伯爵夫人鉄道情死事件(4)

 翌日の早朝。まだ暗いうちに自室を抜けだして、そろりそろりと階段を下りる。どんな早起きの使用人にも見つからないよう、注意して。

 制服の上にコートを羽織り本館をでると、少し離れた位置にある使用人用宿舎へ向かう。長屋に毛が生えた程度の設えだが、使用人にはただで住まわせている。そこの共用廊下の端の方、クニから教えてもらった部屋のドアを、遠慮がちにノックする。

「少々お待ちください。支度はすでに済んでおります」

 低い声が返ってくる。

「貢」

 小さく呼びかけると、ドアがおそるおそる、開かれる。

 三ヶ月ぶりに見る貢は、カーキ色の軍服姿に見たことないほど短く髪を刈り込んでいた。軍装も髪型もぜんぜん似合っていなかった。

貢は、あっけにとられた表情をして自分を見ている。

「お嬢さま……どうしてここに……こんな朝早くに」

 うめき声を洩らすようにして言う貢に、「クニに教えてもらったの」

 そう答えるや、するりと室内に入る。小さな部屋だった。自分の部屋に備えつけられた浴室と同じくらいの空間だ。こんな狭いところで親子ふたり暮らしていたなんて。

 室内はきれいに掃除されていて、家具は年季の入った文机と、折りたたまれて壁に寄せられたちゃぶ台しかない。いかにも、これから空き部屋になるという感じがする。

「貢、ひどいわ」

 切り口上の言葉が口から飛びでた。

「なんで入営のこと、わたしに教えてくれなかったの。わたしに黙って兵隊さんになるつもりだったの? ひどいじゃない」

 あ、いけない。こんなことが言いたいんじゃない。貢はこれから二年間お国のために働くのだ。敬意をもって送りださなければ……。ドアをノックする直前まで、そう思っていた。ちゃんと贈る言葉も用意して。

 なのに、いざ貢を前にしたら消し飛んでしまった。

「ごめんね、貢。ごめんなさい。ちがうの、忘れて今の。あの、どうぞご無事に。立派な兵隊さんになってください。武運長久をお祈りしています」

 たどたどしい口調でなんとか言うと、

「恐れ入ります」

 貢が深く頭を下げる。

「お嬢さまには長い間、大変お世話になりました。わざわざお見送りのお言葉をいただけるとは、誠にありがたく恐縮至極です。お身体にお気をつけて、お健やかにお過ごしください」

 すらすらとした話し方に、どうしようもなく距離を感じた。貢を見つめると、すっと視線を伏せられる。どうやら自分がここへきたのを迷惑に感じているようだ。それはそう。こんなところを誰かに見つかったら、貢が菊野に怒られる。言うべきことは言ったのだし、もう退出した方がいい。だけど――。

「貢」

 呼びかけて唾を呑む。一番尋ねたかったことを、おずおずと、口にする。

「わたしのことを嫌いになった? わたしと、お母さまと……この家を」

「とんでもございません」

 答える前に一瞬だけ貢は逡巡した。その一瞬間のためらいに、いろんな感情が入っていた。隠そうとしても隠しきれないの思いが。

「ごめんなさい」

 ぼそりとつぶやく。顔を上げて貢の目を見てもう一度、「ごめんなさい」

 とたん視界がぼやける。水の膜が両目に張ったからだった。

「とんでもございません」

 貢もまた同じ言葉を繰り返す。

「わたくしこそお嬢さまにはお詫びのしようもございません。旦那さまにも。奥さまにも。ほんとうです。本心です」

 と、目の端にやわらかいものが当てられる。木綿のハンカチだ。真新しくて清潔な。

 男の目のなかに映る自分が、まっすぐ自分を見つめている。なにかを見つけた猫のように瞬きもせず。そのまま時間が静止したような感覚になる。

 至近距離にある鼻柱を指先で、そっとさわる。なめらかな鼻梁がそこだけ歪んでいる。昔、折られた骨の痕。なつかしい痕。そのまま数秒間、ものも言わずに見つめあう。

 こんこん、と控えめに戸が叩かれて、はっとわれに返る。

「あのう、そろそろ他の者が起きてまいりますので」

 見張り役として廊下に立っているクニが、ドア越しにひそめた声でうながしてくる。

「分かったわ」

 貢と向かいあったまま、答える。もう時間切れだった。だけど会えてよかった。話せてよかった。最後にひと言。

「手紙を書くわ。貢も書いてね」

「承知しました」

「絶対よ」

 すると貢はふ、と薄い唇の端をかすかに上げて微苦笑する。

「お嬢さまの絶対には逆らえません」

「軍隊病に気をつけてね」

 そしてくるりと踵を返し、退室する。

「ありがとう、クニ」

 宿舎をでて本館に戻る途中、クニに礼を言う。クニが協力してくれたおかげで、貢をちゃんと見送れた。さびしいけど、心はすっきりしている。コートのポケットに手を入れると、

「あ」

 さらさらした布地にふれた。うっかりして貢のハンカチを持ってきてしまった。返しに戻ろうか。でも、それで誰かに見つかったら厄介だ。それに――なんとなく持っていたい。

「どうか、なさいましたか」

「ううん。なんでもない」

 ポケットのなかのハンカチを握り、首を振る。

 これは二年後に返そう。きれいにアイロンをかけて、刺繍でも施して(お裁縫は苦手だけも)。貢が除隊してくるまで大切に預かっておこう。

 朝の澄んで乾いた空気を吸い込む。吐く息は煙草の煙のように白い。冬が近づいてきている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る