ひどすぎて涙もでない(7)
四
昭和十一年、九月十五日。
この日は朝から「奥」が慌ただしい。女中頭の菊野の指示で女たちが邸内を磨きたて、忙しくも弾んだ空気が流れている。
セーラー服に身を包んだ暁子は自分の部屋でクロワッサンとカフェオレの朝食をすませると、階段をとんとん下りて両親の部屋へいく。父、玄真の姿は今朝もなく、母の桜子がひとりで朝餉をとっていた。味噌汁にごはん、海苔の佃煮に梅干しという簡素な献立だ。
西洋帰りの父に倣って暁子はフランス式の朝食を取り入れているが、桜子は朝は必ず和食だった。数年前までは夫にあわせてパンやチーズ、バターをたっぷり使ったオムレツなどを一緒に食べていたけれど、夫婦そろって朝食をとる回数が減るにつれ、次第に和食へ戻っていった。
「お母さま、ごきげんよう」朝の挨拶をすると、
「はい、ごきげんよう」
たおやかな笑みを返される。すでに身づくろいをして薄化粧をしている母は今日も美しい。三十を過ぎているというのに、暁子が小さい頃と見た目は少しも変わっていない。
薄鈍色の単衣に紫色の名古屋帯。つややかで豊かな黒髪を品よく結い上げ、襟足はすっきりと両端だけを細く残した、みつえり。昨今流行のウェーブをかけた耳隠しやパーマネントには見向きもせず、母は昔ながらの丸髷派だ。それがまた純和風の顔立ちとあっている。
一方、娘の自分はどちらかというと中性的な風貌だ。きりっとした眉に、女にしてはやや強めな目つき。顔のパーツの一つ一つがくっきりしてて、我ながらなよやかさに欠けていると思う。尤も父に言わせると「暁子の顔はパリへいったら大もてだ」とのことなのだが。
髪型は、学校でも流行っている肩先で切りそろえた断髪だ。毎朝クニが西洋こてで毛先を巻いてくれる。
父はまだ眠っているのか、それとも昨夜は帰らなかったか。それについてはふれないで「いって参ります」と母に言う。
「玄関までお見送りしましょうね」
いつものようにそう言って母は立ち上がる。その動作が心なしか、しんどそうだ。
「お母さま、お身体の具合でもお悪いの」暁子が問うと、
「いいえ。朝ごはんをちょっと食べすぎちゃったのよ。お代わりまでして」
母は恥ずかしそうに首を振り、帯に手を当てる。そういえば母はこのところ、腰まわりがちょっぴりふくよかになってきた。とはいえ元が細いので、太ったというほどでもない。お尻が前より大きくなって、身体の線が優美な丸みを描いている。
隣の室の一隅にある仏壇に、暁子は手を合わせる。三年前に祖母が、その翌年に祖父が続けざまに亡くなった。毎朝、通学前には手を合わせる。今日も一日安全でありますように、と。
「おじじさま、おばばさま、いって参ります」
祖父母が存命の頃と同じようにご挨拶をする。玄関前ではフォードがすでに待っていた。
「ごきげんよう黒田、ごきげんよう井上」
「は! おはようございます!」
井上は大きな声で軍隊式の敬礼をする。運転助手になってもう七年も経つけれど、なかなか上等兵気質が抜けない。女中たちからは人気マンガの主人公にちなんで「のらくろさん」なんて呼ばれている。
井上にドアを開けてもらい、車に乗り込もうとすると、
「暁ちゃん、こっちを向いて」
母に呼びとめられる。母は暁子をじいっと見つめて、
「暁ちゃんは本当にいい子ね。大好きよ」
「どうなさったの、お母さま」
いきなりそんなことを言われ、目をぱちくりさせる暁子に、母は微笑む。
「いえね、明日は暁ちゃんのお誕生日でしょう。なんだか母さま、おセンチになってしまって」
切れ長の目もとが少しばかり潤んでいる。そう、明日は自分の十三歳のバースデーだ。
「わたしはお御馳走が楽しみです。ねえクニ、ケーキを一緒に食べましょうね。きっと生クリームがむるむるよ、むるむる」
後ろに控えるクニに、おどけた口調で話しかける。明日は邸内でパーティーが開かれるのだ。
「明日が待ち遠しいです。きっと今夜は眠れないわ」
母はたおやかな笑みを浮かべたまま「さあ、いってらっしゃい」と言う。いつものように車が門を越えるまで、邸の玄関前に立ったまま見送ってくれる。
「ねえ黒田、黒田も井上も明日の大広間でのパーティーにきてね。遠慮しないでね。貢も連れてきてね」
赤坂離宮の横、銀杏並木の真ん中を走る車内で、暁子は前の席の男たちに話しかける。
「恐れ入ります」
ハンドルを繰りながら黒田はうやうやしく答える。白川家では暁子の誕生日には、使用人たちにも本館の大広間を開放して立食形式のパーティーを毎年、している。そのため今日のうちに邸内をきれいにしているのだった。
パリの名門レストラン、トゥール・ダルジャンで修行を積んだコックの高田が、今年も存分に腕を振るってくれるだろう。去年は鴨料理がことにおいしかった。それとクレープシュゼットも。
「貢は元気にしてる? 今月に入ってから、わたし一度も貢の顔を見てないのよ。このままだと忘れちゃうわ」
貢は現在、家令の田崎の下で働いている。役職は「家丁」だそうで、書生に毛が生えた程度の下級職員だ。しかし亡き御大にかわいがられていたのと、中学まで出た頭のよさを買われ、いずれは「家従」「家扶」へと出世していくのではないかと見込まれているようだ。今年で満二十歳になる。
「クニは貢とよく会ってるの?」
「わ、わたくしはその……使用人用の食堂などで、たまに」
「いいなあ、クニは。好きなときに貢と会えて」
「い、いえ、ほんの時たまです。時たまっ」
早口でクニは言う。暁子より八つ年上で今年、二十一になる。親元から、そろそろ帰ってきて見合いでもしないかという便りも届いているらしいが、目下その気はないようだ。
愛嬌のある丸顔は少女時代と変わらないが、女らしさが備わってきて、胸も尻も張っている。好きなものは宝塚歌劇団。週に一度の休日には女中仲間とレビューを観にいっている。
「お父さまは明日は帰っていらっしゃるわよね」
クニに答えを求めるふうでもなく、ひとり言めいて暁子はつぶやく。こんなことを尋ねられてもクニも困るだろうから。
父には現在、うちとは別に家がある。別宅――すなわち世話をしている女性の宅だ。
上流階層の男が
だから父が妾をもっているというのも、とりたてて不品行というわけではないけれど、娘としては複雑な気分である。
それも月に二、三日くらい通うというのならともかく、この半年ほど、週の半分は別宅さんのところから議会へいってるようだった。それだけでなく新橋や神楽坂などでも盛んに芸者遊びをしているらしい。
邸内にいると、「奥」の女たちが交わす噂話は、どうしても暁子の耳にも入ってくる。
「柳橋出身の奥さまをお迎えになって、お妾さんまでが柳橋の方なんて……ねえ」
「お若い頃の旦那さまは名うての遊び人でいらしたから、やっぱり玄人の方がお好みなのかしら」
母への同情とも揶揄ともつかないことを女中たちは陰で口にしている。それはつまり、母を舐めているということだった。なにごとにも控えめでおっとりしている母は、使用人に強くでたり、厳しい態度をとったりしない。それはまた威厳のなさにもつながりやすい。不在が続く夫を責めることもせず、美しい日本人形のようにいつも微笑みを浮かべている。
そんな母が暁子にはいたわしい。なぜお父さまはよそに女の人をこさえたのだろう。
祖父母が健在だった頃は、父の身持ちは固かった。母との仲は睦まじく、娘の目にも両親は愛しあってるように映った。それが、三年前に祖父母が相次いで世を去ってから、重しでも取れたかのように父は女遊びをするようになった。母への気持ちが冷めたのか。それとも、もとの地がでてきたのか。
「もちろん旦那さまはいらっしゃいますとも」
クニが、暁子の気を引きたてようとするように、明るく言う。
「楽しいパーティーになりますわ、絶対」
陸軍大学が右手にある女子学習院に到着する。クニを伴って中等科の校舎へ入り、供待ち部屋の前で別れる。
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