ひどすぎて涙もでない(9)
その日の放課後、迎えの車を運転してきたのは井上だった。
「お嬢さま! こちらであります!」
予備の自家用車であるパッカードの隣で井上が直立不動している。
「そんな大きな声をださないで。恥ずかしいわ」
「は! 申し訳ありません!」
周りの女生徒がくすくす笑う。
「黒田はどうしたの?」
後部座席に乗り込んで尋ねると、「奥さまがフォードを使っておりまして、その運転を」とのことだ。
「そう。どうか安全運転でお願いね。井上」
「は! もちろんであります!」
ハンドルを握りながら叫ぶものだから、ひやひやしてしまう。しかもパッカードは左ハンドルだ。井上も運転ができることはできるのだが、慣れない外国車を操るのは難儀ではないだろうか……。
ひやひやしつつも、ルームミラーに映る彼の顔があんまり真剣なものだから、隣のクニと目を見交わせて、しのび笑いを洩らしてしまう。
車は無事に――普段の倍の時間をかけて――邸に到着する。後部ドアを開ける井上は汗をびっしょりかいていた。藍色の制服の腋下の色が濃くなっている。
「八十点ってところね。これが朝だったら間違いなく遅刻してたでしょうけれど。ご苦労さまでした」
からかい口調でねぎらうと「は! 恐れ入ります!」と敬礼される。
「お帰りなさいませ」
出迎える女中頭の菊野に「お母さまはまだお戻りじゃないの?」と問うと、
「さようでございます」
冷たい水のような声で言われる。
「お買いものに出かけるとのことでした。銀座か日本橋あたりではないでしょうか」
「そう」
暁子は自室へ入ると、制服から部屋着に着替える。銘仙の生地の小花模様のワンピースだ。これはクニが着物を仕立て直してくれた。学習院の「供待ち部屋」で裁縫のお稽古を何年も受けるうち、和裁も洋裁も先生並みの腕前になっていた。
クニの淹れてくれた紅茶を飲みつつ、お茶請けのクッキーをつまむ。クニにも勧めつつ、
「ねえ、お母さまのお買いものって何かしら」
「きっとお嬢さまへの贈りものでしょう」
遠慮がちに一枚だけつまんでクニが答える。
「お嬢さまに知られないよう、わざわざお出かけになったのですよ」
「やっぱりそう思う? なんだろう。楽しみだなあ」
普段の買いものであれば、わざわざ百貨店まで出向かなくとも、店の者をうちへ呼べばいいことだ。実際、三越や高島屋の番頭が商品見本やカタログを持参して、たびたび母の元へ来ている。しかし、わざわざこちらから出向いたということは、買いものの内容を自分に秘密にしたいからではないだろうか。
お母さまったら、と胸のうちでつぶやき、自然と顔がにまにまする。
「今日ね、お友だちから、お母さまは白蓮に似てるわねって言われたのよ」
「白蓮……でございますか?」
首をかしげるクニに、柳原白蓮について説明する。
絶世の美貌で知られた女流歌人で、年の離れた炭鉱王を夫にもちながら、愛のない結婚生活を捨て年下の恋人と駆け落ちした女性である。なんでもかのベストセラー小説『真珠夫人』のモデルであるとか。
「でも、お母さまの方が白蓮よりきれいよ。そう思わない?」
そんなことを話しながらおやつを終えると、眠たくなってきた。
「少し、お休みなさいますか」
クニに勧められて午睡をとることにする。ワンピース姿のままベッドに入って目をつむると、たちまち眠りに落ちてしまう。
目覚めると外は真っ暗だった。飾り棚の置き時計に目をやると、七時半になろうとしている。ほんのちょっとのつもりだったのに、ずいぶん寝てしまった。
「クニ。だれか。いないの?」
廊下にでて呼びかけると、いつもなら誰かしらやってくるのだが、しんとしている。階段を下りて一階のサロンへ足を運ぶと、珍しいことに「奥」と「表」両方の職員たちが集っていた。「表」の男たちは普段、事務所と呼ばれる他の棟に詰めているのに。
「どうしたの、みんなして」
声をかけると、一同がはっとして暁子を見る。みな一様に顔がこわばっていた。
「暁子さま、
ひとり冷静な様子の菊野が、暁子の寝ぐせを手で整える。
「ね、お母さまはどちらにいらっしゃるの?」
「奥さまはまだお帰りになっておりません」
毛先のもつれを骨ばった指で梳く。母とはまたちがう意味で、この菊野も昔から変わらない。顔の造作自体は整っているのに、めったに笑わず、泣かず、表情を崩さない。年齢はいくつなのか見当もつかない。暁子が生まれる前はもちろん、母が嫁いでくる前からこの家に仕えていた。暁子にとっては頼もしくも怖くもある存在だ。
「まだお買いものをしてるのかしら。ずいぶん遅いのね。お珍しい」
「ええ」
菊野の背後の者たちは硬い表情を浮かべたまま、互いに目配せしあう。どうも妙だ。
「ねえ、みんなでここに集まって何してるの? 何かあったの?」
菊野はそれには答えず、「クニ!」と鋭い語調で隅に控えているクニを呼ぶ。
「お嬢さまをお連れしなさい。今日の夕餉はお部屋でとっていただくように。すぐに運ばせます」
「かしこまりました。さ、暁子さま」
菊野の顔色をうかがいながら(それはいつものことだが)、微笑みかけてくるクニの様子も、なんだか変だ。どこかおかしい。
「菊野、教えてよ。何かあったのでしょう」
女中頭をまっすぐ見つめて再度問うと、
「旦那さまがお帰りになりました」
低く、よくとおる声がサロンに響きわたる。貢だった。
こざっぱりと刈り込んだ短髪に、立ち
貢に続いて父の玄真がサロンに入ってくる。二日ぶりのご帰宅だ。傍らには家令の田崎が。
「みな持ち場へ戻るように」
田崎のひと声で、使用人たちは粛々とサロンから出ていく。
「お父さま、どうかなさったの? みんなの様子が変だし、お母さまはまだ帰ってらっしゃらないし。何かあったのなら暁子にも教えてください」
「なんでもないよ。さあ、二階へいっていなさい。お父さまは田崎と話があるからね」
父に頬を撫でられる。その手には母のものとはちがう脂粉のにおいがついている。
父は田崎と菊野の他、主だった者だけを室内に留めてサロンの扉を閉ざす。そのなかにはなぜか貢と井上もいた。
なにがなんだか分からなかったが、おとなしく自室へ戻り夕食をとることにする。入浴もすませ、時計の針が九時をまわっても母は帰ってこない。
「もしかしてお母さま、ご実家にお戻りになったのかしら。『
眠くないけど寝支度をして、猪毛のブラシで髪をとかしてくれるクニに探りを入れてみる。
そうだとしたら、使用人たちが気まずい表情をしていたのにも納得がいく。父が妾宅に通いすぎていることは邸内の者全員が知っている。いつだってお淑やかな母だけど、内心では怒りを溜め込んでいて、夫への抗議として実家に戻ってしまったとしたら……。
「ねえクニ、そうなんじゃない? いいのよ、隠さなくとも」
「あ、あの、その、ええと」
あたふたするクニの反応に、確信を得る。そうだ、そうにちがいない。それでしばらく実家にいて、父がたっぷり反省した頃合いを見計らって帰ってくるつもりなのだ。あるいは父を迎えに来させるか、だ。
そういえば今朝の母は別れ際、ちょっぴり涙ぐんでいた。あれはきっとしばらく留守にするけどごめんなさいね、の涙だったのだろう。
「きっとそうよ。お母さまの気持ち、分かるわ。それくらいやっちゃってもいいと思うわ。ここ最近のお父さま、調子に乗りすぎよ」
まあ、なにも娘の誕生日の前日に決行しなくてもいいものを……と思わなくもないものの、それくらいのタイミングの方が効果てきめんかもしれない。母の意外な行動力に感心する。でもやっぱり予め打ち明けてほしかった。わたしはお母さまの味方なのだから。
「どう? この推理。黙ってるってことは当たりってことね」
ふふんと得意げに鼻を鳴らすと、クニは神妙な面持ちで下がる。明日の朝、さっそく父に「早くお母さまを迎えにいってください」と催促することにしよう。
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