ひどすぎて涙もでない(2)


 白川家の華族としての歴史は浅い。

 初代、白川玄治郎げんじろうは藩閥に属することなく、一官僚として明治初期の政府に尽くした。第二次伊藤博文内閣から第二次山縣有朋内閣まで、四人の総理、五つの内閣に仕え、最終的には外務省の要職を複数兼任する地位まで上った。その功績を称えられ、明治後期に子爵を、さらに大正末にはもう一段階上の階位の伯爵に叙せられる。

 子爵や伯爵とは、この国独自の貴族階級、華族の爵位のひとつである。欧州の貴族制を模して創られたもので、上から順に「公侯伯子男」の五種類がある。

 うち大半を構成するのは、幕府の元大名や京都の公卿といった旧世界の上層部の家々だ。それらに加えて国家に偉勲を立てた人間――明治維新の功労者や薩摩長州の実力者、学問や経済の分野で国に貢献した者――なども華族に列せられることとなった。

 旧大名や旧公卿という、家柄や出自の高さによって自動的に華族となった人びとが「大名華族」「公卿華族」と呼ばれるのに対し、後者の、自らの力によって爵位を得た側は「新華族」と呼ばれている。

 大名や公卿華族からしてみれば、新華族はいわば成り上がり。維新のどさくさに紛れて上流社会に食い込んできた、にわか貴族のようなもの。実際に新華族のなかには、金にものをいわせた豪奢な暮らしを誇示する者も少なくなかった。

 白川家もまた典型的な“にわか貴族”のひとつだ。

 東京、渋谷の高台に和洋折衷の広大な邸をかまえ、庭には石橋をかけた池をつくり、季節の花を植えさせた花畑、郷里から運ばせた桜の巨木を中心とする林、東屋に茶室もある。手本にしたのは浜離宮だ。

 使っている者たちは総勢約三十名。白川家の事務全般を取り仕切る家令(かれい)の田崎を筆頭とした男性職員と、女中頭の菊野をはじめとする女中たちという構成だ。

 同じ使用人であっても男女の役割は明確に区別された。

男たちは家の運営に携わる「表」の仕事を、女たちは家事と主一家の身のまわりの世話をする「奥」の仕事に従事していた。外から通ってくる者もいるが、大半は邸内にある使用人用宿舎に住み込んでいる。

 白川家の現当主は、玄治郎の第四子の玄真はるまである。数年前に父親が隠居し、その際に家とともに伯爵の爵位も引き継いだ。

 玄治郎には息子が四人いたのだが、いま現在も生きているのはこの玄真だけだ。

 次男は赤ん坊の頃に亡くなり、三男は日露の戦争で戦死し、跡目を継ぐはずだった長男も血液の癌が発覚し、聖路加病院に入院するも治療至らず病死した。父に倣って外務省に入り、外交官を目指していた優秀な長男だった。

 兄たちの死によって末っ子の玄真が急きょ、頭領息子に繰り上げられた。

 いかめしい風貌の父親に似ず、線の細いモダンな顔立ちをした玄真は、自他ともに認める趣味人だ。

 玄治郎は実務面では優秀な人物だったが、それだけに自分に教養がないことを恥じていた。平民上がりで勉強といえば、語学に法律などの実学しか身に備わっていない。爵位を賜り、華族間の交際がはじまるようになって以降、ずいぶん恥ずかしい思いをしてきた。

 だから息子たちには教養をつけさせた。とりわけ末子で、家を継ぐ必要のない玄真には惜しみなく金をかけて教育した。外国人の教師を雇ってピアノや絵画を学ばせて、学習院高等科を経て東京帝大を出たのちは、画家になりたいという本人に乞われるがままフランスへ遊学させた。欧州の芸術や文化の香気にふれさせて、息子を国際人コスモポリタンにしようとした。

 パリの自由な空気は玄真の気質とあったようで、ホームシックになることも、一時帰国をすることもなく、六年近くを彼の地で過ごした。英語に加えフランス語にドイツ語も操ることができるようになり、ベル・エポックを彩った印象派の画家や文人、女優に踊り子たちと盛んに交流した。その時期に出会った某男爵令嬢と、のちに最初の結婚をすることになる。

 夢のように美しい時代はあっという間に過ぎ去り、長兄が死去した知らせを受けて玄真のパリ暮らしは終わる。大正三年、二十九歳のときだった。

 ちょうど世界を巻き込む戦争がはじまろうとしていた頃で、欧州から撤退するにはちょうどよかった。そして戦地から遠く離れた日本では、大戦の影響で景気は上向いていた。「成金」と呼ばれるニューリッチが台頭し、明治から大正へと空気が変わりつつあった。


 巴里仕込みの洗練された振る舞いで、玄真はたちまち社交界の人気者となった。

 外国人を招いての催しものやパーティーでは通訳としても重宝された。海を越えてやってきた人間相手におじけることなく堂々と渡りあい、話術が巧みで物腰もスマート。

 品のいい容貌に加えて人当たりもいい玄真は多くの女性を惹きつけ、数々の浮名を流す。それがまた評判となり、上流界の動向を書き立てる雑誌や新聞のゴシップ欄の常連となった。

 あいにくと画家になる夢は叶わなかった。

 玄真には絵を描く才能も、己の才能を信じて努力し続ける忍耐力も、その両方が欠けていた。しかし多才で器用ではあった。雑誌に自ら挿絵を添えた小文を書いたり、ヨーロッパを舞台とした芝居に美術監督として参加したりと、文化人めいた活躍をした。

 そうして、パリ時代に知り合った、さる女性と再会して恋に落ちる。

 相手の家も新華族で、父親は貿易業で名を成した中堅財閥の創始者だ。ゼルダ・フィッツジェラルド風の耳下でカットした断髪も似合う、モダンガールの粋を極めたような美女だった。華族界きってのモボとモガのカップルとして、ふたりの婚約は大々的に報じられた。

 けれども結婚生活は一年と続かなかった。

 気質の似ている者同士、彼らは惹かれあうのも早かったが、冷めるのもまた早かった。加えて妻は次期当主夫人としての義務や責任、華族夫人の務めとしての奉仕活動などを嫌った。それを教え込もうとする姑との折り合いも悪くなり、その不満を夫にぶつけた。夫はそんな妻をもてあました。

 似た者同士の夫婦は、別れることを決めるのにもためらわなかった。子どももまだいないことだしと、早々に宮内省へ離婚願いを申しでて、無事受理された。結婚したのと同じ年に離婚した。これがまた話題を呼んで、


『高速結婚した白川伯爵家の次期当主夫妻、今度は高速離婚』

『巴里で生まれたうたかたの恋――帝都一のモダンカップル、敢え無く破局』


 といった見出しが再び雑誌のゴシップ欄をにぎわせた。

 父の玄治郎は老いてはいるが壮健で、貴族院議員も、いくつかの大学の理事長や財団の顧問なども務めている。隠居して息子に爵位を譲るのは、まだまだ先のことだろう。

 気楽な独り身に戻った玄真は、父が達者なのをさいわい再び“独身貴族”の日々を過ごすようになる。

 オペレッタや芝居、音楽、美術鑑賞。夜ごと繰り広げられるパーティー。美しい女性との恋の語らい……。その間、欧州全土を消耗させた大戦が終わり、多くの戦争成金が没落し、軍縮の時代がはじまっていた。

 そうして三十代も後半に差しかかった頃に、二度目の結婚話が玄真に舞い込む。

今度の相手は子爵家の令嬢で、自分よりだいぶ年下だ。名を桜子という。実家は公卿の血を引く蹴鞠の名門。見合いの場である帝国ホテルのラウンジに現れた桜子を見るなり、玄真の心臓は高鳴った。波うつ黒髪、しっとりと潤いのある濃い黒目、色白の頬。日本画の美人絵から抜けだしたかのような、女と少女の端境期にある美しさをたたえていた。

 同行している、のっぺりとした顔の子爵夫人とはまるで似ていないのがふしぎだったが、それもそのはずで――見合いの後で知らされたのだが――桜子は妾腹の娘だった。産みの母は柳橋の芸者だとか。

 それを聞いて、正妻腹の娘でないのを残念に思うどころか、ますます興味をそそられた。

 若い頃はモガやフラッパーといった新しいタイプの女を好んでいたが、中年になってきた今は、むしろ純日本風の女に惹かれるようになっていた。

 玄真の方が乗り気となって縁談を進めた。老伯爵夫妻は、前妻との離婚後ずっとふらふらしていた息子が、ようやく再び身を固める気になったのを心から喜んだ。しかも桜子は前妻とは対照的に慎ましやかな気質とあって、とんとん拍子にまとまった。玄真・三十七歳、桜子・十九歳。十八歳差の夫婦の誕生だった。

 結婚の翌年の大正十二年、帝都に大地震が起きたのと同じ年、同じ月に女の子が産まれる。暁子と名づけられる。


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