愛する者よ、列車に乗れ。

草野來

第一章 ひどすぎて涙もでない(1)

 プロローグ


 東京からこの町までは列車に乗って約二時間。車よりもずっと速く、渋滞に巻き込まれることもない。列車とは実に便利な乗りものだ。

 すぐ目の前にある土手の上には線路がまっすぐ伸びている。ここの路線は軍に鉄を供出しなかったとみえ、黒々とした条鉄が日射しを受けて光っている。

 たしか土手の向こう側には女学校があったはずだ。木造建ての、田舎にしてはなかなか立派な校舎だった。だけど今その建物は跡形もない。おそらく空襲にやられたのだろう。そういえば駅の近くにあった旅館も、まっさらな更地になっていた。

 木の電柱のそばまでくると彼女は足を止め、ハンドバッグから〈ピース〉とマッチをとりだす。火をつけて深々、吸い込む。配給品よりはるかに味がいい……と感心している自分に苦笑する。いつの間にか煙草の味の良し悪しが分かるような女になっていた。

 いつもよりも時間をかけて一服すると、もう一本くわえる。二本目は数口だけ吸ってから、足もとの土に挿し込んだ。先端から細い煙が立ちのぼり、五月のさわやかな風にたなびいて消えていく。

 この前ここへやってきたのはいつだったか、と指を折って彼女は数える。そう、たしか六年前だ。まだ戦争がはじまる前のこと。あれから十年と経っていないのに、百年も昔みたいに感じられる。

 土に挿した煙草に視線を落とす。

 ぷぉーん、と遠くの方から警笛が、かすかに鳴ったようだった。かがんで、マニキュアを施した指先をレールにあてると、心臓の鼓動のような震動がつたわってくる。この感触には憶えがあった。自分がどうしてここへきたのか、彼女は不意に分かった気がした。

 再び、ぷぉーんという音が聞こえてくる。さっきよりももっと大きく明瞭に。〈ピース〉の芳ばしい香りが鼻をくすぐる。


第一條 凡ソ有爵者ヲ華族トス

第二條 爵ハ公侯伯子男ノ五等トス

第三條 爵ヲ授クルハ勅旨ヲ以テシ宮内大臣之ヲ奉行ス

第四條 有爵者ハ其ノ爵ニ相當スル禮遇ヲ享ク

                 明治四十年五月八日公布――「華族令」より



 毎年、夏になると庭の林では朝からセミがかしましい。

ミーンミーンミーン、ジジジジジジジジ、チーーーー。何種類ものセミたちが競うように鳴いている。

 暁子の憶えている限り、いちばん古い自分の記憶は、これらのセミの鳴き声だ。それと、従者の貢に肩車をさせて木の葉や枝についているセミの抜け殻を採っていたこと。

「みつぐ、もっと、もちょっと右のほう。もっとー」

 そんな遠慮のない命令を、幼い時分からよく貢にしていたものだった。セミの抜け殻集めは、なんであんなにおもしろかったのだろう。

 美しい琥珀色をして、脆くてかわいいセミの抜け殻。そんなのが林の木々にはいくつもついている。特に、林の中心に植えられたひときわ立派な桜の大木は、セミたちがこぞって羽化する場所(スポット)だ。白川家の先代当主である祖父が、伯爵に叙せられた記念に郷里の山から運ばせたソメイヨシノの大樹。その太い幹についている大きなセミの抜け殻に手を伸ばすと、

「お嬢さま、今日はもうこのへんに致しましょう。ね」

 お付き女中のクニのおずおずとした声が聞こえてくる。そろそろお昼寝の時刻だった。早く本館の自分の部屋へ戻らないと、女中頭の菊野から(また)叱られてしまう。

「うん。わかってる。あれとったらねー」

 右手を精いっぱい伸ばすものの、いかんせん腕が短くて、幹の上部についている“獲物”に届きそうで届かない。ようし、ならば――。

 肩車をされながらすっくと立ちあがり、貢の両肩を足袋の裏でぎゅうと踏む。「ひいっ」クニがしゃっくりするように息を呑む。

「お嬢さま、ひっくり返ったら大変です。どうかもうおやめください」

 泣きそうな声をだすクニを尻目に、みごと抜け殻をしっかと掴んでやった……のと同時に、ずるりと足をすべらせる。

「ひいっ!」

 クニがまた叫ぶ。次の瞬間、目を開けたら貢の腕のなかで桜の巨木を見上げていた。貢に抱きとめられて、そのまま一緒に尻もちをついてしまったらしい。元結いで結んだ前髪が少し、崩れてしまった。

「どこか、痛いところはございませんか」

 声変わりがはじまる寸前の少年期特有の、やや甘めの声が額にかかる。

「うん。みつぐは?」

 顔を上げると、色素のうすい穏やかな目がまっすぐ自分を見つめている。穏やかでいて凛としたまなざしは、十三歳という年齢以上に貢を大人びて見せている。

「恐れ入ります。なんともありません」

 小さな女主人を貢は抱き上げ、そばに脱ぎ捨ててあった草履を履かせる。クニがぽんぽんと入念な手つきで、暁子の紬についた土埃を払う。

「お嬢さま。クニを死なせるおつもりですか」涙まじりにそう言うクニに、

「みてクニ。おっきいでしょう、これ」

手のなかのセミの抜け殻を見せてやる。

「おかあさまにあげるの。よろこんでくださるかしら」

 にっこり笑いかけた拍子に、しばらく前からぐらついていた下の前歯がぽろりと落ちた。すると涙目のクニが、ぷぷっとふきだす。クニが笑ったのが嬉しくて、口をいーっとしてやると、クニはもっと笑う。その横で貢は静かに微笑んでいる。

 六歳になる直前の、ある夏の日のことだ。なんてことない出来事なのに、頭のなかの収納箱に保存されたままでいる。

 クニの裏返った「ひいっ」という声。貢の肩から落下しかけて受けとめられたとき、かすかに香った汗のにおい。いた痒かった乳歯がするりと抜けた感覚。それらをまざまざと昨日のことのように憶えている。






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