ひどすぎて涙もでない(5)

 若い方の男が倉庫をでていき、ほどなくして戻ってくる。煙草にビール、軽食などを買ってきた。

「ほらよ」

 サイダーと、これまで見たことない菓子を与えられる。黄色い三角形のカステラで真っ黒い羊羹を挟んである。シベリアというそうだ。こってり甘くてボリュームがあり、開新堂のロシアケーキに負けないくらい、おいしい。サイダーとすこぶるあう。お腹がひと段落すると気持ちに余裕がでてきた。

 男たちは離れたところでビールを呑みながら談笑している。背広の男はさっきからクニをちらちらと見て、いやな感じの笑みを浮かべる。クニの顔は蒼ざめている。

 いつしか窓の外は日が暮れようとしていた。倉庫内には電灯はもちろん、ランプもない。空間が薄暗くなってくるのを見定めて、貢がそろりと立ち上がる。男たちに気づかれないよう、材木の近くの窓辺に寄る。汚れてくもったガラス窓は、貢の背丈より少し上の位置にある。開け閉めできるのを確認してから、貢は二人を手招きする。声をひそめてクニに言う。

「まずあんたが窓によじ登れ。俺はお嬢さまを抱えて渡すから、お嬢さまをだっこして外へぴょんと降りろ」

 さっき若い男が買いだしにいったということは、きっと近くに商店があるはずだ。そこへ駆け込んで助けを呼ぶんだ、と。

「で、でもわたしたちだけ逃げたりしたら……」

 クニが男たちの方へ目をやると、「あんたはここにいちゃいけない」貢が言う。

あの背広の男は、きっとあんたにちょっかいをだしにくる。リーダー格らしい金歯の男が戻ってこないまま夜になったら、酒も入っているし危険だ……と。

「いいか。お嬢さまを絶対に安全な場所へお連れしてくれ。この方をお守りするのが俺たちの務めなんだから」

 数秒の沈黙ののち、クニは肚をくくった顔をして「はい」とうなずく。

 貢は音を立てないように慎重に窓を開けると、その下に四つん這いになる。クニは草履を脱いで裸足になり、貢の背中を踏み台代わりにして踏んで、窓枠に手をかけてよじ登る。

「さ、お嬢さまを」

 貢が暁子をひょいと抱え、クニの腕へ移そうとしたそのとき、積まれた木材の隙間から猫がひょいと顔をだす。とぼけた模様のぶち猫だ。

「あ、にゃんこっ」

 思わず声をだすと、男たちがこちらを見る。

「きさまら……何しとるかぁ!」

 怒鳴り声を上げて背広の男が突進してくる。暁子は貢に抱かれたままびくっと震え、その拍子に貢はバランスを崩し転倒する。

「クニっ逃げろっ!」

 クニはためらうが、くるりと身を翻して窓の外へ飛び降りる。それを追い、いまひとりの男が倉庫を飛びだす。貢は暁子の手をとって積まれた材木の上までのぼり、勢いよく木を蹴倒す。がらがらがらっと音を立てて大小の木が、背広の男に降りかかる。埃がもうもうと立ち込める。

「さあ、今のうちに」

 開け放たれた扉の方へ向かおうとしたところで、

「逃がすかあっ」

 男が貢に体当たりをくらわせて、そのまま組み敷く。こぶしで顔を殴打する。何度も何度も。ごつん、がつんと硬い音が空間に響く。茫然として立ち尽くす暁子に、殴られながら貢が「お逃げくださいっ」と叫ぶ。だけど足が動かない。貢から目をそらせない。貢の鼻から赤い花が咲くように鮮血が噴きだす。

「おじょう……はやく……逃げ……ごほっ、ごぼごほっ」

 血を喉に詰まらせてむせる貢に、

「まったく大した忠義者だな。ええ」

 背広の男が感心したふうに首を振る。

「てめえみたいなよくできたガキを見てると虫唾が走るぜ」

 すると貢は言い返す。

「僕も……おまえみたいなゲスな男には……虫唾が走る」

「言ってくれるじゃねえか」

 男はすごくいやな感じに笑うと、もう一発くらわせようと右腕を高々あげる。振り下ろす瞬間、

「だめえっ」

 暁子はその腕にかじりつく。ようやく足が動いた。ひとりでに。

「だめえ! みつぐをいじめちゃだめぇっ」

「おやおや、勇ましいお姫さまだ」

 男は蚊でも払うように腕をぶんと振り、暁子を貢の方へ投げ飛ばす。受けとめた貢の脇腹を思いきり蹴りつける。うめき声。身体を折り曲げる貢の、今度は背中を蹴る。暁子を守るようにして覆いかぶさる貢を男は蹴り続ける。殴られた顔が間近に迫り、

「だめぇ……みつぐをけらないで……いじめないで」

 貢の身体の下から濡れた声で訴える。血と汗のむわっとしたにおいでむせ返りそうだ。このままだと貢が死んじゃう。もうやめて、やめて……と。そのときだ。強い光が倉庫内を照らしだす。

「そこまでだ! 誘拐および傷害の現行犯で逮捕する!」

 懐中電灯を手にした警官たちが現れる。数人がかりで背広の男を取り押さえると、後ろ手にして捕縛する。

「ガチャどもかよ」

 拍子抜けするくらい男は抵抗しなかった。

「ガキをいたぶるのに夢中になっちまったな。早いとこ逃げときゃよかったぜ」

 最後までふてぶてしい態度を崩さず、倉庫の外へと引っ立てられていく。私服の刑事が貢に「もう大丈夫だ」と声をかけ、「こちらは白川貴族院議員の娘御で間違いないね?」と確認してくる。

「はい。暁子お嬢さまです」

 暁子の肩に手を添えて貢は答える。

「お怪我はしていません。ご無事です」

 その言葉に刑事は苦笑する。

「それよりも君の方がずいぶん手ひどくやられたな。すぐ病院へ運ばせよう」

 倉庫の周囲には車が何台も停まっていて、警官たちが立ち働いている。そのなかにクニがいるのを見つける。

「クニっ」

 駆け寄ってくるクニに抱きついた途端、感情が決壊する。

「う、う、うううっ」

 涙がぶわっとあふれだし、顔をくしゃくしゃにして盛大な泣き声を上げる。赤ん坊が泣くみたいに、わーんわーんと。クニも泣いている。

「み、み……みつぐが……ぶたれたの、けられたの。あのおじさんに」

「そうですか」

 背中をやさしく撫でられる。

「よくご辛抱なさいましたね。ご立派ですよ。旦那さまと奥さまが待ってらっしゃるおうちへ帰りましょうね」

 それを聞いて、父と母に会いたくてたまらなくなり、また泣いた。こわいのはもう終わった。もう帰れる。そう思うと、泣いているのになんだか安心できた。警察の車に乗せられ、窓の外に目をやると倉庫の陰にぶち猫がいた。

「にゃんこ」

 ぽつりとつぶやくと、隣に座るクニから「どうかしましたか」と問われる。

「ううん」と首を振る。

「なんでもないの」

 クニの肩に頭をもたせて、泣き疲れて腫れたまぶたを閉じる。助手席の三角窓から潮気のある風が吹き込んでくる。

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