あたたかい季節

@UonoMeHidamari

あたたかい季節

 母が死んだのは私が小学二年生のときだった。五月の、ゴールデンウィークを過ぎたあたりだった。

 その年のゴールデンウィークに、母と二人で遊園地に行った。行楽なんて滅多にしない家だったから、ずっと前から準備をして楽しみにしていた。いろんなアトラクションに乗って、マスコットの着ぐるみと三人で写真を撮って、カチューシャを買ってもらって、可愛いプレートランチを食べて、パレードを見て、一日中遊び回った。もう母のことは殆ど忘れてしまったけれど、その日のことはよく覚えている。

 夜勤ばかりの毎日で、私が学校へ行くのと同時に床に就いていた母。どれだけ疲れていても朝食と夕食だけは欠かさず用意してくれていた母。この遊園地みたいに、たまに家族サービスなんかもしてくれていた、優しい母だった。それでも私が母のことを忘れてしまったのは、会話が少なかったからだろう。今、母の声で思い出せるのは、おはよう、おやすみ、いってらっしゃいの三つだ。会話が全く無かった訳ではないけれど、生活リズムが真逆の私たちに言葉を交わす時間はなかった。でも、その数少ない会話の全てに母の愛情があったから、そしてそれを自覚していたから、あの頃に寂しいと感じていたことはなかったのだと思う。

 帰り際に入った売店で、スノードームを見つけた。母は職場に買っていくお菓子を探していて、その間に自分用のお土産を探しておいでと言われて店内を物色していた。そもそもスノードームというものを見たのが初めてで、そんな名前があるとも知らなかったけれど、夕日の射しこむ店内で小さなそれを見つけた。透明な球の中には赤い屋根をしたレンガ造りの家と、針葉樹のような樹木のミニチュアが入っている。持ち上げただけで雪が舞って、もうとっくに春だというのになんだか涼しかった。ぐるりと一回転させると、今度は吹雪いたように激しくうごめいて、それが綺麗だけど奇妙で釘付けになっていた。そう、初めは奇妙だと思っていたのだ。よく見ると家にはドアがないし、雪は地面から降り始めるし、定位置に戻すと今度は地面から吹き上がるように渦巻いていて、変だとも思っていた。もし私がこの中にいたら……外は雪が降り続いていて、景色は度々反転する。それなのに部屋からは出られない。そもそも他に家がないのだから、家から出られても他に行く場所がない。そんなのこわい、と思った。だけど目が離せなかった。こわくても、おかしくても、閉じ込められていても、渦巻く奇妙な雪がきれいだから、それで良くなった。これだけ世界が雪で埋め尽くされているのなら、こわいのなんて気にならなくなるんじゃないか。

 あんまり見つめているものだから買ってくれたのだろう。母の運転する車の中で私はそれを眺めていた。あんまり見つめてると酔うよと呆れられたが、大丈夫と生唾を飲み込みながら返事をした。透明な球は、車の揺れにも雪を吹き上げていた。子供の私の手にすっぽり収まるくらい小さかった。

 それから数日後の夕方のことだった。食卓に肘を突いてスノードームを見ていると、母が買い物へ出掛けると言った。その日、土曜か日曜かは忘れてしまったけど、母は珍しく昼前には起きていて、昼食を材料から作ったものだから夕食の食材が無くなっていたのだ。

「今日はオムライスにしようかな。一時間くらいで帰ってくるから、いろはは留守番よろしく」

 鍵の閉まる音がして、母はそれきり夜になっても帰ってこなかった。私はずっと窓辺でスノードームを転がしていて、はっと部屋に目を移すと真っ暗で驚いた。電気をつけて家中を探したけれどどこにも母の姿は無い。胸騒ぎがして外へ出ると、日暮れ近くの空は燃えているようだった。外を歩いていると、いくらもしないうちに警察に声をかけられてしまった。こんなに暗いのに一人で出歩いちゃダメだ、おうちはどこ、と怒られたけれど、母が帰ってこないから探していたのだと説明すると、警官の顔が僅かに硬くなった。

「お母さんの名前は」

「まふつあいこ」

 私がそう答えると、その警官は突然耳元に手をやりながら私に背を向けて何かを話し始めた。突然話し始めたものだからまた驚いた。一生懸命聞き取ろうとしたけれど、それから一度も視線が合うことはなかった。

夜になった町で、何も見えない踏切の音が、電車の走る音が、次第にうるさくなっていく。

 それからあとのことは覚えていない。母に起きたことをきちんと理解できたのは、小学校も高学年になってからだ。色んな人の話を繋ぎ合わせて漸く浮かび上がった、いや、浮かび上がらせた顛末は、買い物に出掛けた母が暴走した車にはねられたというものだった。




 ベランダに出て洗濯物を干していると急に視界が眩しくなった。午前五時三〇分、陽が昇る時刻だ。手で庇を作りながら仄白い空を見ると山の端が輝いている。残りを手早く片付けて中へ戻ると、部屋の空気が暖かい気がした。エアコンはつけていない。両頬を湿った手で包むと、氷のように冷たかった。四月末とはいえ朝夕はまだ寒い。

 今日は部活の朝練がある日だった。トーストを牛乳で流し込み食器を水に漬け、制服に着替え、荷物を持って家を出る。そのころには空もすっかり青くなっていて、空気の冷たさを押し退けて降り注ぐ陽射しに、今日は暑くなりそうだなと思った。纏わりつく眠気をいなしつつイヤホンを耳に突っ込んで目を閉じ、バスと電車を乗り継いで約一時間。改札を出たら、学校へ続く坂道を登っていく。しばらくすると進行方向の左側、南の方の視界を覆っていた木々や家屋が消えて、海が見えた。北は山、南を海に囲まれたこの街の朝は、人々の息遣いと微風が爽やかだった。

深呼吸して、坂の残りを駆け上がり、剣道場へ向かった。


 朝練が終わり、身体を汗ふきシートで軽くふいて教室へ戻った。HR前の教室は騒がしくて、男子も女子もみんなそれぞれのグループで雑談していた。

「おはよういろは。朝練お疲れ様」

「おはよ。うん、ありがと」

 隣の席で彼女、裏之小路ゆかりは本を読んでいた。高校に入ってから知り合い、それから授業のたびにずっと席が隣ということで仲良くなったのだ。つやつやの長い髪は深い紫色で、切れ長の目元に泣き黒子という愛嬌満点の顔立ち、制服を校則通りきっちり着こなした如何にもお嬢様といった風で、実際、茶道の有名な一家の出なのだそうだ。見た目と雰囲気に違わぬ生真面目さで一見すると近寄りがたい空気もあるが、仲良くなってみると素直で真っ直ぐな可愛い子ちゃんだった。

 話し込んでいると担任がやって来た。今日は学校が終われば部活があり、そのあとバイトがある。それが終わったら家に帰って、晩ごはんと課題土風炉を済ませ、家事をしてから眠る。そういう生活が始まって、一月経とうとしていた。一人暮らしどころか、働くのさえ始めてだったけど、バイト先の店長も先輩も優しくしてくれる良い職場だと思う。今日も忙しい一日になりそうだと思った。


 うっかりしていた。

 バイトも終わり、帰るために電車に乗ったあと眠ってしまったのだ。気付いた時点で時刻は午後十一時を回ろうとしていた。慌てて電車が停まった駅で降り、待合室に駆け込む。そのまま駅で戻りの電車を待っていようかと思ったけれど、空腹に負けて改札を出た。終電まではまだ時間があるようだったし、スマホで現在地を表示すると少し行ったところにファミレスがあるとのことだった。

駅前から一直線に伸びた通りを、ふらふらと進んでいくことにした。それなりに人の往来はあったもののやはり飲食店はなく、歩くしかなさそうだった。それから十分もするとそれらしい看板はいくつか見つかったが、灯りが点いていないか高校生では入れないような店ばかりだった。コンビニはたくさんあったけれど座って食事がしたいので強行軍をした。さらに十分も歩くといい加減疲れてきて、ひょっとしたら、と路地に入ってみたりもしたけれど、それが良くなかった。とうとう引き返し方がわからなくなってしまったのだ。

 もう食事は諦めることにした。しかし引き返す段になっても、来た道がわからないのだからどうしようもない。時々目にするあやしい看板はどれも、見たことがあるような気もするし、見たことがない気もする。さっさとあの大きな通りに戻ってしまおうと、いくつもの曲がり角をやみくもに走って、いよいよ方向感覚さえ失われてしまった。

 我ながら愚直さに溜息が出る。気が付けば光源は建物の勝手口についた蛍光灯ばかりで、街灯りや車道みたいな、人の気配がする光が見つからない。ときどき、建物の隙間、その向こうからわずかに雑踏が聞こえてくるくらいだった。スマホのGPSは細かな位置を特定できないようで、ぼんやりしたマーカーがこの場所の周辺を表示するだけだった。仕方なく地図を頼りに進んでみるも、出られそうなところは人が通れなさそうなくらい狭かったり、フェンスがかけられていたり、地図に載っていない建物で塞がれていたりして抜けられそうにない。どうやら本当に迷ってしまったようだった。

「のど、乾いたな」

 流石に疲れた。竹刀は背負ったまま、鞄を地面に下ろし息を吐いた。膝に手をついたのなんていつぶりだろう。本当は座ってしまいたかったけれど、立ち上がれなくなりそうでこらえた。かるくストレッチをして、何となく空を見上げてみる。ビルに切り取られた空はほんの少し青っぽくなっているだけで、星や月は見えない。

ずっとここから出られない、なんてことはない。スマホの充電はまだ余裕があるから友達にでも電話したらどうにかなるだろうし、さっきの狭い隙間を無理矢理にでも通り抜ければ通りに出られるだろう。ガラス玉に閉じ込められている訳では無いのだ。だけど、今はその元気がなかった。本当にくたくただった。膝の裏と土踏まずが痛くって、胸元まできた疲労感で鼻がツンとする。そんな、迷子になったくらいで泣くなんて、もう高校生なのに。

「おま、お前、なんなんだよ!」

 突然の怒鳴り声のおかげで、肩が跳び上がったのと同時に涙が引っ込んだ。それはおそらく中年ほどの男の人のダミ声で、反響はしていたものの近くにいるようだ。荒ぶっているのが不安だが、人がいるなら近いうちにここから出られる可能性もある。靴を履き直し、鞄を持って声のした方へ歩き出した。


 そのあとも、路地には断続的にクソがだとかおいだとかの怒号が響いていた。あれから数十メートルも行くとすぐに声がクリアになり、曲がり角の向こうの人影が動く気配で慌ててビルの陰に身を潜めた。息を殺してそっと様子を伺うと、私から目と鼻の先にある拓けた場所で、尻餅をついて後退る男と、その男の正面に誰かが立ちはだかっているようだった。尻餅をついている男は、怯えているのか腰が抜けているのか震えていた。片手を地面について体勢を立て直そうとはしているものの立ち上がれないようだ。衣服は上下とも泥でぐちゃぐちゃで、髪もぼさぼさだが外傷は無い。男はダミ声で喚きながら、怒りとも恐怖ともつかない表情で眼前の人間を睨めつけていた。

「何か言ったらどうなんだ? ああ!?」

 一方、立っている方は無言で男を追い詰めていた。ゆっくり、しかし一定の足取りで確実に迫っている。不思議なのは、その人が何も持っていないことだった。ファイティングポーズをとっている訳でも、なにか武器を構えている訳でもない。手ぶらで、道を行くような足取りで少しずつ躙り寄っている。なのに緊張感だけみれば剣道の試合みたいだ。しかも初心者と上級者の試合のように、すでに勝敗が決しているからこその睨み合いがなされている。

 何にせよ、尋常でないことは明らかだ。助けに行くべきだと思った。背中の竹刀ケースが少しだけ重くなる。どういう事情があるのか知らないが、座り込んだ男は危害を加えられそうだ。道を聞くにしたって、まずは落ち着いてからがいい。そのためには、危険を排除した方が良いだろう。それに、相手が手ぶらなら獲物があるこちらが断然有利だ。まだ私の存在は悟られていないだろうし、急所を叩くことができればその間に逃げることもできるだろう。今すぐ竹刀を抜いて、後頭部に振りかぶれば、いける。

 しかし、そう思っているのと同じくらい、それは悪手だと勘が囁いていた。

 様子を窺っている間に、立っている人間の方も見えてきた。こちらに背を向けているので顔は見えないが、なにやら上品そうなスーツに身を包み、ブロンドの長髪はリボンで留めている。肩幅や手の形、身長を見るに男性のようだが、はっきりしたことはわからない。漂う雰囲気は女性のようでもあるし、男性のようでもあるからだ。ただ、たったそれだけのよくわからなさが、私を躊躇わせていた。

 考えてみればおかしな話だ。後ずさる男は遠目に見ても筋肉質で身長もあるだろうことはすぐにわかるくらい体格がいい。それが、何も持っていない、男からすれば細身であろう人間に、あんなにも追い詰められるものなのか。この取り乱し様だ、おそらくここに来るまでにスーツの男に何かされたのではないか。その「何か」が何かもまたわからないが、警戒するに越したことはないと思った。

 ケースをそっと開けて、竹刀を取り出す。緊張はなかった。竹刀を取っていれば、例え負けることになろうとも、相手に隙を作り出せるという自信があった。それから、そういう傲慢な考え方をしていると足元を掬われるという経験もあった。母が亡くなってから、剣道は私にとって自分を戒める為の時間と手段で、自分を守る唯一の手段になっていた。これがなければ私はいままで生きて来れなかっただろうし、これからも生きていけないだろう。この先の命がないのなら、今ここであの不気味な男に殺されたって同じ事だ。だけど私は生きたい。生きたいから足掻くのだ。

 渦中の二人はいよいよ袋小路の終点に迫っていた。すると、それまでただ立っていただけの長髪の人間が、不意に顔に左手をやった。今だと思った。どこに向かって逃げればいいかはわからなかったが、そんなのは助けてから走りながらでも男に聞けば良いだろう。とにかく今しかなかった。構えた手を振りかぶり、素早く陰から一息に飛び出て、後頭部をめがけて振り下ろす。

「面――――……っあ」

 竹刀が長髪の男に振り下ろされるまでのあいだ、時間がスローモーションのように流れていた。座っている男が、手足から氷のように溶けて、滴り落ちるたびにコンクリートに大きな染みを作っていく。私の気合と男の悲鳴が混ざり、あるところで音が途絶えた。視覚の情報があんまり重たいものだから、脳が音の情報まで処理し切れなくなったのだろう。

 無音の世界でその光景を見ながら、二つ、思い出したことがあった。一つ目は、インスタでこんな映像を見たことがあるな、という記憶だ。数ヶ月前に見た、皿に載せたハート型の氷が溶けるタイムラプスだった。暇つぶしに適当なリールを眺めていただけで、それもすぐにスワイプしたような気がする。今まで思い出すことはおろか、覚えていたわけですらないのに、なぜだかそれを思い出していた。

 二つ目はスノードームだ。母と一緒に行った遊園地で買ってもらった、あの不用意に触れるとぶわっと雪が舞うスノードーム。男の雫は、落下して地面に触れるとあの雪のように重力に逆らい、巻き上がって霧散する。なのに地面にはしっかりと濡れた跡が残っているのだから不思議だ。ぼたぼたと、男の肌の色をした粘度のある液体が次から次に落ちては、一瞬で漂白され蒸気のように消えていく。正確に言うならあのスノードームみたいなパウダースノーではないけれど、まるで雨交じりの重たい雪が降っているようだった。

 男はなにか口を動かしているようだったが、やっぱりなんと言っていたのかはわからない。恐怖一色に染まった顔で、もう殆ど残っていないその身体を必死にばたつかせている。ただ、服の袖だとか裾だとかの部分はもう無くなってしまっているから、余ったそれらが旗のように揺れているだけだった。

 それから目を逸らして長髪の男の方へ焦点を合わせると、長髪の男はこちらを振り返っていて、その彫刻のような目鼻立ちが私を驚きの表情で見ていた。全てがゆっくり見えていたのは、それまでだった。

 竹刀を叩きつけられた長髪の男がよろめいた。そのままの勢いでさっきまで男がいた所へ走り抜けるが、そこには濡れて重たくなった衣服と、アスファルトに黒っぽい水溜まりがあるだけだ。呆然としている時間はないのに、それ以上身体が動かなかった。頭の中でシミュレートした動きを遂行するも、腕を引こうとして差し出した手は空振った。どうすれば良いかわからない。

 すると突然、斜め下、脇腹の辺りから黒い影の塊が伸びてきた。ワンテンポ遅れて、手から離れた竹刀が音を立てる。またしても怪現象が起ったのかと思ったが、影に両腕を絡め取られ壁に背中と後頭部を打ち付けられてから、影の正体があの長髪の男だと分かった。不意を突かれていた。残心を抜かった自分の至らなさだった。心臓が早鐘を打っている。上手く息ができないのは、パニックで呼吸ができていないからだろう。さっきまでの静寂とは打って変わって、耳元でざりざりと頭がコンクリートに擦れる音と、血液が流れる音がノイズのようにうるさかった。

 長髪の男は器用にも、男自身の四肢を使って私の関節を固めていた。真っ白な大きい手で手首を掴み、右膝を股下に潜らせ、左膝を太腿に刺していた。殆ど密着しているので嫌でも顔が見えたのだが、さっきの印象は間違っていなかったようだ。西洋の美術品のように彫りが深い顔立ちは一目で海外の人間だということが分かる。はっきり言って美形だ。こんな状況でなければ、いや、正直に言ってこんな状況であっても、かっこいいだなんて思うくらい綺麗なひとだった。

 男は私の荒い呼吸をものともせず、さらに顔を近づけてきた。真っ赤な瞳が近すぎてぼやけて見える距離で、興味深そうに、しかし一言も喋らず私と目を合わせ続けている。脳内はぐっちゃぐちゃで思考らしい思考もできないし、身体は恐怖に震えて使い物にならないけれど、かっこいいな、と感じているのだから心は凪いでいるようだ。

「きみ、名前は」

 男は流暢な日本語でそういった。成人している男性の、優しい声だった。あんまり自然にナンパされたものだから咄嗟に名前を告げてしまいそうになったが、出たのは盛大な咳だった。殆ど嗚咽のようなそれと唾液がかかるのも構わず、男は微笑みすら浮かべて私が落ち着くのを待っている。

「落ち着いて。ゆっくり呼吸をして。そう、吸って、吐いて……」

 言われるがまま呼吸を合わせる。三秒毎に肺の奥へ酸素を送り込み、三秒毎にそれを空にする。肺を動かす度に脳がクリアになっていく。それを体感で五分も繰り返していると、呼吸は落ち着いて、次第に痛みを知覚してきた。全身が重く、これまでの疲れがどっと押し寄せてくる。どうやら身体も脳も、多少は回復したらしい。

「きみの名前を、教えてくれますか」

「ごめんなさい、げほっ、それは、ちょっとできないっていうか」

 さっきは流れで言いそうになったが、知らない人に、それもどうやら訳ありそうな相手に名前を教えるのは抵抗があった。それよりあなたは、と聞こうとしたとき、彼は私の拘束を解いた。にこりと、その骨格をどう動かせばそんな顔ができるのかという程に可愛らしく、幼い子供のような笑顔を見せる。それから、半身を切って後ろ、つまり私の向いている方向を指さした。

「そこの通路を行けば、通りへ出られます。そのあと最初の信号を右に行って、あとは道なりに行けば駅に戻れるでしょう」

 まるで、私がここに迷い込んできたことを理解しているかのような口ぶりだった。勿論そんなことは一言も口にしていない。

もう一度男性の名前をたずねようとしたが、またしても咽せてしまった。そうやっているうちに遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきて、彼は踵を返し、私が来たのでも、指さした方でもない路地へ歩き始める。早くしないと行ってしまう。

「あ、の!」

 唾液をこらえながら出した声が、思いがけず大きくなったことに自分でも驚いた。また苦しくなってくるけれど、それも飲み込んで尋ねた。

「あなたは、何者なんですか」

 彼は足を止め、くすくすと笑いながら振り向いてこう言った。

「また会いましょう」




 母が死んで、私は父に引き取られた。父と初めて会ったのはお葬式の次の日だった。その日私は、喪主をやってくれた母の勤め先のおばさんに連れられて、東京の大きなホテルへ入った。中は広く、大理石の床にはカーペットが敷かれ、一直線に受付まで繋がっている。両サイドにはいくつものソファと小さな机が並んでおり、様々な人がそこに座って新聞を読んだりコーヒーを飲んだりしていた。壁際には階段があり、上の階にも人が行き来していた。天井には大きなシャンデリアが置いてあり、他の照明と地上へ柔らかな照明を落としていた。

 受付へ向かうと、地下へ通された。エレベーターの扉が開くと、壁際に厳めしい木製の扉があって、嵌められたガラスの向こうにはテーブルが並んでいるのが見えた。重厚な装飾に思わず息を呑む。上の階と同様に気品ばかりが漂うそこはレストランのようで、店内に入るとさっき窓から見えたテーブルの他にはカウンターがあった。カウンターの向こうには厨房があるようだったが、人はいなかった。それどころか、店内のどこを見ても人がいなかった。おばさんの手を握り奥まで行くと、カードが置いてある席があった。

「そいじゃいろはちゃん、ここでお父さんが来るまで待ってるのよ」

 そういっておばさんは行ってしまった。仕方なくソファに座るが、真っ赤で異様にふかふかしたソファは落ち着かなかった。さっきの受付から既にそうだった。エントランスの雰囲気が静かだったとはいえ、あの場にいた従業員も客もみな忙しなかった。内装に合わせたかのように無駄なく動き、無駄なく過ごしていた。居心地が悪かった。こんな綺麗な場所で、しわだらけのTシャツを着ていることが恥ずかしくなった。これだってお母さんが買ってくれたものなのに。いつも着ているただの服なのに。「しょうがないな、じゃあ次の休み買い物行こっか」と言って他の服を買ってくれるお母さんはもういないのに。

 帰ろうと思った。今すぐに家へ帰りたかった。警察に保護された日からずっと、母の勤め先の人の家を転々としていた。いや、させられていた。その人たちは善意でそうしてくれていたことは知っていたけど、母と同じ仕事をしていたものだから夕方になるとカップ麺や菓子パンを置いて出掛けていった。用意された寝床で寝たふりをして夜を明かし、朝になると次の人の家へ連れて行かれた。誰も傍にいてくれないのなら、家にいた方がマシだった。家なら私のものも母のものもあったし、学校にも行けた。一人でも家事はできた。

 帰りたい。帰りたい、帰りたい、帰りたい。

「ああ、ああ、待たせてすまない」

 知らない人の声が入り口の方から聞こえてきた。慌てて眼を手の甲でこする。グレーのハンドバッグを抱え、白髪交じりの頭を綺麗になでつけ黒いスーツを着たおじさんが、私の方へ向かってきた。

「こんなに早くきてくれているなんてな。いろはちゃんがそんなに楽しみにしてくれていたとは」

「あの、おじさん、だれですか」

 そう言って私の向かいに座ろうとしたその男性は、笑顔を顔に貼り付けたまま一瞬だけ言葉に詰まった。しかし何事もなかったかのようにまた話し始めた。

「ああ、そうだな。いろはちゃんが私のこと、知っているはずがない。失礼した」

座ってからジャケットの襟を正し、それからこう言った。

「私はね、君のお父さんだよ」

 私の父親の存在なんて、考えたこともなかった。母はそもそも父親の存在について話したことはなかったし、周りにも親のどちらかがいない子はたくさんいた。それについて、幻想も、憧れも抱いてはいなかったが、いざ目の前にするとなぜだか大切なもののように思える気がした。いや、それもちょっと違うかもしれない。私にとって家族とは母だけで、これまでの八年間、それより多くも少なくもならなかった。それは変わらない。だから、父親を自称するこの男のことをどう思おうとしているのか、自分自身はっきりとは分からないのだ。ただ、今では失ってしまったと思っていた、探していたあたたかさの欠片のようなものがそこにあるように思えた。それが「家族」のことなのか、「父親」のことなのかは、やはりわからないけれど。

 証拠を見せよう、と言っておじさんはハンドバッグの中から紙を取りだしてこちらへ見せてきた。難しい文章と数字の組み合わせでよく分からない。

「ああ、申し訳ない。またやってしまったな……ほら、これがいろはちゃんのことで、これが私のことだ。そしてここには、この検査結果が私といろはちゃんが遺伝子的に親子関係だということが書いてある」

 検査などした覚えもなかったし、遺伝子というのが何のことで、どうしたら私とこの人が親子だということがわかるのだろうか。そんなすごい証明が本当にできるのだろうか。またしてもわからないことが増えてしまった。紙を見つめるしかできない私をよそに、それで、と今度は神妙な顔をして男性は続けた。

「愛子さんが死んでしまったことは、私も驚いているんだ」

 膝の上に置いた手に力が入った。

「本当は、君が生まれてからずっと会いたいと思っていた。ただ、色々あってできなかった。何より、愛子さん……お母さんに、拒否されていたんだ」

 男性は険しい顔をして話し始めた。

「君が彼女のお腹の中にいるとわかったとき、話し合いをした。毎月の援助はすると言ったんだが、それも断られた。欲しい金額を払うと言っても頑なだった。無理矢理でもいいから渡したかったが、私は彼女の口座も、住所も、本当の名前さえ知らなかった。名前を知ったのは、話し合いが終わってからだった」

 滔々と語るその人は、それまで私の目を見て話していたにも関わらず段々視線を机に落としていった。言っていることは理解できていたけれど、正直に言ってあまりこの人に対して良い印象を抱けずにいた。だってそうだ。どれだけ理由を並べ立てたところで、結局は今まで一度も会ったことがないのだから。家族なら、どんなに忙しくたって一緒にいるものなんじゃないのか。家族である母がそうしてくれたように。

 私の内心はいつの間にか不安から怒りに変わっていた。

「だけど、彼女が亡くなった今、言いつけを守ったままきみを一人にしておく訳にもいかないと思ってね。もちろん不自由な思いはさせないよ。欲しいものはなんだってあげよう。これは私の罪滅ぼしでもあるんだ」

 どうして、と口を開いて、後悔した。こんなことを聞いてしまえば、着いていくことは避けられなくなってしまうのに。怒りに任せてしまっていた。だけどもう遅い。おじさんは、相変わらず薄く笑いながら私を見ていた。

「どうして、わたしを探しに来たの?」

「家族だからだよ」

 さあ、食事にしよう、とおじさんが言うと、誰もいなかったはずの厨房から、ウェイターが料理を運んできた。広げていた書類を片付けると、机はあっという間に湯気を立てる皿で埋まった。これを食べたらもう二度と家に帰れないのだろうと思った。でも昨日から何も食べてなくて、私は出された料理をすべて食べてしまったのだった。




 今日はバイトがなかったので、あの人を探しに昨日の場所に行ってみようと思った。偶然にも今日は学校が早く終わる日で、部活もない。ホームルームを進める先生の声を聞き流しながら窓の外を眺めていると、眼下の海が光った。海上を大きな鳥が何羽か、滑るように飛んで行く。春の海は眩しい。今朝もやっぱり寒かったが、それでも昨日より着実に暖かくなってきている。

 荷物を置いて、家事を済ませてから出掛けようと思った。昨日家に帰り着いてから風呂にも入らず寝てしまい、遅刻はしなかったものの寝坊までしてしまったので、二日分の朝食の片付けがシンクに残っていた。

 あの人――長髪の男性が、危ない人間なのだろうということは分かっていた。どんな手段を使ったのかは知らないが、目の前で人間が一人、跡形もなく消えたのだ。危険人物であることは間違いない。消された男が彼を恐れていたのも、もしかしたら仲間をああやって消されたからなのかもしれなかった。向かってくる者も逃げ惑う者も、次々にああやって溶かしていったんじゃないだろうか。恐怖に染まる顔が、許しを請う手が、とろりと溶ける。ぼたぼたと、地面にシミを作っていく。そこまで考えて、胸の内に注がれた重たい空気を吐き出した。

 人が消えた、ということは、死んだということだ。母と同じように、二度と言葉は交わせなくなった。それは恐ろしいことのはずなのに、実感がなかった。「人が溶けた」という事象を、「消えた」という事象と繋ぎ合わせることができたとしても、さらに「死んだ」という事象に繋ごうとすると、どうにも嵌まり具合に違和感があるのだ。どんな死だって、過程が違ってもゴールは同じなはずで。だけどその死に、母の時のようにすぐに実感が湧かないのは、消えたのが他人だからか、それとも消え方に問題があるからか。どちらでもあるような気もするし、どちらでもないような気もする。ふと、あの人に会ったらそれがわかるかもしれないと思ったが、小さく首を振って掻き消した。人の死がどうのといいつつ、結局はまたあの人に会えたらという期待があるのだから世話無い。そりゃあ、今までにもほんの少しくらいは恋したりされたりというのはあったけれど、こんなのは初めてだ。

 がらがらといくつもの音が響いた。教室内に目をやると、ホームルームはいつの間にか終わっていたようだ。暗いことばかり考えてちゃいけないな、ともう一度溜息を吐き、鞄からパンの袋を取りだして開けた。

「あれ、今日はお弁当じゃないのね」

 ゆかりが話しかけてきたので、パンを食べつつ答える。

「あー、うん。昨日ちょっと、いろいろあって疲れちゃって。ゆかりは? もう帰るの?」

「ええ。今日はこのあとお茶会があって。……いろいろっていうのは、やっぱりアルバイトかしら」

「まあそんな感じ。疲れて帰りの電車寝過ごしちゃってさ。気付いたら知らない駅で焦った」

 えー、とゆかりが驚いた顔をする。彼女は基本的に車移動だと前に言っていた。

「大丈夫だった?」

「お腹も空いてたし、仕方ないから駅から出て食べ物屋さん探してたら迷っちゃってさ。コンビニ見つけたけどゆっくり食べたかったし、結局何もせず帰っちゃった」

 あのことは言わなかった。言えるはずがなかったし、言ったところでゆかりにとっては面白くもなんともないだろう。むしろ変なところで変な作り話をする変な人だと思われるのが関の山だ。あるいは、仮に信じてくれたとして、こんなおかしな事件に巻き込みたくはなかった。

 パンを食べ終えると、丁度ゆかりの携帯が光った。どうやら迎えが到着したらしい。

「もし今度同じ目に遭ったら連絡してね。迎えに行くから」

「あはは、もうこんなミスしないよ」

手を振りながらゆかりを見送る。私もパンの袋をゴミ箱に捨てて、学校を出た。


「こんにちは。昨日ぶりですね」

 家に帰ると、リビングに昨日の男性がいた。2Kのこの部屋は、玄関から一直線上にリビングが見える作りになっている。靴は脱いでいたから良かったものの、食卓に座っているその人を認めたのと同時にころんでしまった。

「な、なんっ」

「きみに会いたくて。ちゃんと玄関から入りましたよ」

 鍵は閉めて出たはずだ。ベランダの窓の鍵も閉めたはず。それはいつも、一番気にしていることだった。そもそも、父と防犯のために一番上の階に住むという約束をして、一人暮らしを始めたのだ。

 彼は足の短いこたつ机の下座に、いつも私がしているようにカーペットに直に正座していた。なんとか体勢を立てし、促されるまま向かい合うように上座に座る。心臓が破裂しそうではあったけれど、その人は昨日と変わらず彫刻のような顔で私を見つめていた。その眼差しには緊張感や棘が一切なく、お帰りなさいとでも言だしそうな安らいだ印象さえあって、驚いたのと同じくらいかっこいいと思っているのだからもう自分も重傷だと思った。

「改めて。昨日ぶりですね、いろはさん」

「なんで私の名前……」

 それだけじゃありませんよ、と言葉を切る。

「本名茈薙(しなぎ)いろは。旧姓は真市。四月十五日生まれ。身長162センチ、体重56キロ。榮坂高校普通科一年二組。剣道部、中学生から毎年全国大会で優勝。小学二年生まで川崎市で母親と二人暮らし。死別後は父親で議員の茈薙雄(ゆう)叢(ぞう)氏に引き取られ、東京で暮らす。そのとき異母兄ができ――」

「わかった、わかったもういいから」

 突然私の個人情報を列挙し始めたのを制する。本当、この人は何なんだろう。スカートのポケットに入った携帯に手をやりながら、改めて観察する。そこまで色々知っているのなら、この家に金品がないこともわかっているだろう。となると侵入の目的が強盗でないなら、昨夜の口封じ以外に考えられなかった。やっぱり、雰囲気に騙されるところだったのだろうか。

「そう警戒しないでください。今日は、僕のことも知ってもらおうと思いまして」

 そう言ってパスポートを二つと、なにかのカード二枚をジャケットから取りだした。机に並べたそれを、確かめろというように顎で示す。パスポートの方を手に取ると、片方は日本のものだが、もう片方は知らない文字が書かれていた。中を見ると、日本語の方には「灰島深神」とあった。カードは免許証のようだ。そちらも名前に灰島深神とあり、日本語のパスポートと同様の生年月日や住所が書いてあった。一方、見たこともない字で書かれている方は、文字こそ読めないものの誕生日の数字を見るに日本語のものとは違うことが書かれていた。おそらく、日本語の方が偽物で、謎の文字で書いてある方が本物なのだろうと思った。

「これ……読めないんですけど、なんて書いてあるんですか」

 尋ねると、彼は外国の言葉で何かを言った。英語ではない。かつて母の同僚にいたタイやフィリピンなどのアジアの言葉でもなさそうだった。相変わらず理解できない私のために、日本語的な発音で「ダニール・スェールイスキー」と言い直した。

「僕の本当の名前は、ダニール・スェールイスキーです。24歳のロシア人です。ロシアの、いわゆるマフィア組織で働いています。お察しの通り、その仕事で日本へやって来て、潜入のために普段は会社員をやっています。ルーツは父が日本人で母がロシア人ですが、二人とももういません。父親は僕が生まれる前に日本へ渡ったきり行方不明で、母は、」

 滔々と語る口調に、一瞬だけ力が込められた気がした。

「僕が殺してしまいました」

 嫌な沈黙がこの場を支配した。背筋がわずかに痛みを伴って凍る。

「ご存じかとは思いますが、僕はこの目で、人を殺すことができます。それで誤って殺してしまったんです。当時の僕は自我もないくらい幼かったものでしたから、そのときの記憶はないのですが。それを見ていた者がいましてね、母亡き後はその人に拾われ育てられました」

 曰く、左目を合わせた者を溶かし、この世から消してしまうことができるという。その能力を買われ、幼い頃から反社会的組織、所謂ロシアンマフィアの構成員として生きてきた。普段はそれが暴発しないよう、長い前髪で覆っている。全て流暢な日本語にも関わらず彼の言うことは殆ど理解できなかったが、要約すればおそらくこんな感じだった。信じられるわけがないが、だけど、目の前で見たそれはどうしようもない事実だった。事実であれば、受け入れるしかない。解説もかねて、もう一度お見せしましょうか、との申し出を即座に断る。

「あなたについては、何となくわかりました。信じられないけど、見ちゃったし、信じざるを得ないというか。でも、その」

「二人きりの時はダーニャと呼んでくれると嬉しいです」

「だ……ダーニャさんは、なんでそんなに私が気になるんですか? 私、あれ本当に夢かマジックかと思ってたんです。何かの勘違いだって。そりゃあ色々あったけど、それで片付けてたんですよ? なのにここまでされちゃったら、もう私、忘れることなんてできないじゃないですか。やっぱり私のことも消しにきたんですか?」

 そうとしか考えられない。家に侵入した挙句、一度聞いたら忘れられないような話を聞かされたのだ。詳しくないけれど、こういうのは映画やドラマでは口封じに消されてしまうのが定石だろう。彼の能力が効かない以上、物理的な手段を用いて。

だけど彼は、とんでもない、と笑った。なぜと聞くと、「君のことが好きだからです」と、臆面もなくそう言ってのけた。またしても心臓がどきりと高鳴る。誰だって、イケメンにそんなことを言われたらびっくりするんだから仕方ない。

「あなたは僕の運命の人だと確信しました。ほら」

 立ち上がると、素早く私の横にやって来て腰を下ろし、左目を露わにした。耳に掛けた前髪が一束、はらりと頬に落ちる。真っ赤な向日葵のような光彩の凹凸が咲く。瞳孔が極々僅かに収縮する。きれいだ。やっぱり、男――ダニールはどうあがいてもイケメンで、ああ好きだなあと思うほかなかった。好きな人に好きだと言われたのだから、元からよくわからない人殺しだとかマフィアだとか、そいういうことは考えられなくなってしまった。

「君は死なない。僕の瞳に応えてくれるのは、世界中どこを探したって君しかいないんです」

 迫られたキスを拒否することはできなかった。しようとも思わなかった自分には勿論驚いている。これがイケメンの力かと、瞼をおろそうとするが、見つめる瞳がそれを許さなかった。固く結んでいた唇をこじ開けて侵入してきた、温かくてぬるついたその生き物のような赤が、私の赤を、歯を、上顎を撫でる。バリケードは一度決壊したらもう二度とは築けない。

 いいのだろうか。こんな、済し崩し的になんて。目と目が合ったから恋しただなんて、今時小学生向けの少女マンガにだって無いだろう。ピュアなんてレベルじゃない。こんな野蛮なキス、純情なんて欠片もない。

 たっぷり十分はそうしてから、やっと解放された。息は上がって、顔どころか風邪でも引いたかのように全身が熱かったけれど、そして恥ずかしかったけれど、何か言いようのない充足感に包まれていた。

安心してください、とダニールは付け加えた。「彼のことも、僕が何とかします。大丈夫、簡単なことです」




 新しい家には兄がいた。半分血の繋がっていない兄だった。そしてそれが、父が私の母と結婚できなかった理由だった。さらに偶然にも、私の母が死んだのと同時期に兄の母親も死んだのだそうだ。

 半分の繋がりはあっても、もう半分は繋がっていない。兄と私が似ているかどうかは、自分でも分からなかった。

 新しい家では、生まれて初めて自分の部屋というのを与えられた。新しい家にきて唯一嬉しいと思った出来事だった。東京という大都会に住むのは緊張したが、そのおかげで同時にわくわくした気持ちにもなれた。大きな一戸建てには他にも、綺麗で広いキッチンも、自動でお湯が止まるお風呂も、大きなテーブルとイスのダイニングも、何でもあった。新しい文房具も、新しい服も用意されていた。

「おい!」

 家を探検していた時のことだった。二階の階段を上がってすぐ、収納スペースになっている引き戸を開けて中に何があるのか見ていると、アイロンを落としてしまい、派手な音を立ててしまった。すると奥の方にある部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。この家に私以外の誰かがいたなんて知らなかくて、驚いて突っ立っていると足音が近付いてきた。

「うっせえなあ、俺勉強中なんだけど。静かにしろよ」

「ご、ごめんなさい」

 少年は不機嫌を隠そうともせずそう言い放った。見るからに年上で、高学年のようだった。

 少年は俯いてスカートの裾を弄る私に更に苛ついたのか、叩くようにして手をはね除けた。鋭い痛みが走る。

「おまえさあ、人に迷惑掛けてんのにその態度はないだろ。あ?」

 少年は手の甲で、何度も頬を叩いた。私の両頬が真っ赤に腫れ上がってからようやく満足したのか、部屋へ帰って行った。涙で前が見えなかったし、鼻水で息もできなかった。喉の奥から聞こえるざらついた自分の呼吸の音しか聞こえない。一頻り泣いてから、自分の部屋へ戻った。数時間後、食事を作りにやって来た家政婦に手当をしてもらい、病院へ連れて行ってもらった。幸い、腫れ以外に怪我はなく、冷やすと顔はすぐに元に戻った。

 しかし、少年が咎を受ける事は無かった。あのおじさん、つまり父親が帰ってくることも滅多になかったのだ。どうしてかその日の家事当番の人に訊ねると、忙しい人だから仕方ないのだと言われた。そのために食事係や掃除係を雇っているらしかった。少年の名前も聞いた。茈薙雄紀といい、四つ年上の小学六年生だった。中学受験を控えていて気が立っていたのだろうから、許してあげてと言われた。納得できなかった。でも雄紀の通う小学校もまた私立で、幼稚園の頃からずっと勉強していたのだと聞いて何も言い返せなかった。だから刺激しないように気をつけて過ごすことにしたが、あの一件以、降私を嬲り発散することを覚えたのか、しょっちゅう絡んでくるようになった。それも今度は、目に見えない服の下やモノを隠したりし始めたのだった。

 そんな生活が半年ほど続いて、このままではだめだと思った。やられっぱなしではいられなかった。しかし反撃するにしても私と雄紀とでは体格差があった。何か効果的な反撃の方法がなければ、更に手ひどい仕打ちを受けることは目に見えていた。そんな折、未だ姿を見せない父親から家政婦伝手に「習い事をしなさい」と連絡があった。

 いくつかの候補がある中で、はじめに勉強や楽器を除外した。残った運動系の中で、攻撃手段になりそうなものを、片っ端からやってみることにした。フットサル、ソフトボール、テニス、柔道、空手、弓道等々、初めて経験したものばかりだったが、どれもそれなりにできそうだという手応えは感じていた。ただ、最後に体験入部した剣道が良いと思った。竹刀はリーチがある分体格差のある雄紀とも渡り合えそうだったし、襲われた時、竹刀が手元になくても他のものでも代用できそうだったからだ。

 幸い、父はすんなりと許可を出してくれたようだったので、それからはひたすら剣道に打ち込んだ。学校が終わると毎日稽古をしに行って、時には同じ流派の隣町の道場に行ったりもした。早く強くなりたかったのもあるし、家に居たくないという理由もあった。走るのも筋トレもものすごい量をさせられて、いつも吐いたり泣いたりしていた。だけどその分の力は着実についてきていて、それは自分でも何となく理解していた。また、季節が過ぎて冷え込んでくると、道場の先生や先輩に普通は二年かかる組手に、来年は参加できるようになるだろうと言われていた。誰かに期待を掛けられることは初めてで、嬉しいような、こそばゆいような気持ちになった。その頃には稽古で吐くことはなくなっていた。


 年が明け、学校が春休みに入った頃のことだった。兄が無事中学受験を終えた。

希望通りの私立中学校に通い始めた兄は、九月頃まではさっぱり構ってこなくなった。これまで以上に勉強や部活が大変になったようだった。このまま忙しい日々が続いてくれれば、あわよくば不出来な妹のことなど忘れてくれるだろうと思っていた。だけど現実はそうもいかなかった。

 その日も学校が終わるとすぐに道場へ行き、晩までみっちり稽古をしてきた。風呂に入って食事を取り、さっさと宿題を終わらせて眠っていたときのことだった。不意にベッドが軋んだ、その振動で目が覚めた。視界の中心には、兄の顔があった。

 力の限り叫んだ。この家には、私と兄以外いなかった。だけど夢の中にいるみたいに、思ったように声が出せないでいた。兄の腹を蹴り、怯んだところを見てベッドから這い出る。勉強机に立てかけていた竹刀を構えて、電気をつけた。そこにはやっぱり兄がいた。部屋の鍵は掛けて眠ったはずだった。だけどそれは開いていた。もしかしたら兄は、この家の全ての鍵を持っているのかもしれない。

「なんだよ。あとちょっとだったのに」

 ばつの悪そうな顔で吐き捨てた兄は、腹をさすりながらベッドの上に座った。

 夜間に何かあったら電話するように言われた番号があった。急いで階段を降り、固定電話でそこに掛けるとすぐに女性が出た。何度かあったことのある家政婦の一人だった。彼女に事情を話すと、急いで来てくれることになった。兄はいつの間にか部屋に戻ったらしく、次の日何食わぬ顔でリビングへ下りてきたのだった。

 それからというもの、夜でも人がいるようになった。話を聞いた父が夜間にも住み込みで家政婦を雇ったらしかったが、本人とは直接口を利いてないので本当のところはわからない。兄を叱って欲しかったけれど、皆一様に「思春期だから」と曖昧に笑って答えるだけだった。また、あの一件以降、兄が私に手を出してくることは殆ど無くなった。相変わらず口は酷かったものの、それ以上のことはしてこなくなった。それでも私は、剣道を続けていた。稽古内容はきつかったけど、組手が始まると更に楽しくなったのだ。小学五年生の頃には大会にも出るようになり、生まれて初めて多くの人に勝利を認められた。


 更に数年が経った。私は中学生に、兄は大学生になっていた。兄は大学の程近くに家を借りており、普段はそこで生活しているらしかった。家事なんてやったことないはずなのにと思ったけれど、家政婦さん曰くお友達がたくさんいるそうだ。なんにせよ、この家から兄はいなくなったのだ。

 夏休みに入ったばかりのある夏の日のことだった。朝の内に家政婦さんが作っておいてくれた昼食はオムライスだった。冷蔵庫には盛られたバターライスの皿と、手作りのデミグラスソースが入った鍋が入っていた。バターライスをレンジに掛け、鍋を火に掛けた。小さなボウルに玉子を二つ割り入れて手早く混ぜ、フライパンを取りだして温め始める。料理をするのは昔から好きだった。しばらく前から、自分の料理の仕上げは自分でさせてもらうことにしていた。

 てきぱきと卵に火を入れていき、ポーチドエッグを作った。レンジから取りだしたバターライスの上にそっと乗せ、面倒なのでスプーンで切れ目を入れるとするりと半熟の内側が滑り落ちてくる。あたためていたデミグラスソースをかけ、食卓へ持っていった。

 この家に来て数年、殆ど毎日一人で食事を取っていた。父は滅多にこの家に帰ってこなかったし、兄は自分のタイミングで食べるので、一家三人が揃ってこの席につくことはなかった。たまに、家政婦さんの手が空いていたときに一緒に食べてもらっていた。

「いただきます」

 誰もいないリビングダイニングに小さく響く。リビングには大きなはめ殺しの窓があって、太陽の光を受けた庭の芝や木の緑が輝いていた。今日も夕方から稽古がある。早く今日の分の宿題を終わらせて、早めに道場へ行こう。窓の外をぼんやりと眺めながら一口か二口食べて、スプーンを落としてしまった。突然右手のスイッチが切れたかのように力が入らなくなった。お腹が気持ち悪い。頭が痛い。身体に力が入らない。味も匂いも、傷んでいるようには思えなかった。たまらず、椅子から転げ落ちて床に倒れた。額から脂汗が吹き出し、嫌な歪み方をしている視界で火花が散っていた。窓の外から入り込む光がやけに眩しかった。固定電話は廊下だったが、そこまで歩くこともできそうにない。携帯電話はどこにあったっけ。中学校の入学祝いでもらったのだ。ああ、二階だ。自分の部屋にある。どうしよう、私、ここで死ぬのかな。そうやって悶えていると、誰かが私の上に乗った。兄だった。

 兄は何か言っているようだったが、加工したみたいにおかしな声をしていてわからなかった。私の腹の上に乗った兄はそのまま、胸に手を伸ばしてきた。抵抗しているのに、腕も足も関節を曲げる以上のことができない。気持ち悪い。気が付けば全身汗で濡れていた。気持ち悪い、気持ち悪い。兄の顔が近付いてきた。見たくないのに、迫るそれから目を逸らすことさえできなかった。

 あと少しで兄の口が触れるかというときに、兄の顔が消えた。顔どころか、重さごと消えたのである。上体を起こして何があったか確認したかったが、それすらできないまま意識が途絶えた。

 次に目が覚めたのは病院のベッドの上だった。またしても父の顔はなかったが、傍らには家政婦さんがいた。どうやら、家に忍び込んでいた兄がデミグラスソースに何か盛っていたらしい。それが効いたところを見計らって襲ってきたのだ。幸い、買い物を終えた家政婦さんが帰ってきて、兄に体当たりをかましたことで事なきを得たのだった。

 家政婦さんは意識を失った私に救急車を呼んでくれたのだという。怪我の方もすぐに回復するだろうとのことで、大事を取って今日は一泊することになった。それから、今回は流石に父にも連絡が行くことになったようだ。結果として兄は私に近付いてはいけないということになったが、警察の手を借りることは出来ないので家政婦達と自分で何とかするしかなかった。

 先生を呼んできますからね、と家政婦さんが病室出る。

 この家を早く出たいと思った。退院してから、父に一人暮らしをさせてほしいと嘆願した。忙しい合間を縫ってメールのやり取りをしていた。心配だの家の方が安全だのと理屈を並べ、頑として認めなかった父だが、二年に及ぶ交渉と生活費も全部自分でアルバイトをして稼ぐというと、私の熱意に折れたようだった。その代わり、一人暮らしは高校生になってからにするということと、高校は指定の学校へ行くことを条件にされた。いわゆるお金持ちのお嬢様や坊ちゃんが通う学校だったが、この家を出られるなら別にどこだって構わなかった。

 交渉中の二年間は本当に気が気でなかった。家政婦さんたちも警戒はしてくれていたけれど、それ以上のことはできなかった。所詮彼女たちは雇われているだけの人間で、家族の問題に立ち入ることはできなかった。それに、次のこの家の主になる人間であるあの人には、強く出られないのだった。




「僕なら彼を誰にも知られず消すことができます。それも一瞬で、確実に」

 ダーニャのその言葉を聞いたとき、一番に頭に浮かんだのはノーだった。それじゃだめだ。彼の力は彼の仕事のために使うべきだと思ったし、なにより殺すのにはどうしても抵抗があった。兄のことは苦手だ。はっきり言えばそれ以上だが、自覚したくはなかった。血は半分繋がっていないし、顔も見たくないくらい酷い人ではあるけれど、この世にあと二人しかいない家族だった。少なくとも私にとってはそうなのだ。もう二度と、家族を失いたくはなかった。

 このダーニャ、もといダニール・スェールイスキーという人のことをさっきは受け入れてしまったけど、まだそこまでだ。引き返せるのなら引き返すべきだと思った。だけど、それなのに、悪い人じゃないのだろうなんて思っている自分がいた。どうかしていると思う。いくら私のことを考えてくれているからといって、住居侵入に殺人なんて、普通に犯罪だし、絶対ありえないのに。そっと顔を見ると、すぐに目が合う。慌てて目を逸らす。ああ、そうだ。この人は兄とは違う。私が好きになってしまったのだ。好きになってしまったのだからしょうがないじゃないか。

 それなら、とダニールが言葉を続けた。

「殺しはしません。僕の仕事が終わったら、一緒にこの国を出ましょう。そして一緒に暮らしましょう」

 それにも簡単にノーを出せたら良かったが、今度はできなかった。断る理由がどこを探しても見つからなかった。好きな人に一緒に暮らそうと言われて、断る人間がいるだろうか。それに、この国にいる限りどんなに逃げたって、政治家である彼らから逃れることはできないだろう。さらに都合のいいことに、ダーニャは非合法組織の人間だった。人一人よその国に密入国させ、こっそり生活させることだってできるのだろう。

 わかった、と、じっと私を見つめるダーニャに、私は返事をした。だけど、こう付け加えた。

 三年待ってほしいと。高校を卒業するまでに、兄との問題にカタをつけたかった。いや、本当はダーニャと出会う前からそうすべきだったのだ。わかっていたけれど、もしかしたら解決なんてしなくたって良いんじゃないかという期待があった。なあなあにして、我慢するか逃げるかして慎ましく過ごせば、きっと良くなるだろうと。小学生の頃の私はそう考えていた。だけどそんなのはやっぱり希望的観測でしかないのだろう。今までは偶然目を逸らしていられただけで、この幸せを手に入れようと思ったらいつか必ず現実を直視しなければいけない日が来る、そんな気がしていた。そしてもしも、その日が来たら、一緒に立ち向かってほしかった。

 私がそう言うと、ダニールは肩を抱き寄せ頭を撫でた。体重を預けると、そのまま二人で床に倒れた。しばらくそうやっていたけれど、ダニールが不意に立ち上がった。

「会社の昼休憩を抜け出していたのです」

 ふふ、と笑った。それから「また会える?」と聞いた。「もちろん」と言ってポケットから紙と鍵を取り出した。紙の方には、住所が書いてあった。

「さびしいと思ったらそこに来てください。自由にしてくれて構いません」

 そして最後にもう一度見つめ合った。赤い瞳がきれいだった。

 ダニールが部屋を出てから、食器を洗い掃除機をかけた。ベランダに出ると、真昼の白んだ光が街全体に降り注いでいた。暖かい風が、静かに洗濯物を揺らしていた。

 三年後、自分はどうなっているのだろうか。本当に日本にいないかもしれないし、一年もしないうちにダーニャの気が変わって殺されているかもしれない。でも、それでもいいなと思った。兄にどうにかされるくらいなら、好きな人に殺されるほうがいいに決まっている。なんにせよ、その日が来るまで何もわかりはしないのだ。それなら精々、今を楽しんでしまおう。

 部屋に戻り、携帯でさっきの住所を調べた。最寄りから電車で三十分ほどいったところにある住宅街のようだった。乗り継ぎを覚えてタブを消す。それからまた新しいタブを開き、近場のデートスポットを調べることにした。異性と出かけるのは初めてなので、ドキドキしていた。



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あたたかい季節 @UonoMeHidamari

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