伯爵夫人鉄道情死事件(3)


 倫子という友人を得て、教室内での自分の立場はやや上向きになった。

 とはいえ基本的に浮いているのは変わらない。るつ子たちのグループに再び迎えられることもなければ、お昼も依然ひとりで食べている。倫子は気が向いたときだけ暁子のところにやってくる。それくらいの距離感でちょうどよかった。

 久遠寺邸には数回招かれ、お茶や勉強をご一緒した。

 意外にも倫子は学問の方はからっきしで、外国語だけでなく綴り方も算術も弱い。だけど観察眼があるというか目端のきいたところがあり、親しくなればなるほどに只者ではないと感じさせられる。

 たとえば、付き添いのクニが暁子と二、三の言葉を交わすのを聞いて、「ひょっとして広島の出かしら?」とぴたりと言い当てたことがあった。

「そうなの? クニ」

 本人に確認すると、「さようでございます」という返事がくる。

「やっぱりね。うちにも呉出身の女中がいるのよ。ああ、おさと。噂をすればだわ」

 お茶を運んできた若くて楚々とした女中に、倫子は女主人然とした笑みを向ける。

「こちらの女中さんもね、あなたと同じ広島の方なんですって。供待ち部屋に案内してさしあげて」

“さと”と呼ばれた女中に連れられクニが退出すると、使用人たちの出身地は把握しておいた方がいい、と助言を受ける。

「なにかの折にちゃんとそう言ってあげると、向こうも人の子だもの、喜ぶわよ。そうやって上手に使うのよ」

 さすが何百年にも亘って召使いを使い続けてきた家の娘だ。

 なぜ倫子が自分に興味を持つようになったのかは分からない。遊び相手にはこと欠かないだろうに。もしやエス関係を求めているのだろうか……と最初は若干身がまえたが、こうして二人きりになってもそんな空気はみじんもだしてこないので、どうやら考えすぎのようだ。

 エスというのは、シスターの頭文字のこと。女の園である女子学習院では、かわいらしい下級生や美しい上級生は人気者だ。机のなかに手紙をしのばせたり、贈りものをしあったり。なかには義姉妹の契りを交わす者同士もいる。

 暁子たちの学年でも、高等科のお姉さまから恋文をもらう方が、ちらほら現れはじめている。「あら、おすてきね」「見せて頂戴な」と周りに見つかったらことだ。

“わたくしの、かわいいかわいいリトルレディ……”なんて赤面ものの文面を読み上げられてしまう。

 尤も倫子に言わせると、

「金魚鉢のなかにメスの金魚ばかり入れてあるからよ。オスがいないんだからメス同士でくっつきあうしかないものね」

 とのことだ。そういう倫子こそ何通か手紙をいただいているようだったが。

「金魚だなんてあんまりな喩えね。そういうことは人前ではおっしゃらない方がいいわよ」

 紅茶と千疋屋のアップルパイをいただきつつ注意すると、

「もちろんよ。こんなこと言うの、この方だけよ」

 倫子は嬉しそうに笑い、優雅な手つきでフォークを操る。

 他の学友といるときの倫子は鷹揚で、品のいい態度を崩さないのに、暁子の前ではずいぶんと辛辣家で毒舌家になる。どちらがほんとうの彼女なのかは判別しがたいが、たぶん両方なのだろう。よそいき用の自分と地の自分を、ちゃんと使い分けている。そういう点で自分よりずっと倫子は “おとな”なのだった。

 例の事件について倫子は一切ふれてこない。詮索めいた質問も、同情と好奇心が混ざった視線も向けてこない。「お気の毒でしたわね」なんてお悔やみも口にしない。かえってそれに救われている。


 倫子にアドバイスされたように、使用人たちの出身地をきちんと覚えることにした。クニは広島。井上は新潟。女中頭の菊野と家令の田崎は、どちらも祖父母と同じ岡山の出であった。

「亡き御前さまがここにお邸をお建てになる前、それこそ授爵される以前からわたくしは仕えております」

 暁子の自室に呼ばれた菊野はそう語る。これまでたくさんの使用人たちを教育してきました、それはもう大変でした……と。

「なかには困った者もございました。手癖が悪くて盗みをはたらく者、喧嘩っ早い者、仕事ぶりはお粗末なくせに『表』の男連中にしょっちゅう色目を使う者なども」

 菊野は薄い眉をひそめて、ふ、と苦笑する。「当節は女中の質も落ちました」

暁子の傍らで聞いているクニは居心地悪そうだ。

「まあ、このクニなどはだいぶマシな方ではございますが。なにしろ目上の者の言いつけには素直に従いますので」

 ふと、クニの目が充血しているのに暁子は気づく。心なしか、まぶたもぼってりしている。

「どうかしたの、クニ? 目が赤いけど」

「い、いいえ。なんでもございません」

 クニは着物の袂で目もとを押さえ、鼻をすんとすする。それに菊野がじろりとした視線を投げかける。

「では、そろそろ失礼いたします。夕餉の指示がありますので」

 一礼して菊野が部屋をでていくと、暁子はクニに向き直る。

「クニ、ひょっとして泣いてたんでしょう。なにが悲しいの? 誰かにいじめられた?」

「いえ。いえ。ほんとうになんでもありません」

「うそ。絶対なにかあったのよ。昔から何かあるとすぐ泣いてたじゃない。ちゃんと分かるんだから」

 そう、クニは昔から泣き虫だった。

 暁子がセミの抜け殻を取ろうと木に登るたびに泣き、菊野に叱られるたびに泣き、「表」の男性職員から、ちょっとからかわれるだけでも涙ぐむほどだった。娘くささが抜けないが、そういうところが暁子には好ましい。母の死にもクニはたくさん泣いてくれた。

 クニの両手を握り「話してちょうだい。何かあって?」と再度尋ねる。クニはしばし視線を宙に泳がせるが、「クニ」と強めにひと声かけると、観念したように口を開く。貢が兵役につくのだという。

「――兵役?」

 思わぬことを告げられて目を丸くする。「それって……いつ、から?」

「明日の朝に入営するとのことでして」

「明日? ずいぶん急じゃない。そんなのわたし聞いてない。なんで教えてくれなかったの」

「申し訳ありません。申し訳ありません」

 クニはぺこぺこ頭を下げる。

「お嬢さまにはお知らせしないようにと……その、菊野さんからきつく申し渡されておりまして……」

 菊野め。ついさっきまでここにいたくせに。いけしゃあしゃあとわたしにそれを隠していたとは。

「菊野は貢が嫌いなのね。以前からなんとなく分かってはいたけど」

 クニは困った表情で、同意するでも否定するでもなく「はあ」とうなずく。

思えば昔から、自分が貢と遊ぶのに菊野はいい顔をしていなかった。なぜだか貢には当たりがきつく(基本、菊野は目下めしたの者にはそうなのだが)、だから自分たち三人は菊野の目を避けて遊んでいた。

 誘拐騒動のあと貢が祖父に気に入られ、祖父づきの書生となっても、菊野はそれとなく貢を無視し続けた。まったく大人げない態度である。そして事件が起きた。菊野からすれば、貢が入営していなくなるのは喜ばしいことだろう。

 この国の男子は二十歳になると徴兵検査を受ける。身体頑健な順番で上から甲、乙、丙、丁、戊の五種に振り分けられ、甲と乙の者のうち一部が現役兵に選ばれる。

 そういえば今年の春頃、黒田から倅が徴兵検査を受けてきました、なんてことを聞いていたような。では貢は現役兵士のくじを引いてしまったということか。クニに問うと、

「さようでございます」

 それでクニの目に涙の痕があったわけか。兵士の訓練期間は約二年。その間、外とは一切遮断される。それに配属先はどこになるか分からない。ひょっとしたら外地かも。

 貢と話がしたかった。今は十二月だ。三ヶ月前のあの事件以来、暁子は貢の顔を見ていなかった。いくら「奥」と「表」は厳然と区別されているとはいえ、同じ邸内なのだから会おうと思えばいくらでもできた。「表」の男たちが詰めている事務所へ足を運べばいいだけのこと。だけど、どうしてもそれができなかった。

 もしかしたら貢はわたしを恨んでいるかもしれない。憎んでいるかもしれない。わたしにはまだ父がいる。だけど貢はたったひとりの肉親を失ったのだ。母のせいで。うちのせいで。自分と貢とでは受けた痛手の度合いがちがう。

 もし貢がわたしのことを嫌いになってしまったとしたら――。

 そう思うと、貢に会うのが怖かった。他の職員たちの目もあった。ただでさえ「表」の事務所の方には、よほどの用事がない限りいかないように、と菊野から釘を刺されている。だけど、もう時間がない。明日には貢は発ってしまうのだ。

「あ、あのねクニ……お願いがあるんだけど」

 意を決して、クニの耳もとにささやきかける。

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