ひどすぎて涙もでない(8)

「ごきげんよう、みなさん」

「ごきげんよう、暁子さん」

 教室では学友たちが、今日の互いの髪型を褒めあっていた。

「この方、今日のカール、おきれいですわね」

「あら嬉しい。この方こそリボンの結び方をお変えになって? 洒落ていますわ」

「うふふ。『アンナ・カレニナ』のガルボさまを真似てみたの」

“この方”とは“あなた”という意味だ。ガルボさまとは、つい先に公開された外国映画の主演女優グレタ・ガルボのこと。教室内ではマレーネ・ディートリヒ派と、ガルボ派の二大派閥のファンが目下、楽しく対立しあっていた。

 夏休みが終わって早半月。のんびりした気分もようやく抜けてきた。思えば今年の前半は、ただならぬ事件が立て続けに起こった。まずは二月の下旬の“帝都不肖事件”だ。

 現在の政治に不満を持つ陸軍の青年将校の一部が、武装決起を企てて、鎮圧された大規模な叛乱クーデター未遂事件だ。大蔵大臣をはじめ政府の要人が何人も殺され、東京は丸四日間、機能不全状態となった。

 そして五月に、この叛乱事件の衝撃を上まわるかのような猟奇的事件が起きた。ある料亭の女中が情人を殺し、なんと男性にとって大切な部分を包丁で切り取ってしまったのだ。

 現在、前者は事件の起きた日付けから「二・二六事件」、後者は下手人の名前から「阿部定事件」と呼ばれている。かたや国家的規模の大事件、かたや男と女の情痴事件。スケールも中身も正反対だが、世間に与えたインパクトはどちらも負けないくらい、大きい。

「この方、この方」

 一時限目の英語の教科書と帳面を机の上に並べていると、小鳥がさえずるような声をかけられる。奥寺商事会社の令嬢、るつ子だ。

「明日はこの方のお誕生日ですわよね。今年もお茶会ティー・パーティーのご招待にあずかることはできるかしら?」

 るつ子は「ティー・パーティー」の部分を英国風に発音する。三つ編みのおさげ髪に、セーラー服と同様に制服とされているジムドレスをまとっている。暁子は毎年誕生日に、白川邸本館の大広間で開くパーティーの他、学友たちを招いてのお茶会を開催している。

「ええ、もちろん。近いうちに、うちの者から連絡がいくと思うわ。きてくださる?」

「もちのろんよ」

 るつ子はにっこり笑う。

 ここ女子学習院には華族の他、平民の上流家庭の娘たちも少なからず在籍している。銀行家や高級官僚、大手企業の社長令嬢などなどだ。

 華族内でも公卿、大名、成り上がりの「新華族」とさまざまな種類があるうえに、爵位はなくとも金はあるこれら富裕層の子女も混在しているのだから、教室内には微妙な階級意識が揺曳している。

 たとえば侯爵家の生徒が、それより下位にあたる伯爵や子爵、男爵家の者を遊びに誘うのはかまわないが、その逆はしてはならない。不敬にあたるから。また、自分の先祖を非常に誇りとしている方もいるので、うっかりしたことも言えない。

「そういえば、徳川家康のあだ名は“タヌキ親父”っていうんですってね」

 あるとき雑談中に戦国武将の話題になり、暁子がなにげなくそんなことを口にしたら、ひとりの級友から鋭い視線を向けられた。その方は徳川御三家の血を引く方だった。

 奥寺るつ子は士族出身で祖父が軍人、父は経済界で名を成した新興財閥の娘である。学習院には中期から入学した「編入組」だ。幼稚園から自動階段エスカレーター式に上がってきた華族のお姫さまたちにどこか遠慮してるというか、平民ゆえの気兼ねめいたものを感じているようだった。なので、華族とはいえ成り上がりの新華族である暁子には親近感を感じるらしく、なにかと話しかけてくる。

 一方の暁子は、にわか貴族な新華族であることに特に引け目は感じていない。教室内で成績は優秀な方だし、運動もできる。加えて気も強い。なかなか人気者なのではないかと自負している。

「暁子さま、わたくしもお茶会にお召ばれしたいわ」

「あら、わたしはご招待してくださらないの。ひどいわ暁子さまったら」

 小鳥たちがぴいちくぱあちく鳴くみたいに、周りの女子が話しかけてくる。暁子の周囲には自然と新華族、および平民階層の方たちが集ってくる。なので自然と側の代表みたいな感じになっている。

 暁子としては公卿や大名華族の方たちとも、もっと親しくなりたいのだけど、はあちらで固まっている。そしてあちらとこちらでは、微妙に対抗意識が漂っている。まったくガルボとディートリッヒの派閥以上に面倒くさいことだ。

「この方のお母さまっておきれいよね。去年のお茶会でご挨拶をしたとき、ぽーっとなってしまったわ。柳原白蓮に、ちょっと似てらっしゃらない?」

「嬉しいわ。母にそう伝えておくわね。今年も楽しいお茶会にいたしましょう」

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