ひどすぎて涙もでない(3)
三
昭和四年、九月。
「おじじさま、おばばさま。いってまいります」
毎朝、幼稚園へいく前に暁子は必ず祖父母の住まう、離れの隠居所へご挨拶にいく。
「今日も楽しくお過ごしなさい」と祖父。
「クニをまた泣かせてはいけないよ」と祖母。
いつものようにそう言われる。暁子はしょっちゅうクニを泣かせている。泣かせようと思って泣かせるわけではないのだが、自分のすることなすことにクニは心配しすぎなのだ。
「クニはすぐ、なくの。おねえさんなのになくの。このまえも、おにわでセミのぬけがらをとろうとしたら……」
そう言いかけようとすると、祖母からたしなめの言葉が飛んでくる。
「目上の者に言い返してはなりません」
ひと粒種の孫娘を猫かわいがりしがちな祖父と比べ、この祖母は暁子を甘やかしすぎない。女中頭の菊野と同じく、ときに容赦なく叱ることもある。今は爵位を息子の玄真に譲った玄治郎は、このこぢんまりとした隠居所で数人の召使いにかしずかれ、老妻と静かに暮らしている。
襲爵後の玄真は、父が務めていたさまざまな地位も同時に受け継ぎ、貴族院議員としても案外熱心に活動している。ここまでくるのにいろいろあったが、あとはもう息子一家に任せてもいいだろう、というところだ。
「暁べえや、これを持っていかんか。わしと婆さんはこういうのは食わんから……」
と、卓の上にある菓子入れから落雁の包みをいくつか掴んで、孫娘を手招きすると、
「いけません」
横の妻からぴしゃりと言われる。
「朝からなんです、お菓子なんて。甘いものは歯に毒ですよ。せっかくこの子は大人の歯が生えてきたばかりなのに」
「い、いやまあその、なんだ。いいじゃないか、クニともうひとり、男の子のお付きにも、ほれ、一個ずつ」
祖母はしばし間をおいて、仕方がないというふうに、
「ひとり、ひとつずつですよ」
暁子に向かってしわがれた、しかしぴんと張った口調で語りかける。
「よいですか、クニも黒田の息子も大事にするのですよ。うちは大名さまのお宅とちがって先祖代々の臣下なんて、いないの。だから、仕えてくれる者たちとは心と心で結びつくの。おばばの言ってること分かるね」
「はあい」
元気よく返事するものの、もちろん半分も分かっていない。落雁をいただいて、廊下に控えているクニを連れて隠居所をあとにする。
前庭ではフォードが待ちかまえていた。女中を従えている母と運転手の黒田、その助手をしている息子の貢が車のそばに立っている。
母は毎朝、邸からわざわざ外にでてきて見送ってくれる。それが暁子にはとても嬉しい。
薄化粧のお顔は清廉とした容貌をさらに際だたせ、あるかなきかの微笑をいつも口の端にたたえている。暁子の知る限りこの世で一番美しい人だ。
「おじじさまとおばばさまは、今日もお元気でしたか?」
祖母とは対照的な、しなやかでか細い声。娘のふさふさとしたおかっぱ頭を、白い手でやさしく撫でる。水仕事とは無縁な、やわらかな手。落雁をいただきました、と答える暁子に「そう」と優美に笑いかける。クニにも貢にも笑みを向け、
「このおちびさんをお願いしますね。くれぐれも安全運転でね」
最後の、黒田にかける言葉にだけは、やや命令の響きを含む。
「かしこまりました」
黒田は答える。貢に後部座席のドアを開けてもらうと暁子は乗り込み、その隣に手芸道具を抱えたクニが座る。運転席に黒田が、助手席に貢がつくとフォードが発進する。小砂利がタイヤの下で鳴り、車は前庭を抜けて門をくぐる。
青山にある学習院付属幼稚園までは、車で約十五分だ。
暁子は毎日、黒田の運転する車で通っている。父や祖父など男衆の使うクライスラーにはまた別の運転手がいるのだが、黒田に任せているフォードは母と祖母、そして暁子の女性陣専用車だ。
「お嬢さま。窓をお開けしましょうか」
ハンドルを握る黒田が訊いてくる。九月の下旬とはいえ日射しはまだ強く、車内の空気はむっとしている。「うん」とうなずくと、横のクニから「うん、ではなく、ええ、でございます」と、すかさず注意される。
「ええ。まどをあけてくださいな」
お行儀よくそう言い直すと、「かしこまりました」と貢が助手席の窓の前にある三角窓のハンドルをひねる。すると窓の一部が外側へ飛びだし、涼しい風が入ってくる。この時代、これが唯一の冷房だ。
「これ、おばばさまからね。みつぐとクニに。あ、くろださんのぶんはいただいてこなかった」
貢とクニに落雁を渡してから、しまった、と思う。
「ごめんね、くろださん」
ルームミラー越しに謝ると「とんでもございません」と柔和な笑みを返される。
清潔な白いシャツに藍色の制服。白川家の紋章である花菱の印をつけた制帽をかぶっている黒田は、男の使用人のなかで最も暁子のお気に入りだ。
家令の田崎をはじめとする「表」の男性職員たちはだいたいが無表情で、近寄りがたさをだしているのに対し、黒田には気ぶっせいなところがない。おちびの自分に対しても丁寧な、わざとらしくない(ここは重要である)自然な敬意でもって接してくれる。
年齢は三十代前半。ひとり息子の貢はこの春に小学校を卒業し、父と同じく白川家の使用人として働いている。運転手の助手兼、「表」の細々とした雑用などをこなしているようだ。父とおそろいの制服を着て、こちらは家紋なしの制帽をかぶっている。
柔和な風貌の父親とよく似ているけれど、貢の方はもう少し意志的な顔立ちをしている。母親がいなく、父と二人暮らしのせいか、十三歳という年齢のわりにはしっかりしたところがある。
「頂戴いたします」
年に合わない落ち着いた口ぶりで、貢は暁子から落雁を受けとる。
「ありがとうございます」
クニもにっこり笑って礼を言う。丸顔のおさげ髪に銘仙の着物。年齢は貢より一つ上の十四歳。広島の出身で、実家は白川家と縁続きの家だとか。
黒田が男性職員で暁子の一番のお気に入りなら、女中のなかで一番好きなのがこの、クニだった。泣き虫で素直で朗らか。いつもそばにいてくれるクニは、暁子にとってお守り役でありながら姉のような存在でもある。どこへいくにも、なにをするにも、暁子はクニと一緒だ。
幼稚園に到着する。駐車場には何台もの自動車や人力車が停まっている。すかさず貢が助手席から降り、後部ドアを開けてくれる。そして深々とお辞儀。
「いってらっしゃいませ」
「いってきまーす」
ばいばいと手を振り、クニを従えて厳かな佇まいの冠木門の内側へ入る。
女子学習院に併設されているこの幼稚園は男女共学で、通えるのは皇族と華族に限られている。ほとんどの園児には弁当持参でお供が付き添い、帰りの時刻まで「供待ち部屋」で待機している。その部屋には裁縫や手芸の講師が控えており、お供の者らが退屈しないよう、稽古をつけてくれる。
暁子のクラスは年長の「さくら組」だ。母の名前と同じなのが嬉しい。クニと別れて教室へ入ると「ごきげんよう」と仲よしの友だちと挨拶を交わしあう。袴姿の先生方から積み木や折り紙、粘土細工などを教わる。その日は昼食後の午後のお遊戯の時間、みんなで庭で鬼ごっこをした。
「それではまた明日。みなさん、ごきげんよう」と先生の終礼のお言葉で授業が終わる。
「クニー」
供待ち部屋にいたクニと合流する。
「今日はいかがでございましたか?」と尋ねられ、
「ええとね、みんなでおえかきをして、せんせいのおはなしをきいて、おにごっこをしたの。たのしかった」
「それはよろしゅうございました」
「クニは? クニはなにしてたの?」
「クニは洋裁の先生から、ワンピースの仕立て方を教えていただきました」
そんな話をしながら駐車場へ向かうと、すでにフォードが迎えにきていた。
「お帰りなさいませ」
朝と同じく貢がドアを開けてくれる。乗り込んだタイミングで、こんこん、と運転席の窓がノックされる。
「あのう、もし。白川伯爵さまのお邸の方でいらっしゃいますか?」
若い女性職員が黒田に声をかける。
「たった今、お宅さまからお電話がありまして、運転手の方に代わるようにとのことでして……」
「そうですか」
黒田はうなずく。こうしたことは時たまあった。たとえば、帰り道に虎屋へ寄って羊羹を買ってきてほしい、とか。旦那さまが銀座の教文館ビルに注文した美術書を受けとりにいってほしい、とか。黒田が暁子を迎えに出発してから用事を思いだした菊野などが、幼稚園に電話をかけてくるのだ。
「なんだろう、菊野さんかな。お嬢さま、ちょっといって参ります」
うやうやしく暁子に一礼して、
「すぐに戻る。誰かきてもドアを開けるんじゃないよ」
と、これは息子に声をかけ、黒田は職員とともに園舎へ向かう。
「みつぐはきょう、なにしてた?」
助手席の貢に問うと、「フォードとクライスラーを洗っておりました」という返事がくる。
「ねえ、おうちにかえったら、なにしてあそぶ? あきこはメンコがしたい。このまえおじじさまから “乃木大将”のメンコをいただいたの。それでみつぐの“東郷大将”としょうぶしたい」
乃木大将と東郷大将は、どちらも軍神と称えられる、子どもたちの人気者だ。
「メンコ遊びは菊野さんがお許しになるでしょうか」と貢。
「そうですよ、お嬢さま。クニと毬つきでもなさいませんか?」とクニ。
そんなふうにおしゃべりしていると、ぬっと車内に影がかかる。黒田が戻ってきたのかと思ったが、ちがった。大柄で背広姿の、人の好さそうな顔つきをして中年男が車の外に立っている。口をぱくぱくさせて話しかけてくるので、貢は助手席の窓を下げる。
「なんでしょうか」
「ここは無許可の車は駐車禁止だよ。運転してきた人はどこ?」
「私どもは部外者ではありません。こちらのお方は白川伯爵家のお嬢さまで、ここの幼稚園の生徒です。運転手はじきに戻ってきます」
大人を相手に動じない態度で貢は応じる。
「そう。念のため、駐車許可証を見せてもらえるかな」
「分かりました」
貢が手前の
「お嬢さん方、お静かに」
ぽかんと口を開ける暁子を、クニがぎゅっと抱きしめる。
「な、な、なんですかっ……あなた方、は」
クニの声が引き攣っている。
「おとなしくしてくださいよ。いてえ思いをしたくなければね。おっと」
閉めた助手席の窓ガラスを、貢がどんどん叩いている。
「おい! こら! ドアを開けろ! 開けろおっ!」
「うるせえガキだな」
背広の男は純朴そうな表情を一転させて舌打ちすると、外へでて、貢をぼこっと殴りつける。顔を、続いて腹を二度、三度。しかし貢は退かず、相手の胴にしがみついて大声で叫ぶ。
「誰かきてくれえっ。誰かぁっ。怪しいやつらがいるぞうっ!」
「このくそガキが」
かっとなり、拳を振り上げる背広の男に、「おい」と金歯の男がひと声。
「仕様がねえからそいつも乗せろ。どうせおめえは顔を見られたしな」
背広の男は再び舌打ちすると、貢の首根っこを掴み荒々しく後部座席へ放り込む。その間クニの腕のなかで暁子は目をぱちくりさせて、クニはただ震えていた。車が発進し、いつしか辺りに人けのない駐車場をでてゆく。
時間にしてほんの一分ほどのできごとだった。
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