ひどすぎて涙もでない(4)
普段の登下校で使う道とはちがう大通りをフォードは走る。後ろの席には暁子を挟んでクニと貢が座り、前の方は“怪しいやつら”が陣取っている。
金歯の男の運転は巧みだった。黒田と同じか、あるいはもっとなめらかなハンドルさばきでフォードを操り、すいすい進んでいく。誰も何もしゃべらない。クニが暁子越しにハンカチを貢の顔に当てる。殴られた頬が青黒くふくらんでいる。
視線で「大丈夫?」と尋ねるクニに、貢は安心させるように微笑を返す。唇が切れて血がにじんでいるのが痛々しかった。
暁子の胸にむかむかと怒りが湧いてくる。助手席の背もたれ部分をどんと蹴りつけ、
「そこのおまえ、うちのものになんてことするの! あやまりなさい!」
背広の男が振り返り、ははっと笑う。
「謝りなさいときたか。さすが、ちびっちゃいのにお姫さまだな」
「お嬢さま」
クニが慌てて暁子を抱き寄せ、口もとをそっと手で押さえる。手のひらが湿っていた。もがもがとまだ何か言ってやろうとする暁子の耳に顔を寄せ、
「ここはどうかお静かに……後生ですから」
声が怯えていた。クニは何を怖がっているのだろう。こんなならず者たち、おじじさまかお父さまがきっと捕まえてくださるのに。ええと、それにはまず、おうちへ電話をかけて……。
と、そこでようやく自分たちの置かれた状況に気がつく。この状態でどうやって電話をすればいいのか。そもそもこの車はどこへ向かっているのだろう。
「どこへいく気だ?」
暁子の疑問を代弁するかのように貢が男たちに尋ねる。その声に恐怖の色はなかった。背広の男が振り向いて、
「心配すんな。俺らは人買いじゃあねえからな、売り飛ばしたりしやしねえよ。尤もこんなちびじゃあ、まだ売りものにはなんねえか」
目の端でクニをちらりと捉え、
「まあ、そっちの女中なら、なんとか売れねえこともねえかな」
「なら誘拐か。こちらの方が白川伯爵家の令嬢と知ったうえで攫ったのか? さてはさっきの電話もおまえらの仲間がかけてきたのか?」
ひゅう、と背広の男が口笛を吹く。
「賢いな、坊主」
運転席の男が言う。相棒よりも落ち着いた声音だ。
「そのとおりよ。運転手は今頃さぞ青ざめているだろうな。大事なお姫さまを車ごと攫われただなんて、間抜けもいいとこ。ちょっと前なら打ち首もんだ」
貢が奥歯を噛みしめる音がした。
「いいか、運転手以外の付き添いが小僧と小娘だけだなんて、どうぞ誘拐してくださいっていってるようなもんだぜ。覚えとくんだな、坊主」
男の口ぶりにはどこかしら、職業的なものがあった。
「そんな怖い顔してにらむなよ、坊主。お姫さまが怯えちまうぜ」
背広の男がからかい混じりに茶々を入れる。
やがて開け放した三角窓から潮の香りがしてきた。車の速度がだんだん落ちていって、停まる。
「降りろ」
金歯の男の低い声で、うとうとしていた暁子は目を覚ます。空は茜色に染まっていて、空気がてろんとしている。感覚的に街なかではないと思った。水辺の近くだろうか。
辺りを見まわすと、同じような造りをした倉庫が立ち並んでいる。人の気配はない。男たちに挟まれて倉庫のひとつへ連れていかれる。金歯の男が錆びついた扉を叩くと、向こう側からぎぎぎ……と開かれる。二人の男よりもう少し若い、細身の男が現れる。
「どうだ、首尾は」
「問題ない」
金歯の男が顎でくい、と暁子たちを示す。
「まあ、その辺にでも座ってろ。くれぐれも逃げようなんて気は起こすんじゃねえぜ。おとなしくしている限りは安全さ」
そして暁子に「お姫さまの上っ張りを頂戴してもよろしいですか」と言う。
「たしかにこちらでお預かりしていますよ、という証拠としてね」
「いや!」
即座に言い返す。
「おまえたちのいうことなど、ききません! いますぐかえります。そこをおどきなさい」
男たちに向かって言い放つと、
「指を一本切られるよりかはいいだろう」
背広の男が笑い混じりに言葉を重ねる。
「お嬢さま、どうかここは言うとおりになさってください」
貢が地面に膝をつき、暁子と同じ目線になって、語りかける。頬は腫れあがり、片方のまぶたも鬱血してお岩さんみたいになっている。だけど態度は落ち着いている。普段の貢の、普段の態度。
「お嬢さまはいい子でしょう」
その言葉に、こくんとうなずく。学習院の学章がついたタブリエをクニに手伝わせて脱ぐと、男たちに渡してやる。下はすとんとしたワンピースだ。
金歯の男はタブリエを手にして、仲間になにか指示を残して外へでていく。ここは建築資材でも保管している倉庫なのだろうか。隅の方には材木が積まれている。その端っこに暁子らは腰かける。
おそらくは見張り役である二人の男は扉の近くに立っていた。窓を開けて煙草を喫っている。
「ここ……どこなのでしょうか」
クニが不安げにつぶやく。
「車で一時間は走ったから、東京の外だと思う。千葉か神奈川か。川っぺりの材木置き場ってところだろうか」
貢は冷静に答える。金歯の男は、お嬢さまのタブリエをお邸へ送りつけて身代金を要求するのだろうと。金と引き換えに自分たちは解放されるはず。だから心配しなくて大丈夫だ、と。
「で、でも、さっき……指を切るなんて言ってたけど」
クニの言葉に「はったりさ」と貢は返す。
「もしそうなら、とっくにナイフなり拳銃なり、ちらつかせていたさ」
なるほど。そういえば駐車場での手口はスマートだった。まず、白川家の者だと騙って幼稚園に電話をかけて運転手をおびきだす。車内に残っているのが子どもたちだけだと調べておいたうえで、襲いにかかる。ちゃんと周囲に他の車や人がいないタイミングを見計らい、手早くぱぱっと。
「あいつら、こういうのに慣れてる感じがする。特にあの金歯のやつは」
あの男がリーダー格であることは、攫われた側からしても分かった。それだけにあの男が今いないのが――こう感じるのも妙ではあるが――心細かった。
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