第二章 伯爵夫人鉄道情死事件(1)
一
久しぶりに着る制服は秋ものになっていた。
暁子は濃紺のネクタイを鏡の前で結び、八重桜の徽章を胸もとに留める。もうはや十月だ。今日から通学を再開することにした。これ以上欠席を続けたら授業についていけなくなるし、長く休めば休むだけ、気持ちのうえでも復帰しづらくなる。
父は無理せずともよいと言ったけど「うちにいるよりマシですから」と答えると、黙ってしまった。実際そのとおりだった。
後始末には手間ひまかかった。後始末、というのは母の葬儀をはじめ遺品の整理、警察による事情聴取と華族の監督・統制・保護を司る宮内省宗秩寮への報告などなど。
邸内の人間には箝口令が敷かれ、けっして新聞や雑誌記者の連中とは接触しないようとのお達しがでた。けれど人の口に戸は立てられない。白川家の内情を書き立てた記事が、競うようにして新聞や雑誌に掲載されだした。それらはだいたいこのような内容だった。
《伯爵夫妻の夫婦仲は数年前からじょじょに冷え、伯爵は芸者を
男四十、女三十三。ともに分別も常識も備えた中年男女だ。それだけに、いったん愛欲の沼にはまり込んだら抜け出せない。やがて夫人は自分が妊娠していることに気づき、箱入り妻の哀れさで適切な対処法もとれないままに腹がふくらみ、かくなるうえは死ぬしかないと思い詰めた挙句の悲劇――》
そういった煽情的な雑誌記事を読んでいる途中、たまらず吐き気が込み上げて自室のトイレットで何度かもどした。
母が身ごもっていたなんて知らなかった。気づかなかった。
そういえばあの日――母との永遠の別れとなった誕生日の前日――母の腰まわりは心なしか、ふっくらして見えた。少しお太りになったのかとも思ったけど、まさか赤ちゃんがいるだなんて想像もつかなかった。
なのにどうして死んだのか。しかも黒田と。
考えたくない。考えてはならない。こんな記事なんて嘘だ、でたらめだ。
母の死以来、繰り返し自分にそう言い聞かせている。言い聞かせることで吐き気をこらえている。なのに気づいたら、いつも考えてしまっている。母のこと、黒田のこと、母のお腹のなかにいた自分の妹か弟のこと。もしかしたら自分のきょうだいであるだけでなく、その子は貢のきょうだいでもあったのかもしれない……と。
そこまで考えたら再び吐き気をもよおして、トイレットへ駆け込む。吐きすぎて喉がひりひりした。
いつとはなしにこの事件は「伯爵夫人鉄道情死事件」と呼ばれるようになっていた。
有識者たちがさまざまな意見を寄せた。母のことを「姦婦」「淫婦」となじるジャーナリストがいる一方で、母は男性中心社会の犠牲者だと論じる婦人活動家もいた。昨今の華族の風紀紊乱を嘆く教育家に、この一件で運転手という職業に偏見を抱いてはいけないと訴える自動車評論家まで。どの人もこの人も、事件にかこつけてまったく好き勝手なことを言ってくれている。
ある新聞では、さっそくこの事件をモデルにした小説の連載がはじまり、ラジオドラマにまでなった。多くの人が母と黒田の死を娯楽として消費した。「二・二六事件」や「阿部定事件」がそうであったように。
自分にとってはこれ以上ないほどの痛みが、他人にとってはいい暇つぶしになっている。世間とはそういうもの。人とはそういうもの。そういうことがこの数週間で分かってきた。
ふしぎなことに黒田への恨みはなかった。怒りも。もう黒田の運転する車に乗ることができないのだと思うと、さびしさすら感じた。ただ単に、母を亡くした悲しみで心がいっぱいになってしまって、黒田の死を悼むだけの余裕がないだけかもしれない。
いずれにせよ、暁子にとって黒田の死は「悲しい」というよりも「さびしい」感じに近い。怒りはむしろ父に向かった。別宅の女にかまけてばかりいて、母を苦しめ追いつめた父に。
お母さまがあんなむごいことになったのは、お父さまのせいです。お父さまがお母さまを大切になさらなかったせいです。
母の死とともに、自分のなかから父を敬う気持ちも消えた。もうこれまでと同じように父を見ることができなくなった。
身支度をすませると階段を下りて両親の部屋――今は父ひとりの部屋となったわけだが――の扉をノックする。
「お父さま、ではいってまいります」
「うん」
カフェオレにクロワッサンをとりながら新聞を読んでいる父に挨拶する。最近になってようやく「伯爵夫人鉄道情死事件」関連の記事を見かけなくなってきた。この三週間で、父はめっきり白髪が増えた。目の下が落ち窪んで隈が消えず、モダンな風貌なだけに老け込み具合が痛々しい。
父が新聞から顔を上げ、なにか言いかけようとするが、それより早く扉を閉める。
黒田の死により助手から正運転手に昇格した井上が、ぴかぴかの新車のフォードを運転する。ちなみに事件現場の付近にあった旧フォードは処分された。
さて、久々の学校だ。教室へ入る前に深呼吸をして、気持ちを整える。勢いよくドアを引いて、努めて明るい声をだす。
「ごきげんよう」
瞬間、教室内のおしゃべりが中断する。水を打ったように、しんと静まりかえる。どなたも「ごきげんよう」と返してこない。全員の視線が暁子にさっと集まり、すぐさまそらされる。まるで目をあわせるのを恐れるように。
「るつ子さん、ごきげんよう」
奥寺るつ子に声をかけると、彼女は目を伏せて「ごきげんよう」とぼそりと言う。
「ずいぶんご無沙汰してました。また仲よくしてくださいませね」
暁子の言葉に「ど、どうも……その」目をあわせずに、るつ子はごにょごにょつぶやく。
「ねえ、そういえば昨日この方のおっしゃっていた……」
そばにいる生徒にるつ子は話しかけ、暁子の方を一瞥もしない。お願いですから寄らないでくださいな、と全身で訴えかけてきた。
るつ子に限らずほとんどの級友がそんな反応を示した。腫れものにさわるかのように自分に接し、憐れみと好奇が入り混じった視線を向けてきた。考えてみたら当然だった。
お抱え運転手と心中するなんて、母のしでかしたことは華族社会に爆弾を投げ込むようなものだった。おおかた級友たちは保護者から、あのお宅のお嬢さんと仲よくなってはなりません、とでも言われているのだろう。
そうでなくとも白川家は、今や華族界のつらよごしだ。へたに暁子と関わったら自分まで教室内の立場が下がるかもしれない……と、るつ子たちが感じているのが手にとるようにつたわってきた。
いじめられてるわけではない。あからさまに除外されるわけでもない。ただ、誰からも積極的には話しかけられない。まるで外国人にでもなったような気分だった。自分たちとはちがう者という目で見られ、異分子として扱われる。
去年、女子学習院に短期留学していたシャム国からの令嬢がそんな感じだった。漆黒の髪にはちみつ色の肌をした美しい方だったが、校舎内ではいつもひとりで、ぽつねんとしていた。
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