ひどすぎて涙もでない(6)

 この誘拐騒動は世間のおおやけにはならなかった。

 事件発生から数時間で解決したこと。犠牲者がでなかったこと。なによりも攫われたのが華族の令嬢であったことから、事件が表沙汰となり新聞などで面白おかしく扱われることがないよう警察側が便宜を図ってくれた。

 あの日、暁子たちが車ごと連れ去られた後、白川家には身代金を要求する電話がかかってきたそうだ。すぐさま警察に通報し、金の受け渡しを指示する犯人からの二度目の電話で、逆探知に成功。誘拐犯らの潜伏先の目星をつけた。

 同様の手口の事件が半年ほど前から数件、起きていた。無事に解放された被害者たち(その全員が就学前の良家の子女だった)の証言から、監禁場所が水辺の倉庫地帯らしいということも調べていた。そして逃げたクニが近くの商店へ駆け込み、最寄りの警察署へ連絡した。これらが重なってスピード解決となったのだ。

 とはいえ、逮捕されたのは倉庫に残っていた二名だけだった。

 刑事たちを周囲に張り巡らせていた身代金受け渡しの場には、誰も現れず、主犯格である金歯の男の行方は掴めていない。おそらく、仲間を見捨てて高跳びでもしたのだろうというのが警察側の見立てだった。


 ともあれ事件は落着し、これにより名を揚げたのは貢だった。

 主家の令嬢を身体を張って守り抜き、その冷静さと勇敢さは刑事からも褒められた。背広の男に痛めつけられて肋骨にひびが入り、鼻骨も折れる大怪我を負ったが、それも「名誉の負傷」と称された。

 とりわけ感心したのは隠居したおじじさまの、玄治郎だった。

女子おなごを先に逃がすとは、それぞ男だ」「きょうび大名華族や公卿華族にもこれほどの忠臣がいようか」と褒め称え、御大自ら貢の入院している病院へ見舞いにいき、父親の黒田を大いに恐縮させた。

 その黒田だが、うかうかと車を奪われてしまった過失は、息子の手柄と相殺という意味あいも込めて不問に処され、これまでどおり運転手を任されることとなった。ただし助手には息子に代わって軍隊上がりの若い男がつけられた。井上という、小柄だががっちりとした体格の青年で、銃剣道の達人だとか。

 そして貢は傷が癒えると、玄治郎づきの書生へと抜擢された。加えて白川家が学費を負担し、一年遅れで中学校へ通うこととなった。どちらも玄治郎の指示だった。一介の使用人に対して破格ともいえる扱いだが、隠居したとはいえ今なお邸内で最も重んじられている御大の決めたこと。異を唱える者は誰もいない。

 かくして貢は昼間は学校へ通い、夕方帰ってくると、離れの隠居所で祖父の相手を務めるようになった。身辺の雑事をしたり、将棋の相手をしたりと。暁子からすれば、祖父に貢を取られたようなかたちとなった。

 同じ邸内に住んでいながら顔をあわせる機会がぐんと減り、まれに廊下や、庭を散策する祖父のお供をする貢と出くわすと、そのたびに背が伸びていてびっくりさせられた。詰め襟の学生服が意外なほど似合っていることにも。

「貢と遊べなくなって、さびしいね」

 祖父につき従って隠居所へ戻っていく貢の後ろ姿を眺め、クニにこぼすと、

「そうでございますね」

 かすかに頬を染めてクニはうなずく。

 この三年後、海の向こうで高名な飛行家、リンドバーグ氏の愛児が誘拐される事件が起きた。犯人はなかなか捕まらず、もしやあのとき逃げおおせた金歯の男の仕業ではないか……と暁子はかなり本気で思った。

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