなってくる。空気にはどこか芳しい、甘酸っぱいにおいが漂っている。さまざまな年齢の女のにおいが混ざりあい、溶けあっているにおいかもしれない。

 さんざん歩いた末に、マントルピースのある広い洋間へ案内される。なかにいたのは奥さまだった。

「ああ、よくきてくれたわね」

 奥さまはその頃、二十代半ば。天女の化身のような美しさはいよいよ極まり、白いお手をすっと伸ばしてこちらの手を包み込んだ。全身の血がへそ下に集まった。むずむずっとした感覚が背骨をつたって尾てい骨に届き、かすかにぶるりと身震いした。これまでにない感覚だった。

 奥さまは小間使いを下がらせると、手ずからお茶を淹れてくださる。ソファに座るようにとうながされ、遠慮がちに浅く腰を下ろす。茶の味がまるでしなかった。がちがちに全身がこわばった。

 それでいて奥さまのお声は、とてもよく聞こえたのだ。かすかに甘いかすれ声で、ところどころで波のようにゆらぐ話し方。ゆらぎの波間に気持ちがあらわれて、聞いていてとても心地いい。

 と、ガーゼを当てている鼻の先端を、ほっそりした指先でちょんとつつかれる。びっくりしてソファからずり落ちると、

「ごめんなさいね。痛かった?」奥さまは案じ顔で問う。

「なんだかぼーっとしているようだから、気分でも悪くなったのかと思ったわ」

 奥さまに見惚れていたからです、とも言えずに、

「大丈夫です。失礼いたしました」

 ソファに――奥さまからやや距離をとり――腰かけ直す。奥さまはこちらをじっと見つめて、

「あの子を守ってくれて、ほんとうにありがとう」

 改まった口調で、言う。

「あなたのような立派な男子があの子のそばにいてくれて、とても心強いわ。これからも暁子をよろしく頼みますね。なにかあったら助けてやって頂戴」

 あるかなきかの微笑とともに、その言葉が胸の奥にすーっと入ってくる。ああ、奥さまはこれが言いたかったのだ、と不意に分かった。“謁見”は十分たらずで終わったが、永遠ともいえるような時間となった。

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