ひどすぎて涙もでない(10)
翌朝、暁子が両親の部屋へいくと、父は不在だった。菊野によると「朝早くお出かけになりました」とのことだ。
さてはさっそく母の実家へ迎えにいったのだろうか。今日にでも母は戻ってくるかもしれない。学校から帰ったら、父と母がそろっているかもしれない。そんなの何年ぶりだろう。それって最高のバースデー・プレゼントだ。
今朝も井上が運転するパッカードで通学し、学校では学友の方がたからプレゼントをいただいた。レターセットやリボンや白檀の匂い袋などを。そうして夕方前に帰宅すると、門前に人だかりができている。何人もの男たちが塀のあたりにいて、なかにはカメラを抱えた者もいる。
「なあに、あの人たち」目を丸くする暁子に、
「なんでもございません」
井上が硬い声で応じクラクションを鳴らすと、男たちは一斉に車に駆け寄ってくる。
「お嬢さまですね? 最後にお母さまとお会いしたのはいつですかっ」
「ご愁傷さまです。ちょっとお話をうかがわせてください」
「黙れ、貴様らっ!!」
井上が窓を開け、軍隊仕込みの重低音で一喝する。しんとなった隙に門が開かれ、パッカードは素早く屋敷内へ進む。その直後、門は再び門番によって錠される。
「ねえ、さっきの人たちは何なの? 変なことを言ってたけど」
尋ねるが、井上は貝のように押し黙って答えない。本館に入ると、旦那さまが書斎でお待ちです、と女中から告げられる。
「お父さま、お帰りになってるのね。お母さまは? お母さまもご一緒よね」
女中もまた答えずに、そそくさと立ち去ってゆく。
父は書斎の長椅子に腰かけて洋酒のグラスを手にしていた。「ただいま帰りました」暁子が入室すると、うなずいて隣に座らせる。
「門の前に記者たちが張りついていて、驚いただろう」
「記者?」
「萬朝報に朝日に讀賣ってところかな。連中、千葉の方にもさっそく来ていたよ。さすが新聞屋は鼻が利くね」
父はグラスの酒を口に含む。千葉? 父は今朝早くに千葉までいってたのだろうか。母の実家の子爵家は都内にあるのに。暁子がそう言うと、
「そうだった。あちらの方がたにもご連絡をしないとな。いや、もしや記者連中の方が先に知らせているかもしれん。まったく……」
どくん、といやな具合に胸が鳴った。なぜ新聞屋が邸の前に張りついているのだろう。なぜ父は強い酒を割りもせず、生のままで呑んでいるのだろう。なにか、あったのだろうか。酒を呑まなければいけないようなことでも。父の目には稲妻のような細い血管が浮いていて、顔色はまっしろだ。
父は娘を隣に座らせて頬を撫でる。冷たい指。「暁子」と呼びかけて、
「悲しい知らせがあるのだよ。よくお聞き」
「いやです」
とっさに言う。聞いてはいけない。悲しい知らせなんて聞いてはいけない。絶対いけない。立ち上がろうとすると腕を掴まれ、抱きしめられる。
「聞きなさい」
「いや。聞きたくない。聞きたくないの、どうかお父さま」
「お母さまがね、今朝……」
耳もとで父はささやく。それは毒液のような内容だった。今日未明、千葉方面の鉄道路線の近くで母が発見されたという。そばにはもうひとつ遺体があった。直ちに身元が判明したのは、男の方の上着の懐に、白川家の紋章がついた制帽が入っていたからだそう。
聞きながら手足の先が冷えていく。今日は自分の十三歳の誕生日だ。自分がこの世に生まれた日に、自分をこの世に産みだしてくれた母が死んだ。「二・二六事件」も「阿部定事件」もなにほどのものか。こんなにひどい、ひどい、ひどい事件は他にない。ひどすぎて涙もでてこない。
五
大和日日新聞、昭和十一年九月十七日の朝刊より――。
【白川伯爵家の令夫人、お抱え運転手と鉄道に飛び込み情死す】
《十六日早朝、東京駅発千葉方面行きの国鉄電車に男女が飛び込み、撥ね飛ばされて共に命を落とす事件が発生。運転士の証言によると、両名は電車が近づいてくる直前、土手から不意に現れ抱きあったまま身を投じたとのこと。
婦人は、数々の元勲で爵位を授けられた故・白川玄治郎伯の嫡子、玄真現伯爵の妻、桜子(三三)。男は同邸で長らく運転手を務める黒田秀一郎(四十)であることが判明。二人は前日の十五日午後、自家用車で外出したまま行方を絶っていた。遺体発見時、互いの腰が麻紐で固く結ばれていたことから事件性はなく、覚悟の心中と思われる。なお検死の結果、夫人は妊娠中であったことが判明し……》
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