3.おもしれえ女


 私は腑に落ちないものを感じたけど、やよいちゃんの引っ越しの予定はないということで、ゴンゾウさんは満足したようだった。何度も礼を言われながら立ち去ったマンションの、やよいちゃんとゴンゾウさんが暮らす部屋を外側から見上げてみる。


「……昔、付き合ってた、かぁ……」


 二人の間に何があったかなんて、ましてや別れた理由なんて、わかるはずもない。でも、やよいちゃんの寂しそうな表情が目に焼き付いて離れない。


 ぼぉかるさん――芸名GENさんは、ゴンゾウさんのお話から察するに、やよいちゃんに「ビッグになったから一緒に暮らそう」と言ったのだろう。曲が売れて、多くのファンがついて順調に仕事できているという状況で、きっと忙しい合間を縫ってやよいちゃんに会いに来たのだ。


「いいのかなぁ……でもこれ以上首突っ込めないよね……」


 エコバッグを両手でぎゅっと抱える。買い物に行かないといけないのに、足が重くなってしまって動かない。ふと気付くと、そんな私に遠くから手を振っているブレザーの制服姿の人物がいた。湊くんだった。


 湊くんの高校はこのあたりにあるんだったな、なんて思い出してみるけど、いつものように大きく手を振り返すことができない。やっと肩のあたりまで上げることができた手をひらひらと力なく振っていると、湊くんがどんどん私の方に近寄ってきた。


「及川さん、偶然ですね」


「うん。……学校、行ってたの? 土曜日なのに」


「さっき部活が終わったばかりなんですよ。どうしたんですか? 元気ないですね」


「あ、そっか。何やってるんだっけ……」


「弓道です。で、及川さんは何でこんなところに?」


 よく見ると湊くんの背中には、弓道で使う矢筒が背負われている。そういえば、一緒に仕事をすることはないから、直接話すのは久し振りだ。


「……弓道、格好いいね」


「何で元気ないのか、教えてもらえないんですか?」


「え? 元気?」


 湊くんの背中の筒をぼんやりと見つめながら聞き返すと、彼は急に背中を丸めて私の顔を覗き込んだ。


「……何かあったんでしょ?」


「え、いや、別に何も……って、あー! 湊くんこれ持ってて!」


 私の視界のほとんどを支配する湊くんの顔の脇に、ライ麦畑のデインジャーのGENが映った。その途端、あんなに重かった足が素早く動き出す。湊くんにエコバッグを押し付けて走り出し、GENを捕まえることに成功した。


「……ちょっ、まっ……、はぁっ、はぁ、……やよいちゃん、のこと、なんだけどっ!」


「何だよ、いきなり……あんた弥生のこと知ってんの?」


「やよいちゃん、寂しそうだったの!」


「……え?」


「さっき、会ったの。引っ越しなんてありえないって、言ってた、けどっ、寂しそうだったの! あんたでしょ、あんな顔させたの!」


 たぶん、鬼の形相になっていたと思う。GENが一歩後ずさったから。それでも構わず、私は食ってかかった。


「ゴンゾウさんも、連れていってあげて! ペット可のマンションあるでしょ!? あんたなら、あんたなら家賃高いところだって平気でしょ!? お願い、ゴンゾウさんとやよいちゃん、離さないであげてっ……!」


 大きな声で吐いた言葉は、支離滅裂だったと思う。でも言いたいことを言い切ったという清々しさを、私は感じた。ふぅと大きく息を吐いてから、驚いて固まっているGENに「ごめんなさい」と謝る。


「……その、やよいちゃんが寂しそうだったのが、気になってたんです。突然すみませんでした」


「あ、ああ、いや」


「お忙しいですよね? でも、やよいちゃんのこと……」


「……あんた、俺のこと認識してるんだ?」


「えっ、俺のこと? GENさんでしょう?」


 いつの間にか隣に立っていた湊くんが「そういうことか」なんて知った風な口を利いている。彼には何も話していないのに。


「そうだよ。それなのに、他の女の子みたいにきゃーきゃー言わないで弥生とゴンゾウのことばっか話してて……おもしれえ女だな」


 ぷっと吹き出してから、GENは大笑いし始めた。ひとしきり笑うと、彼は「腹痛え」とつぶやいてから、私に向き直る。


「わかってるよ。気にしなくても大丈夫、ちゃんとゴンゾウのことも考えてるって。名前だって俺の『源造』から取ったんだからさ。まだあいつの目が開く前に名付けてやったんだ。すっげえちびっこかったんだぜ」


「うはっ、ゴンゾウさんのちびっこかった時……! たまんないですね……!」


「あはは、だろ? しっかし、弥生にあんたみたいな友達がいるなんて知らなかったよ」


「あ、あの、友達じゃなくて……、ゴンゾウさんが通ってる銭湯のバイトなんです、私」


「……え? そんだけ? 別に仲いいってわけじゃないんだ?」


「……はい……。首突っ込んでしまって……すみません……」


 私ができるだけ小さくなって謝ると、GENはまた大笑いを始めた。


「ひぃっ、やべぇ、おもしろっ! おい、おまえさ、しっかりしろよ」


「……言われなくても」


 GENの視線から判断すると、「おまえ」というのは湊くんのことらしい。そう、確かに湊くんは銭湯の次期オーナーでもあるから、しっかりしなければいけない。でも、何で突然そんな話になったのかはわからない。


 GENは、やよいちゃんとゴンゾウさんを離すなんて絶対にしないと約束してくれた。そうしてタクシーを呼んで去っていったのだが、あとに残された湊くんと私の間には、何故か剣呑な空気が流れている。


「……あ、あの、湊くん……?」


「何で、一人で何とかしようとしたんですか」


「……何で、って、その、成り行きで……?」


「ちゃんと相談してくださいよ」


「あ、そ、そうだよね、銭湯のお客さんのことだもんね……ごめんなさい……」


 また小さくなって謝る私に、湊くんは「いえ、そういうんじゃなくて」と小声で言い、一つ息をついてから明るい声になった。


「じゃ、ご褒美に和菓子でも買ってあげますよ」


「ほんと!? あ、いや、でも高校生にそんな……」


「父さんからバイト代もらってるし、大丈夫ですよ。何がいいですか?」


「……えっと……、豆大福……」


「いいですね。一緒に買いに行きましょう。家、銭湯の近くですよね?」


「うん。……あ、あのね、その、やよいちゃんはゴンゾウさんって猫さんの飼い主さんで……」


「わかってますよ、さっきの会話聞いて。おせっかいしたんですね」


「うっ……、そ、それはそうなんだけど……」


 言い当てられてまた縮こまる私に、湊くんは言う。


「心配なので、今度から相談してくださいね。携帯番号交換しましょう」


「……はい……」


 いくらオーナーの息子とはいえ高校生に心配される自分を情けなく思うのと同時に、何だか胸の奥がほんわかと温かくなった気がした。

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