僕の心と君の脚

農民ヤズー

単話

中学生の主人公は運転中の父親に悪戯をし、事故を起こしてしまう。その時のトラウマを抱え、悪戯をおこなった罪悪感を消すために生きてきたが、事故で両足を失った少女と出会い、その心に変化が訪れることに。


文章を上手くまとめる練習として短編で書いてみたので、だいぶ省略してあるところがあります。


※作者は福祉系に詳しくないので現実と違うところは多々あると思いますが、そういうものとして読んでいただければと思います。指摘していただければ、いつか直すかもしれない、あるいは次に似たような話を書くときの参考にさせていただきます。


————————



 中学二年生のある日、僕は人殺しの犯罪者になった。



 なんてことない日常だった。毎日学校に通って、友達と遊んで、たまに家族でどこかに出かける。そんな、どこにでもあるような平凡な日常が僕の人生だった。でも、そんな日常もいつまでも続くわけじゃないんだってことを、僕は嫌でも理解することになった。


「人殺し。なんで来たのよ」


 とある病室。僕は右腕を吊るしながら看護師の女性と共に訪れたそこでは、一人の女の子がベッドの上にいた。

 ベッドの上部を起こし、それに寄りかかる様にして起きていた女の子。今まで会ったことはなく、少し前まではその存在も知らなかった。何事もなければお互いの人生が絡むことなくすぎていったであろう程度の関係。そんな彼女と、僕は謝罪をするために顔を合わせることとなった。


 そんな今初めて顔を合わせた女の子から憎しみのこもった目を向けられ、悪意の籠った言葉をぶつけられた。


 普通ならなんで初対面の人からこんな対応をされなくちゃいけないんだ、とわけがわからない状況かもしれないが、僕はその目も、言葉も、受け止めるしかない。逃げることも戦うことも許されず、ただ粛々と受け止める他なかった。


 そうと理解していながらも、それでもぶつけられる憎悪は恐ろしく、僕は思わず吊るしていた方の腕を抱え込む様に体に寄せてしまう。


 けど、そんな僕の反応が気に入らなかったのだろう。女の子はその目にさらなる憎しみと怒りを籠めて僕のことを睨みつけた。


「なんとか言ったらどうなの、ねえ。そんななんでもないみたいな顔してさあ。そんなんでごめんなんて言われたとしても、許してもらえると思ってんの? ねえ? そんな腕を見せびらかして楽しい? 同情してもらえると思った? 可哀想な自分の姿を見せれば私が許してくれるって? ふざけないでよ」


 そんなことは思っていない。今彼女が言ったことは彼女の被害妄想でしかない。

 けど、僕はそんなことを指摘することはできず、今までと同じように受け止めるしかなかった。


 だって、彼女は僕を憎悪する権利があって、僕には彼女の恨みを受け止める義務があるんだから。

 今日は謝罪のために来たけど、今口を開いても僕に話させてはくれないだろう。

 だから僕は機会がくるまでじっと待っているしかない。


「腕がなんなのよ。まだくっついてんでしょ。どうせ折れただけとかその程度なんでしょ。……見てよこの足。ねえ。これ、どうすればいいの? 私の足、どこ行ったの? なんでないの? ねえ、なんで……なんでっ!」


 そう叫んだ彼女は、自身の下半身を覆い隠していた布団を乱暴に剥がしとり、投げ捨てた。そうなれば当然布団の下にあった脚が見えるはずで、でもそこには彼女の脚は存在していなかった。

 布団の下にあったのは、膝より少し上、腿の半ばから下が失われていた脚だった。


 そんな彼女に比べれば、ただ腕を吊るすだけで済んでいる僕は軽傷と言ってもいいだろう。


 半ばから失われた女の子の脚を見ていると、なんだか途端に心がふわふわとし始めた。まるで今のこの状況が現実ではなく夢であるかのようにさえ感じる。


 こんなことが本当に起こったのだろうか。今のこの状況は現実なのだろうか。


 そんな考えが頭の中をよぎり、不思議と恐れや不安といった感情が薄れていく。


「佐々木さん、落ち着いて。落ち着いてください」


 今にも僕に襲い掛からんばかりに上半身を乗り出して叫ぶ女の子。そんな彼女を周りにいた医者や看護師の人たちが必死に取り押さえていくが、それでも彼女の叫びは止まらない。


「パパもママも死んじゃって、私の足もなくなってっ……これからどうしろってのよ!」


 彼女は、とある事故に巻き込まれた。その際に自身の脚を切断する羽目になり、同時に両親も死亡することとなった。

 そんな経緯があれば叫びたくなるのも無理からぬことだ。それも、そんな事故を起こした相手の家族が……犯人がいるのなら尚の事。


「なんであんたは生きてんの? パパとママを殺した奴らが生きてて、なんで私がこんなことにならなきゃいけないの! ねえ答えて……答えろ人殺し!」


 人殺し……。そう。僕は人殺しだ。彼女は脚を失い、両親を失った。そして、僕もまた両親を失うこととなった。全ては僕の行いのせいで。


 それでも、やはり心は冷静なまま、耳に届く全ての言葉は右から左へと流れていく。

 聞いていないわけじゃない。けど、なぜか心に引っ掛かることはなかった。


「岡崎さん。ひとまずは退室を。まだ落ち着いて話せる状態ではないようですので」


 必死に叫び、僕に憎悪をぶつけてくる女の子との間に入り、一人の看護師が僕を部屋から出していこうと肩を掴み、押していく。


 僕は心のどこかでホッとしながら、押し出す力に逆らうことなく部屋を出ていく。


「逃げるな! 人殺し! パパとママを返してよ! 私の足を返して! ねえ!」


 心は揺れない。けど、その嘆きはいつまでも耳に残り続けた。


 そして、僕はもう二度と彼女に謝罪する機会を失うこととなった。


 ——◆◇◆◇——


「岡崎んちって親が事故って人を殺したらしいぜ」


 どこから漏れたのか、そんな噂が学校で流れることとなった。だがそれは仕方ないことだ。人が死ぬような事故なら見ていた者がいるかもしれないし、僕の周りでも色々と動きがあった。知ろうと思えば簡単に調べることはできただろう。


 そんな他人の事情を深く調べようなんて下世話もいいところだけど、それを楽しんでやるのが人間というものだ。特に、暇を持て余した大人なんてそうだ。そして、子供というのは刺激を求めるもの。だからこうして噂が広がったのは何もおかしくない。


 それに、噂の内容自体は間違っていないのだから否定することもできない。


「それだけじゃなくて、生き残ってた女の子も自殺に追い込んだらしいぞ」


 そう。噂は間違いではないのだ。僕の家が事故を起こして相手を殺してしまったことも、足を失いながらも生き残っていた少女も、先日病院の最上階から飛び降りて自殺した。


 病院側は足を失った少女が移動できる範囲など高が知れていると考えていたようだが、人というのは思わぬところで思わぬ力を発揮するもののようだ。自力で車椅子に乗ってエレベーターで最上階へと向かった少女は、窓を開けて飛び降りたらしい。足がなくなったと言っても根本から失われたわけではなかったのでできたことなのだろうが、もし仮に足を全て失っていたとしても彼女はやってのけただろうと思わずにはいられない。


 あの事故は車を運転していた父の不注意ということに|なった(・・・)。けど、実際はそうじゃない。事実は僕と、僕が事情を話した警察の人達だけが知っている。


 あの日あの時、僕は運転中の父に背後から悪戯を仕掛けた。車内にあったフワフワなホコリ取りで首筋を撫でるという、子供らしい悪戯。普段であればなんてことはない笑い話になっていただろう日常の一つ。特に何か意味があってやったわけではなく、移動中に暇だったから車内で見つけたもので遊んだだけ。ただそれだけのことだった。


 でも、タイミングが悪すぎた。


 僕が悪戯をしたのは、ちょうどカーブをしようと父がハンドルを切っていた時だった。そこにやってきた突然の悪戯で父は驚き、ハンドルを切り損ねた。言ってしまえばただそれだけだ。


 でも、ハンドルを切り損ねても自分たちだけが事故を起こすなら良かったのだが、あいにくとその時は車の進む方向に他の人がいた。僕と同じくらいの女の子とその両親の三人組。そんな家族に向かって車は進み、そのまま……。


 その結果、僕達家族は僕だけが生き残り、相手の家族は女の子だけが生き残った。

 ただし、生き残ったと言ってもお互いに怪我はしている。僕は腕を折り、女の子は足を失った。


 ただぶつかっただけではそこまで大きな事故にはならなかっただろうから、最後の瞬間父はブレーキではなく誤ってアクセルを踏んでしまったのだろうと警察から教えられたが、そんなことはどうでも良かった。僕にとって大事なのはただ一つ。僕の悪戯が原因でみんなを殺してしまったということだけ。


 僕はあの時の出来事を全て正直に話した。けど、警察は『未来ある少年を徒に追い詰める必要はない』なんて言って全て父が悪いことにした。

 僕は悪くない。ただ父が事故を起こし、僕はその車に乗っていただけ——。そういうことになってしまった。


 それではいけない。そう言うべきだったんだろう。だって僕が悪いんだから。僕が原因で起きたんだから。でも、僕はその事実を口にすることはできなかった。

 だって、怖かったから。


 僕が真実を口にしてしまえば、その瞬間みんなの敵意は僕に向けられるだろう。それは怖くて怖くてどうしようもない。考えるだけでも震えが襲ってくる。


 だから僕は真実を口にしないことに罪悪感を感じながらも、警察からの提案に助かったと安堵していた。

 これが卑怯な逃げだってことはわかっている。それでも——怖かったんだ。


 でも、現実は僕のことを逃してくれない。生き残った女の子からは人殺しと呼ばれ、学校では犯罪者と呼ばれた。

 僕は殺してない。あれは事故だった。そんなつもりじゃなかった。

 なんて言葉は思いつくけど、それが口から出てくることはない。だって、実際に殺すつもりがあったかどうかは関係ない。僕がみんなを死なせる原因を作ったんだから。だから、僕が殺したんだって、僕自身が思ってしまっているから。


 それでも不登校にならなかったのは、祖父母がいたから。祖父母が心の支えになったわけじゃない。ただ、これ以上僕如きが誰かに迷惑をかけていいわけがないと思ったから。


 両親が死に、母方の祖父母の家に引き取られた僕は、祖父母の家が近かったこともありそのまま同じ中学に通うことになった。

 学校での噂や状況を知ったのか、一時は引っ越すとか学校を変えるとか言われたけど、それは断った。ただでさえ僕が原因で迷惑をかけたているのだ。これ以上迷惑をかけていい訳がない。

 僕が原因だなんて祖父母には言っていないけど、むしろ言っていないからこそ余計にそう思ったんだ。


 友達は離れていった。

 事故じゃ仕方ない。お前は悪くない。そう言ってくれた奴らもいたけど、僕がそれを受け止めきれなかった。優しくかけられる言葉の一つ一つが僕の心を呪いのように蝕んでいく。

 わかっていたさ。彼らに悪意なんてなく、ただ僕を心配しての発言だったなんてのは。

 でも、僕には彼らの言葉の全てが僕を責めているように聞こえてしまったんだ。心配しているような言葉は皮肉で、裏では蔑んでいるんだろう、と。そんなこと、あるはずないのに。


 先生も同じ……いや、違うか。先生は厄介ごとは勘弁だとでも言うかのように、表面上は僕のことを心配していながらもどこか遠ざけるように軽く扱った。そしてそれは、僕が友人達を突き放して孤立してからより強まった。


 しばらくすれば学校での噂なんて消えていった。元々みんな本気で言ってたわけじゃないのだ。ただそこに面白そうなネタがあったから話題にして遊んでいただけ。わかってるさ。僕だって少し前はそっち側だったんだから。


 けど、一度離れて行った人は戻らず、出来上がった状況も変わらない。僕はひとりぼっちになった。


 そうして中学二年の残りと三年を、誰にも迷惑をかけまいとどこかふわふわと宙ぶらりんな心のまま縮こまって無為に過ごし、卒業することとなった。

 高校には行かない。行けない。だって、お金がかかるから。ただでさえ僕というお荷物を抱え込んでもらったのに、これ以上迷惑をかけられない。だから僕は、中学を卒業すると同時に土方で仕事をすることにした。


 本当はもう少し違ったスーパーかなんかでバイトをしようと思ってたけど、なんとなくそれじゃあダメだと思った。だってそれじゃあ、あまりにも|軽すぎる(・・・・)。

 土方の仕事はきついって聞いたことがあるし、そうだろうなとも思った。でも、だからこそ僕にはちょうどいいんだ。楽な仕事じゃだめだ。きつい仕事をして、苦しんで生きていかないと。そうすることで、きっと真実を話さないで逃げた僕への罰になるから。

 どんな仕事だろうと上下なんてないし、この仕事だから楽だ、なんてものもない。どの仕事だって苦労はある。けど、当時の僕は本気でそう思っていたんだ。


「——おーい、岡崎。そこ終わったらあがれ!」

「わかりました!」


 そんな不純な動機で始めた仕事だけど、数年もすればその大変さも薄れる。それに伴い、僕のうちにあった罪悪感も薄れてしまっていった。

 ろくに鍛えていなかった体は土方としてやっていくには不十分で、少し荷物を運んだりしているだけで身体中が痛かった。その痛みを感じているうちは「ああ、これで良かったんだ」と思えていた。でも、それも最初のうちだけ。周りの人達の助けもあり、僕は次第に仕事を苦とは思わなくなっていた僕は、いつしか自分の罰のためにこの仕事を選んだんだということを忘れていた。むしろ、この場所に暖かささえも感じていた。けどそれじゃあダメなんだ。


 そうなって欲しかったわけじゃない。だってこれは罰なんだから。あの時に僕が犯した罪の……そしてその罪から逃げたことへの罰なんだ。


 でも、どんな感情だって時間が経てば薄れていくもの。ずっと悲しむことはできないし、ずっと怒り続けることもできないのと同じだ。

 けど、それじゃあダメだ。僕は忘れちゃいけないんだ。あの時の僕の愚かな行動で、五人も殺してしまったんだってことを、僕は絶対に忘れちゃいけないし、許されてもいけない。


 でも、どうすればいい? この仕事を辞めればいいのか? 確かにそうすればここで感じた暖かさはなくなるだろう。でも、そのあとはどうする? 生きるためには働かなくちゃいけないし、この仕事以上にキツくて辛い仕事なんて思いつかない。


 生きるために働く必要があるなら、生きることを諦めればいいのか? でも、それも違う。罪とは生きて償うもので、死んで終わりなんてことがあるはずがない。……いや。それさえも〝逃げ〟なのかもしれない。死ぬのが怖いからそうやってもっともらしい理屈を並べているだけなんだと言われれば、僕はその言葉を否定することはできない。キツイ仕事が思いつかないなんてのも言い訳でしかない。だって、探そうと思えばそんなのいくらでも探せるんだから。


「岡崎、なんか悩みでもあんのか?」


 そう声をかけてきたのは仕事場での先輩の一人だった。

 悩み。確かに今の僕の状態はそう言ってもいいのだろう。罰が罰の体を為さず、不安や罪悪感ばかりが大きくなっていく。どうすればいいのかわからず、そもそもどうしたいのかすらもわからない。ただ償わなければならないという強迫観念のようなものだけがずっと付き纏っている。


 けれど僕の今の状態は過去の僕の行動の結果で、つまりは自分のせいだ。悩んでいたとしても、それを他人に話して解決するというのはどうなんだ。自分で背負うべき罪を誰かに話し、助力してもらうだなんて、それはまた〝逃げ〟ることになるんじゃないのか。だから僕は話すべきではない。


 ……そう、思ったはずなんだ。けど、きっとこれも僕の弱さなんだろう。僕は知らずのうちに先輩に悩みを話していた。もちろん詳細は語らない。ただぼんやりと、以前事故を起こして怪我をさせてしまった子がいたがどうすれば償えるのか、とだけを話した。


「この仕事が罰って……そりゃあおめえバカじゃねえの? っつーかこの仕事やってる俺らに失礼すぎねえか?」

「……すみません」


 先輩は呆れたような表情で冗談めかしつつそう口にしたが、言っている内容はもっともだった。確かにキツイ仕事だ。でも、だからと言ってそれを僕の罪悪感を減らすための『罰』だと思うなんて、ふざけているとしか言いようがない。

 そのことを自覚した僕は、ただ謝ることしかできなかった。


 先輩としては冗談の部類だったのだろう。僕のことを咎めはしたが、本気ではなかったんだと思う。僕が顔を顰めて小さく俯いたのを見て悪いと思ったのか、先輩は「あー……」と誤魔化すように声を発しながら視線を泳がせ、何か言葉が思いついたのか再び僕へと視線を合わせた。


「罰がどうしたとか思ってんなら、その怪我をさせた子に直接謝るとかはしたのか?」

「……はい。でも……………………亡くなりました」

「あ、あー……そうか」


 初めてあの女の子にあった日、まだしばらくは会えないだろうということで、でも何も謝らないのはまずいだろうと手紙を書いた。ただ、僕は事故を起こしていないことになっているので、中身なんてあってないような空っぽの謝罪だった。

 今にして思えば、そんな手紙なんてものを送ってしまったこともあってあの女の子は自殺したんじゃないだろうかとも思う。きっと、あの手紙に込められていた〝空っぽさ〟を感じ取ったんじゃないだろうか。


「じゃあ、そうだな……あー、その子と同じように事故って怪我をした人を見守るっつーか、なんだ。看護? する感じの仕事でもすればいいんじゃねえの? ほら、一人死なせたなら千人救うことで償って見せる、みてえなセリフもあった気がするし」


 先輩の言葉は、確かに僕もどこかで聞いたことがあるような気がする。誰か偉人の言葉か、あるいは漫画か何かのセリフか。分からないが、そのことはどうだっていい。今大事なのは僕の心が動いたこと。

 あの日以来、どこか地に足つかず、心と頭が透明な壁で隔てられていたような感覚が微かに……薄皮一枚分くらい軽減されたような気がした。


「怪我をした人を看護する……」

「それにどうせなら自分一人が自己満足で苦しんでるなんつー無意味なことしてんじゃなくて、誰かを幸せにして償えばいいんじゃねえか? そのほうがあれだろ。建設的? な感じしねえか?」

「……ありがとうございます。少し考えてみます」

「おう。まあなんだ。あんまし思い詰めすぎんなよ。こうして相談に乗るくれえだったらいつでも付き合ってやっから」


 そうして僕は、その日の仕事が終わってから早速とばかりに介護というものについて調べ始めた。


「介護福祉士……これだ」


 身体障害者療養施設。正直言ってどこで働けばいいのかわからない。介護福祉士を目指したいと思ってもそう簡単になれるものではない以前に、今の僕にはなんの知識もないのだから。

 でも働かないことには始まらない。全部を完璧に調べてからでは遅すぎる。とにかく今は何か行動しなければ。

 罪悪感と強迫観念に突き動かされるように僕は介護福祉士になることを決め、仕事を変えることにした。


 ——◆◇◆◇——


 それからの日々は慌ただしいものだった。仕事を辞めるにしても今日の明日というわけにはいかないし、次の仕事先を探すのだって時間はかかる。やりたいこと、探す分野は決まっていても、だからと言ってすぐに見つかるものでもないのだ。


「初めまして。岡崎裕哉です。こう言った場所で働くのは初めてですのでご迷惑をかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」


 だがそれでも、二ヶ月もすれば次に働く先も見つかった。そこは怪我等によって身体に障害のできてしまったものが普通の生活をできるように補佐するための施設だ。ここには病院から出てきたけどまだ自宅での生活は厳しい人たちが集まる一時的な仮宿のようなもの。

 僕が求めていたのは足を失った人を介護する仕事だったけど、そんな足だけを専門とした場所なんて見つからなかった。けど、それでも良かった。だって、僕がやることは変わらないんだから。ただ怪我をした誰かのために動く。それだけだ。


 それに、あの時の女の子はたまたま足だったけど、事故によっては腕を失うこともあっただろう。僕がそこで働くのは、罪滅ぼしのため。事故に遭った人達に接し、尽くすことで〝何か〟がないかと期待してのこと。だからどこを怪我していようが僕の抱く思いは変わらない。その〝何か〟がなんなのかは自分でもわからないけど。


「本日は新しい人が入ってきますので、みなさん確認しておいてください」


 自分でもなにをどうしたいのかわからないまま数年が経過したある日。朝のミーティングでそう告げられた。配られた資料に載った写真を見た瞬間、ドクンと胸が跳ねた。嫌な感覚だ。決して恋をしたから、胸がときめいたから、なんて理由じゃない。ただ、似ていたんだ。


 ずっと忘れることのできない女の子。夢の中でさえ僕を咎め続ける呪いの元凶。

 そう。僕があの時殺してしまった女の子に、似ている気がした。


 それは単純に体型と髪型が似ているからと言うだけだったのかもしれない。顔なんて怒った表情か泣いている表情しか覚えていない……いや、そもそも見ていないから平時の顔なんて比べようがないんだから、似ているとは言い切れないはずだ。

 ただそれでも似ていると思ったんだ。その最たる理由は、その女の子の足。この子も、あの子と同じように足がなかった。


 女の子の名前は『月ヶ瀬由梨』。やはりあの時の女の子とは別人だ。そんなのはわかりきっていたことだ。何せ、あの女の子は死んでしまったのだから。


 月ヶ瀬由梨という女の子についての話は淡々と進められていくが、僕はその話を聞きながらも手元の資料を眺め続けていた。

 そしてある程度心臓の動きが落ち着き、冷静になれたと再び資料を読み進めていくが、そこに書かれていたことを読んでみて、やは似ていると思わずにはいられなかった。その見た目ではなく、脚も、脚を失った理由も。本当によく似ている。


 彼女、月ヶ瀬さんは高校二年生。あの女の子と年齢こそ違うものの、学生として平穏に生きていたところに事故に遭遇してしまい、状況が一変したと言うのは同じだ。その事故も、歩いていたら車に突っ込まれたというもの。


 そこまで読んで、再び胸が跳ねる。ドクドクと心臓の音が嫌に大きく聞こえてくる。僕の心臓は普段からこんなに活発的に動いていたんだろうか? ……わからない。

 ひどく緊張した時のように口の中が乾いていき、胸の奥がジクジクと疼く。胃の底からは吐き気が湧き上がるが、決してそれが逆流してくることはない中途半端な状態での不快感がずっと残り続ける。


 僕はどうすればいいのか。いや、どうすればも何も、どうもしなくていい。何かをする必要はない。ただ己の役割である仕事をこなしていけばいいだけのはずだ。そのはず、なのに……。

 どうしてだろうか。何かしなければいけないという不安が無性に胸の中に込み上げてくる。


 この仕事をやり始めたのは僕の罪悪感からだけど、それを他人に……月ヶ瀬さんに押し付けていいわけじゃない。あの子は僕の罪悪感を消すために存在しているわけじゃないんだから。

 だから、僕がやるべきことは何もない。普段通りに仕事をして、他の人たちと同じように接していけばいい。それでいいんだ。そうして彼女が自立することができたなら、その時は僕は誰かを救えたんだって、立ち上がるための手助けをすることができたんだって思えばいい。

 そう、思えるかはわからないけど……。


 でもとにかく、今は気にしないでいい。僕の過去も彼女の状況も気にしないで、ただ普段通りに接すればいいだけだ。そもそも、僕はこの施設で働いているし、彼女のことを介護するって言っても、介護する人自体は複数いるのだから僕だけの仕事というわけでもない。あくまでも僕はメインとなる人の補助でしかないのだから、そう思い詰めることもないのだ。


「月ヶ瀬さん。何か困ったことがあったらすぐに呼んでくれていいから。なんだったら、コンビニで何か買ってこい、なんていうのでもいいよ」


 そう、思っていたはずなのに、気がついたらその子だけやけに特別扱いをしてしまっていた。


「そんな、大丈夫ですよ。でもありがとうございます」


 返ってきたのは、両足を失ったにしては嫌に元気のある声。

 珍しい。僕は素直にそう思った。この場所に来る人達はみんな似たような顔をしていた。当然だ。何せ自分の体の一部がなくなったんだから。これからどうすればいいのか、どうして自分がこんなめに、なんて不安や不満があるに決まっている。


 しかも、華の女子高生で、二年生なんて一番楽しい時じゃないか。友達と遊んで恋人を作って、卒業後はどうしようかなんて悩んで、時には誰かと喧嘩なんかもするかもしれない。


 でも、そんな日常は失われた。

 どこかの誰かの、バカな行いのせいで。


 それなのに、月ヶ瀬さんは笑っている。心が壊れているから、ではない。きっと迷惑をかけまいと、心配をかけまいと気丈に振る舞っているだけだろう。

 自分だって大変だろうにそんな振る舞いができるなんて、強い子だなと思う。

 けど、こうして元気に見える子ほど危うい。限界ギリギリまで溜めて、突然壊れてしまうから。その様子は他人からではわからず、壊れてから始めてわかる。


 なんでこの子がそんな我慢をしなくちゃいけない。この子はなにも悪くないってのに。


 この子に限らず、事故で新しく入ってきた人を見るたびに思う。なんでそんなバカなことをやらかした奴らが生きているんだろう、って。なんでこの子みたいに普通の子がバカのやった愚かさの代償を背負わなくちゃならないんだって。


 なんて、自殺もできずに未だにみっともなく生き残ってる僕が言うことでもないけど。でも、本当にそう思う。ちょっと考えればわかることのはずなのに、僕たちみたいな考えなしのクソッタレがいるせいで誰かが傷つくことになる。

 当人たちは面白いと思ってやったのかも知れに。でも、そんなのは単なる思い込みで、他者から見れば何にも面白くない。ただ迷惑で愚かな行為でしかないのだ。


 それから一ヶ月が経過した。彼女——月ヶ瀬さんは相変わらず笑っている。他の人達が自身の状況に嘆く中で、彼女だけは周りを励まそうとし、僕たち職員を安心させようと、笑っている。


 初めはそんな月ヶ瀬さんの様子に心配そうにしていた同僚達だったけど、一ヶ月も経てばそんな彼女の様子にも慣れてしまった。今では彼女の担当も他の人に時間を割くことが多い。


 でも、本当にそれでいいんだろうか?


 確かに心の強い人はいるだろう。でも、僕は彼女が弱音を吐いたところも、弱気な姿を見せたところも遭遇したことがない。突然自身の脚を失って弱気なところを見せることなく、むしろ周りを励まそうとするなんてことができるんだろうか。それも、まだ高校生の子供に。

 そんなこと、大人だって難しいだろう。僕がもしそうなったら……やっぱり、『あの女の子』のように人生を悲観して絶望する、かもしれない。実際、ここにいる人たちは大なり小なりそういった状態になっている。


 けれどそんな僕の不安や心配とは裏腹に話は進んでいく。月ヶ瀬さんの退所の話だ。

 彼女がここにきてからまだ一ヶ月程度しか経っていない。それなのに退所だなんて……あまりにも早すぎるように感じられた。


 僕が早いと感じようとも月ヶ瀬さんの方にも事情がある。家族でそうと話が決まったのであれば退所をする方針を変えることはできない。そして、その詳しい話をするために今日彼女の母親がここにくるらしい。おそらくは今後の予定なんかを詰めていくんだろう。


 ……けど、彼女がいなくなったら僕はどうすればいい? いや、わかっている。どうすればいいもなにも、いつも通りそのまま仕事を続ければいいんだって。何せ元から僕は彼女と何にもなかったんだから。ただの職員と患者というだけ。それ以上でもそれ以下でもない。彼女から僕に思うところはないだろうし、僕から彼女に向けるべき感情もない。そのはずだ。


 だけど……だけど、どうしても彼女のことが気になる。何かしなければと焦燥感が胸の奥で燻り、ジリジリと焦がしていく。その感情は、やってきた月ヶ瀬さんの母親を見て余計に強くなった。


 ダメだ。考えていても埒が開かない。それにどうせ僕が何かを考えたところでなにが変わるわけでもないのだし、一旦頭を冷やすために休憩を取ろう。


 そうして、僕は滅多に吸わないタバコを持って、施設の裏のほとんど人がやってこない場所へやってきた。

 僕は基本的にタバコを吸うわけではないけど、前に土方をやっていた時に他の人たちに勧められた。それ以来、何か悩みや考え事があると時々吸いたくなる。

 味は正直言って美味しくないけど、それでも吸っている間はなんとなく気持ちが楽になるような気がしたから。……でもきっと、これも〝逃げ〟なんだろうな。


「——うぅ……うあ……あはは……」


 一人になりたくて、誰も人が来ない場所のさらに奥。建物の影に隠れながらタバコを吸っていると、不意に誰かの声が聞こえてきた。

 それは普通に生活していれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声。夜中に聞いたら恐怖を感じるような不気味さのある声。

 でも、僕にはどうしてかそんな声に罪悪感を覚えてしまった。なぜだろうか。


 その声が気になって、ゆっくりと建物の陰から少しだけ顔を出す。


「ああぁぁぁぁぁっ……なんで……私、なんでっ……」


 覗いた先にいたのは、両手を顔に当てながら涙を流す車椅子の少女。月ヶ瀬由梨だった。

 普段は弱音を吐かずに笑っている彼女がこうして人のいないところで涙を流している。そんな光景に、僕は呼吸をすることも忘れて見入ってしまった。そして、それと同時に『あの女の子』が僕を睨みつけた顔が頭の中に浮かび上がり、ドクンと心臓が嫌な跳ね方をした。


 ああ、口が渇く。気持ち悪い。吐き気が込み上げてきた。今の彼女を見ているだけで不快感が全身を満たしていく。

 あんなものは見たくない。けど見なくちゃいけない。あれを見るために僕はここにいるんだ。あれを受け止めるために僕はここにきたんだ。


 僕がバカなことをした結果苦しめた女の子。僕が〝逃げ〟た結果死んでしまった女の子。

 もう死んでしまった彼女と向き合うために、僕はここで仕事をすることにしたんだ。彼女と同じように怪我をした人に向き合い続ければ、僕は自分を許せるようになるかもしれないから。


 だから、目の前で起こっている事態から逃げてはいけない。……いけないんだ。

 でも、そう思っているはずなのに体は動いてはくれない。ただ泣いている月ヶ瀬由梨の姿を眺め続けるだけ。


 きっと僕も心のどこかで大丈夫だと慣れてしまっていたのだろう。そんなわけがないと、僕はよく知っているはずなのに。

 彼女だって泣きたかったはずだ。叫びたかったはずだ。突然の理不尽に八つ当たりだってしたかったはずだ。

 でも僕たち職員や母親に心配をかけまい、迷惑をかけまいと振る舞っていた。ここでこうして泣いているのが初めてなのかはわからないけど、こんなところで泣く事にしたのだって同じ理由だろう。


 眺め、臆しながらも、そんなふうに頭の片隅でどこか冷静に考えられる自分がいることが嫌になる。


「あっ!」


 どれほど眺めていただろうか。吸いかけのタバコは徐々に燃えていき、仕舞いには僕の指にまで到達した。

 その瞬間、指に感じた熱さに僕は跳ね上がるように体を起こし、タバコを落としてしまった。

 そして、それと同時に声を漏らしてしまう。


「っ! だ、だれですか……?」


 そうして叫べば当然ながら彼女にも聞こえてしまう。物陰にいると言っても、距離自体はそれほど離れているわけではないのだから当然だ。

 今更なにもなかったように振る舞うことはできず、僕は唇を噛んで一瞬だけ迷いながらも、震える息を吐き出してから彼女の前に姿を見せた。


「あ、えっと、岡崎ですけど……」


 緊張か恐怖か、あるいは別の何かか。とにかく僕はやけに重く鈍い口を動かして名乗った。

 建物の陰から出て来たのが見知らぬ誰かではなく、顔を知っている職員であったためか、月ヶ瀬さんは安堵の息を漏らし、だがすぐにハッとした様子で問いかけてきた。


「岡崎、さん……どうしてこんなところに……?」

「あー、ちょっと考えたいことがあってここに。休憩室だと人がいるんで」

「そう、ですか……」

「ああ……」


 話はそれで終わり。今の僕は普段の僕ではなく、今の彼女も普段の彼女ではない。口はうまく動かないし、表情は固い。そもそも頭もうまく回らない。きっと彼女も似たような状態なのではないだろうか?


「……ここ、座ってもいいですか?」

「……どうぞ」


 なんでそんな提案をしたのか自分でもわからない。けど、どうやらその提案は受け入れられたようで僕は彼女の隣、少しだけあった段差部分に腰を下ろすことになった。


 けど、お互いの物理的な距離は変わっても精神的な距離まで変わるものではない。場所が移動しただけで冷静になれるはずもなく、依然として状況は変わらない。お互いになにも喋らず、ただ前を向き、時折チラチラと横目に相手のことを見ながら黙っているだけ。


「……えっと、私はこれで——」

「待った!」


 そんな空気をどう思ったのか、月ヶ瀬さんは少しだけ迷った様子を見せながらもこの場を立ち去ろうとしてきたが、僕は慌てて立ち上がりながら彼女のことを止めた。


「どうかしましたか?」


 どうかしたか。そう問われてもなにも返す言葉がない。だって、僕自身なんでこんな行動に出ているのかわからないんだから。本当に、今の僕は『どうかしている』。

 それでも、今の彼女は止めないといけないような気がしたんだ。


「……泣いてた、よな?」


 その言葉が正解だったのかはわからない。だけど、せめて目は逸らしてはいけないと思い、未だに迷い続けている頭で必死になって考えた言葉を、彼女を——月ヶ瀬由梨のことをまっすぐ見つめながら口にした。


「っ! ……いいえ。泣いてないですよ」

「そうか」


 話はそれで終わり。僕が問いかけ、彼女が否定した。それだけだ。それだけで話は終わってしまった。


 何かを言いたい。何かを言うべきだ。でもなにを言っていいのかわからない。そもそも僕に何かを言う資格があるのかどうかも。

 問いを否定された僕は黙ったまま考えたけど、でも結局答えなんて出なくて、伸ばしかけたてをポケットに突っ込んだ。

 その指先に何かが当たる感触がして、ああタバコか、と納得すると同時にどうしてかそのタバコを取り出していた。


「……吸ってみる?」


 なんてバカなことを言っているんだ僕は。さっき言葉を告げた時は正解かどうかはわからないなんて思ったけど、今回に関しては間違いなく間違いだ。こんな状況で普段タバコを吸わない人に勧めるのもだし、そもそも彼女は未成年だ。タバコなんて勧められても困るだろうに。

 本当に、今日の僕は『どうかしている』。


「……慰めてくれるんじゃないんですか?」


 月ヶ瀬さんは僕が差し出したタバコを受け取らずに困惑した表情でそう言った。まあ、そうだろうなとしか言いようがない。

 僕は一度差し出したタバコを情けなく引っ込めて再びポケットの中へと突っ込んだ。ほんと、なにやってるんだろう僕は。


 けど……今の言葉は、あるいは彼女の願望だろうか? でなければ、今の言葉はいささか状況にあっていないような気がする。

 彼女は先ほど「泣いていない」と言ったが、それが嘘なのだと僕は知っている。何せ見ていたのだから。それでも誤魔化そうとしたのは、弱っている姿を見せたくないから

 でも、心の中では違っていたのではないだろうか。誰かに理解してほしい、慰めてほしい、と、そう思っていたから「慰めないのか」なんて言葉が出てきたんじゃないだろうかと思う。


 だけど……だけどだ。今の状況でタバコを差し出すなんてバカなことをした僕を見ればわかるだろうけど、正直言ってなにをどうすればいいのかわからない。仮に彼女が自分が辛いのだと理解してほしいと思っていたとしても、辛かったねと慰めて欲しかったのだとしても、僕にはどんな言葉をかけていいのかわからない。何せ、僕は僕自身の心さえ整理できていないんだから。そんな僕が彼女にかける言葉を思いつけるわけがない。


 しかしそうだとしてもこのまま黙っているわけにはいかず、僕は視線を彷徨わせながらもまとまらない頭を必死に動かしてなんとか自分の心を言葉にしていく。


「そうしたいけど、なんて言葉をかけていいのかわからなくて……でもなんていうか、ただなんとなく、そばにいてあげたいって、まあ……そう思ったから。ほら、辛い時って一人よりも誰かといるのがいいって聞いたことあるし。だからまあ……多分そんな感じ」


 僕がどうして彼女のことを——月ヶ瀬由梨のことを気にかけているのかなんて話せるわけがないし、僕自身はっきりと言語化できてはいない。

 彼女がこの場を去ろうとしたのを止めたのだって、わからないんだ。だから、言葉にするとしたらこの程度のことしか言えない。情けないことこの上ないけど、それでもこれは僕の本心で、今話せる全てだ。


 そんなみっともないことしか話せない僕だけど、せめて真剣に彼女に向き合うことくらいはしようと彼女のことを真っ直ぐ見つめる。


「そう、ですか……」


 月ヶ瀬さんが口にしたのはたったそれだけの言葉。何かを語るわけでもなければ、不満を口にするわけでもない。その上、僕と向かい合ったまま動かないときたものだ。

 だけど、その表情は彼女の心を映すかのように歪んでいた。


 今にも泣き出してしまいそうな、でも泣いてはいけないのだと、心配させてはいけないのだと堪えている彼女を見て、僕の心は波立った。


「これ、使う?」


 だからだろう。こんなことをしてしまったのは。僕は思考するという過程をすっ飛ばして反射とも言える動きで自分のつけていた業務用のエプロンを外し、彼女へと差し出した。

 こんな行動も普段の僕ではやらないような、『どうかしている』行動だった。


「エプロン?」


 月ヶ瀬さんはそれまでの泣きそうだった表情を幾分か引っ込めて、突然差し出されたエプロンを見つめている。


「丸めて顔に押し当てれば、多少声を漏らしても周りには聞こえないからさ」


 衝動的に起こしたバカな行動。でもエプロンを差し出し、そう答えてから改めて自分の行動について考えてみたけど、けどきっとこうするのは間違いではないと思う。

 月ヶ瀬由梨は一度思い切り泣くべきなんだ。それが今である必要はないけど、でもきっと今のように誰かから泣いてもいいんだって許可が出ないと、彼女はどこまでも涙を自分の内に押し込めてしまうような気がした。


「タバコ臭いです……」

「あーっと……まあ、さっきまでタバコ吸ってたから……」


 僕の差し出したエプロンを受け取った彼女はその臭いに顔を歪めた。でも、顔を歪めたと言う事実は同じでも、そこにこもっている感情は先ほどとは全くの別だ。僕のせいで不快にさせたのは申し訳なく思うけど、それでもさっきみたいな泣きそうで我慢している顔よりはずっとマシだと思う。タバコの悪臭も、存外に役に立つものだ。


「こういう施設の人がタバコって吸っていいんですか?」

「一応は平気になってる。けど、吸う場所は限られてるし、同僚たちからはあんまり歓迎されないかな。それに、吸うたびに消臭しないとだしめんどくさいよ」


 こういった支援施設だし、昨今の時勢的にもタバコを吸う人に対しての視線は厳しいものがある。そのため臭いに関しては気にしないといけないんだけど、だからと言って吸ってはいけないという決まりはない。特に、僕のように何かから逃げたい人にとってはタバコは役に立つ道具だ。


「それなら吸わなければいいのに。……ほんと、タバコ臭い……」


 僕の話を聞いた月ヶ瀬さんは涙を携えた目を細めて笑みを浮かべると、その涙は頬を伝っていく。だが、そんな涙が地面、あるいは膝の上に零れ落ちる前に、彼女は僕の渡したエプロンを顔に当てて涙も声も、全てを覆い隠した。


 その後、月ヶ瀬由梨がなにをしたのかはわからない。なにを思い、なにを言ったのかも知らない。泣いたのか笑ったのか、あるいはなにも言っていないのかもわからない。

 だって僕にはなにも聞こえず、なにも見えてはいないんだから。

 建物の裏にあるこの場所には、いつも通り僕一人だけのようだと思った。


 ——◆◇◆◇——


「——タバコ、一つもらえますか?」


 そういえばさっきそんなことも言ったけど、と自分の発言を思い返しながらも、突然かけられた言葉に驚きながら月ヶ瀬さんの顔を見つめた。


「え……吸うの?」


 でも君学生だよね? それにさっきはタバコ臭いって嫌っていた雰囲気もあったのに、なんでいきなりそんなことを?


「はい。どんなものなのか吸ってみようかなって」

「なんだ。普段から数わけじゃないんだ。けど……いや。まあ、いいか」


 本当は悪いことではあるし、患者が吸うのは良くないんだろうけど、それでも吸うことで気分が変わることはある。たとえ悪いことなんだとしても、怪我をして足を失ってからずっと同じ場所に留まり続けていた彼女が変化しようと歩き出したのなら、その手助けをするのは悪いことじゃないはずだ。


 たかがタバコ一本。それで彼女が変われるなら、と僕はタバコを取り出して彼女へと差し出した。


「ありがとうございます」


 タバコを受け取った月ヶ瀬さんは、タバコを一本だけ取り出して口に咥え、ライターで火をつけようとした。だが初めてだからかうまく火がつかないようでタバコを咥えながら困ったような表情をしている。


「うまく着かないんですけど」

「吸いながら着けるんだよ。慣れないうちは難しいかもね」

「スゥ……ゲホゲホッ!」


 僕の助言に従って試した月ヶ瀬さんだけど、初めてだったからか勢いよく煙を吸い込みすぎたようでむせてしまっている。

 その際にタバコを落としそうになっていたので咄嗟に彼女の手ごとタバコを押さえた。


「本当にこれ、美味しいんですか?」


 あまり美味しくないものを……と言うよりも、はっきりいってまずいものを食べたかのように顔を顰めて問いかけてくる月ヶ瀬さん。


「まずいよ。でも、慣れたら吸わないと落ち着かないから吸ってるだけ」


 実際、タバコなんて美味しいものじゃないし、吸わないで済むならそれでいいと思う。

 ただ、無性に吸いたくなる時があるのも確かなんだ。


 そう話しながら彼女の隣でタバコを吸い始めた僕を見て、彼女も再びタバコを吸い、再び咽せていた。

 だがその表情は、咽せて苦しそうにしながらもどこか楽しげなもののように感じられた。


 ——◆◇◆◇——


「——それではお世話になりました」


 施設の裏で僕と月ヶ瀬、二人だけで少しだけ悪さをした日から一週間後。とうとう彼女は退所することとなった。

 そのこと自体はわかっていたことだ。でも、あの日以来言葉は崩していいと彼女に言われ、それなりに親しく話すようになった今となっては少し、別れが惜しいと感じる。それはきっと、以前感じていたわけのわからない胸のざわめきとは違う理由なんだろう。


 ただ、退所したといってもそれっきりというわけでもなかった。

 当たり前のことだが、ここで生活赤るようになったからといって家でも同じように生活できるとは限らない。何せここはそういう障がい者が住むために設計された場所なのに対し、月ヶ瀬の家は普通の家だ。ちゃんと両足のある少女が暮らすような環境。そんな場所に戻ったところで、問題なくとはいかないのは当然のことだ。


 そのため、退所しても最初は何度も訪問介護として介護士が家に向かうことになっているのだが、どうしてかそのメンバーに僕が選ばれた。


「なあ、なんで僕を呼んだんだ? 正直いって他の人たちの方がよくできるし、それに君は女の子だろ? 男の僕ができることなんて限られてると思うけど」


 あの日以来、丁寧な言葉遣いをやめてほしいということで僕は素の言葉で彼女に接している。それくらい親しくなれたということは素直に喜ばしいと思う。けど、だからと言ってこうし自宅への訪問介護のメンバーとして呼ぶことはないと思う。


 着替えやトイレや風呂といった場所では僕は役に立たない。それに、年頃の女の子の部屋に入るのだって、男の僕よりも女性の方がいいものだろう。

 そんなことは月ヶ瀬自身わかっているだろうに、どういうわけか今回訪問介護をするにあたって月ヶ瀬家から僕の名前が出てきたらしい。どうしてそんなことになったのかといったら、彼女。月ヶ瀬由梨が言ったからに他ならないだろう。


 けれど誰が呼んだのかは分かっても、どうして呼んだのかはわからないため、不意に二人きりになることができたので聞いてみることにした。


「……迷惑でしたか?」

「いや、迷惑とかそういうのじゃなくて……」


 実際、迷惑ではない。これも仕事だし、介護福祉士の資格を取るためにはいい経験だとも言える。だから構わないのだが、純粋にどうして僕なのかわからないのだ。だって彼女は僕以外にも親しくしていた職員なんてたくさんいたのだから。あえて僕である必要はないはずだ。


「……父も母も、私のことは大事にしてくれています。こんな脚になっても生活できるようにって色々考えてもくれます。——でもたまに、疲れた顔を見せるんです」


 そういって月ヶ瀬はその顔に少しだけ陰を落とした。

 確かに、自分が脚を失って迷惑をかけている状況で、最も身近で頼れる大人であるはずの両親が疲れた顔なんてしていたら、自分に罪はなくても責任を感じてしまうものかもしれない。


 けど、介護される側はそう思ったとしても、両親の思いもわからないわけじゃない。介護っていうのは大変なものなんだから。


「それは……仕方ないんじゃないか? こういってはなんだけど、突然の変化となれば本人以外にも考えるものだし、その変化を受け入れてついていかなくちゃならないんだから」

「分かってます。分かってるんです……でも、

 それに、職員の人たちも親切だけど、結局は仕事なんだなって、そう思えてしまう態度で……」


 それは……まあそうだろう。職員の同僚たちだって、ちゃんと患者の人たちに心を砕いているが、あくまでも仕事なのだ。そこには割り切りというものがあるし、複数の業務を並行して行わないといけないのだから効率を求めたりもする。一人にかかり切りというわけにはいかないのだ。


「でも、あなたは違ったじゃないですか。岡崎さんは、『患者の一人』じゃなくて、『私』を見てくれて、だから、それで……そばにいてくれたら心強いな、って」


 その言葉で、僕の心臓が軋んだ音を上げたような気がした。

 確かに僕は〝ただの職員〟以上の想いを持って月ヶ瀬由梨という少女に接してきた。

 けどそれは、僕が彼女に好意を抱いているからではない。月ヶ瀬由梨という少女自身のことを気にかけ、心配しているからでもない。

 ただの罪悪感。過去に対する贖罪。代替行為でしかない。だからこそ、余計に苦しくなる。


 だけど僕はそんな心を隠し、曖昧な笑みを浮かべながら彼女に接し続けるだけだった。


 ——◆◇◆◇——


 それから何度か訪問介護を行ったが、彼女は未だに家から外には出ていないようだ。車椅子はあるし、月ヶ瀬のの両親だって彼女に外に出てほしいという思いはある。


 ただ、当の月ヶ瀬本人が外に出ることを拒んでいる。


 いや、拒んでいるのとは違うか。聞いた話によると、外に出たい、出ようという意思そのものはあるとのことだ。だが、いざ外に出ようとすると途端に体が動かなくなるそうだ。


 この辺りはもう介護福祉ではなくカウンセラーの領分だと思うが、それでも僕は月ヶ瀬と話をすることにした。こんな僕が話したところでどうにもならないかもしれないけど、それでもできる限りのことはやってあげたいと思ったから。


 だから今、僕は月ヶ瀬の家で彼女と向かい合っている。


「他人からの視線が怖いのか?」


 人というのは自分と違う存在……何かしら目立つ特徴を持っているものを注視する。松葉杖や骨折のギプスもだし、ただの服装でもそうだ。そんな中で車椅子を使っているとなったら、いやでも目立つことになる。

 そこにさしたる意味があるわけではない。ただ目についたから見ていた。それだけだ。でも、今までは普通の女子高生だったのに、しかもまだ脚を失ったという事実を克服したわけではない状態でそんな視線に晒されたら、そこに何かしらの感情を抱いてもおかしくはない。


 そして、そのことを恐れて外に出たくないと考えるのも、ある意味当然と言えば当然のことだろう。


 けど、月ヶ瀬は僕の言葉に曖昧に答えながら、ゆっくりと窓の外へと顔を向けながら話し始めた。


「それもそうですけど……車が、怖いんです。車の音が横を通り過ぎるだけで、怖いんです。道路を歩いていたらまた何か起るんじゃないかって。今度は本当に死んじゃうんじゃないかって」


 そう言うなり顔を青ざめさせて、両手で膝掛けを思い切り握りしめた。

 月ヶ瀬のそんな姿を見て、僕はハッと気がついた。それはそうだろう。生き残ったとはいえ自分の脚を失ったのだ。その出来事がトラウマになっていてもおかしくない。


 僕たち〝人殺し〟が背負うべきこと、悔いるべきことは、被害者の命を奪ってしまったことや障害を残してしまったことだけではない。その後の生活における精神の安寧を壊してしまったこともなのだ。


 生き残ったんだからいいじゃないか。障害の分は金を払うから問題ない。なんて戯言で済む問題ではない。


 けど、そのことを理解したところで、〝人殺し〟側の人間である僕が堂々と何かを言えるわけでもなく、拳を握り震えている月ヶ瀬を前にしてただ彼女を見ていることしかできず、話を聞き続けるしかなかった。


「でも、死んだ方がマシだったかもしれないって思ってしまう自分がいて……それが嫌で、生きていて嬉しいはずなのに、脚がなくて惨めで悲しくて、嫌で、痛くて、どうしようもなくて——」


 震えながらどんどん吐き出される言葉に耐えきれず、僕は思わず立ち上がり彼女の手を取ると、懺悔するように跪いた。


 彼女の怪我は僕のせいではない。けど、僕は確実に彼女の〝敵〟側の人間なのだ。そのことがどうしようもなく心に突き刺さる。震えが、涙が、声が、彼女の全てが僕を苦しめる刃となって襲いかかる。


「ごめん。ごめんな」


 僕は僕の過去を月ヶ瀬へと伝えることはできない。そんなことを伝えたところで彼女の心が晴れることはないし、仕事に支障が出るだけだ。

 そんなことはわかっている。本来はこんな「ごめん」なんていうことも許されないだろう。……わかっているけど、それでも僕の口からは誰に向けたのかもわからない謝罪が溢れていた。


 そんな僕の言葉に反応したのか、月ヶ瀬は先ほどよりも緩んでいた手で僕の手を掴み、そのまま握りしめた。


 その手にはどんな感情が乗せられているのか。これから先の不安か、事故を起こした者に対する怨恨か、地震に起こった理不尽への怒りか、それはわからない。


 けれど僕はその手が徐々に強く握りしめられようと、爪が立てられようと、うめき声ひとつ漏らすことなくただ握り続けた。握り続けることしかできなかった。


 ひとまず震えが落ち着いた月ヶ瀬は、僕の手を握りしめていた手を放して若干慌てた様子で感謝と謝罪の言葉を口にしてきた。謝罪は突然精神的に不安定になってしまったことに対してであったため、僕は手からうっすらと滲む血を服で拭い、そのことを隠すことにした。


 その後も話を続けていき、今日のところは訪問を終えることとなったのだが、その別れ際で月ヶ瀬が僕のことを見ながら口を開いた。


「次は……」


 その言葉は一旦止められた。まるで何かに迷うように、あるいは困難に立ち向かうかのように難しい顔をした月ヶ瀬は、だが数秒ほど経ってから意を決したように再び口を開いた。


「次は、一緒に散歩してくれませんか? 岡崎さんがついていてくれるなら、多分怖くないから」


 まだどこか無理をしているように見える月ヶ瀬の笑顔を見て、僕はその約束を受け入れることにした。


 ——◆◇◆◇——


 前回の訪問から二週間開いた今日。僕たちは再び月ヶ瀬の家へと訪問していたのだが、今回は前回と少し違う。

 今回の訪問は家の中ではなく、外で話をすることになった。それも、どこか建物の中で休みながらではなく、僕が月ヶ瀬の車椅子を押す形で散歩をしながら。


 こんな状態になっているのは前回した約束が理由だっていうのはわかっている。僕だって今回はそのつもりで来ていたんだからそこは納得している。

 けど、なぜ僕達だけで歩いているのか。


 正確には僕と月ヶ瀬だけではなく他にもみんないるが、現在の状況はなぜか僕たち二人だけが先を進み、同僚や月ヶ瀬の母親といった他の人達は少し距離を空けて後ろからついてきているという形になっていた。


 きっとみんな月ヶ瀬のことが心配なんだろうし、まだまだ未熟な僕一人で任せることができないのは理解できる。万が一を考えて全員で来るというのは当然と言えば当然だ。けど、そこまでするんだったら一緒に歩けばいいのにとも思う。


「……こんなものだったんだ」


 月ヶ瀬家を出てしばらく歩いていると、不意に月ヶ瀬がつぶやいた。それは誰に聞かせるわけでもない言葉だったのかもしれないが、それでもこれだけ近くにいれば聞こえてくる。


「なにがだ?」

「外を歩くのが、です。当たり前と言えば当たり前のことですけど、実際に歩いてみればこんなものか、って。そんなに怖いものでもありませんでした」


 道を歩くのは怖いことではない。それが一般の人の常識だ。

 でも、月ヶ瀬にとってはそうではないはずで、トラウマに向き合って何を思ったのか。どう感じて〝こんなもの〟と言ったのかはわからない。

 本当に怖くないと思ったのかもしれないし、無理をして言っているだけかもしれない。


「そっか」


 だから僕は、たったそれだけの短い言葉しか返すことができなかった。


「一人で歩くのは、また別かもしれないですけど。でも少なくとも今は、今だけは怖くないです」


 月ヶ瀬は車椅子を押す僕を見上げるようにして笑いかけてきた。その表情は本当にそう思っているように見えたが、わからない。彼女は心を隠すのが上手いから。


「ならよかった。お姫様をエスコートした甲斐はありましたか?」


 彼女が何を思い、感じたのかはわからないけど、大丈夫なのだと笑いかけているのだから僕もそれに応えなくてはならない。

 そう思い、どこか芝居がかった調子で冗談めかして言葉を返した。


「うむ。姫はとても満足じゃ」

「なんだよその喋り方」

「お姫様っぽい話し方のつもりですけど……本物ってどんな感じでしたっけ?」

「いや、本物にあったことないし知らないけど……今のだとどっちかっていうと女王様とかじゃないか?」


 そう話した僕達はどちらからともなく笑みを浮かべ、そのままおしゃべりをしながら歩いていく。


「でも、いつかは一人で歩けるようにならないとですね……」


 しばらく歩いていると、月ヶ瀬は不意にそれまでの楽しげな雰囲気を潜めてそう言ってきた。

 けど、それはそうだろう。だって、僕はずっとこうして彼女と一緒にいるわけにはいかないのだから。今はいい。訪問介護という形で一緒にいることはできる。けどそれだって永遠に続くわけじゃない。後数ヶ月か数年か……いずれにしてもいつかは僕達の関係は切れるものなのだ。


「あ。歩くって言っても、私は脚がないんですけどね」


 月ヶ瀬の言葉に僕が答えずにいると、自虐しながら笑いかけてきたけど、その笑顔にはなんとも言えない、そのまま受け入れてはいけない気持ち悪さのようなものを感じた。


 そんな彼女の顔を見たからか、僕は思わず脚を止めてしまった。

 立ち止まった僕の反応を見てか、月ヶ瀬はしまったとでもいうかのように顔を歪め、黙り込んでしまう。


 何を言えばいいのか、あるいは何も言わない方がいいのか。〝人殺し〟側である僕が彼女に言えることなんて何もないのかもしれない。

 でも、ここで何も言わずにいることはどうにも気持ち悪かった。自分でも言葉にすることができない、訳の分からない感情。


 今の彼女に対して何を思ったのかわからない。けど、少なくとも彼女にそんな気持ちの悪い笑顔を浮かべてはほしくなかった。


 だから僕は、再び歩き出しながらこの気持ち悪さを吐き出すために口を開いた。


「——月ヶ瀬。受け入れたからネタとして自虐するのはいいけど、強引に受け入れるために自虐するのはやめろ」


 きっと、僕が気に入らないのはそこだろう。乗り越えたのならいい。けど、乗り越えてもいないのに周りに心配をかけさせないためだけに辛い思いを押し込めて笑うのなんて、認められない。認めてはいけない。


「……ごめんなさい」


 普段は月ヶ瀬に……〝被害者〟に引け目を感じて強く言うことがない僕だけど、そんな僕がはっきりと咎めたことが意外だったのか、月ヶ瀬はじっと僕のことを見つめると申し訳なさそうに顔を顰めて謝った。


「なんだか焦ってないか? そんなに無理する必要なんてないさ。厳しいことを言うけど、もう元の生活には戻れないんだ。でもいきなり変われっていうのも難しいのは分かってるつもりだ。ゆっくり慣れていけばいいんだよ」


 以前の生活に戻りたいと焦ったところで、戻るわけがないんだ。

 生活をするための前提が違っているんだし、自身や周りの行動だって、そこに込められた意味合いが違っているはずだ。どう足掻いたって元には戻れない。辛いかもしれないし、誰もはっきりとは言わないかもしれないけど、それが月ヶ瀬が受け入れなければならない現実だ。


「でも……岡崎さんはそのうちいなくなりますよね? だからその前に一人で生きていけるようにならないと」


 きっと彼女は僕のことを信頼してくれているのだろう。だから僕がいる今はともかく、いなくなった後を不安視している。


 彼女の状況であれば本当に信頼できる人間なんてそういないのだから、僕のように献身的な人間を信頼してもおかしくないことだと思う。むしろ、ある意味で当然、必然な流れだろう。

 僕はそのことを嬉しいと感じた。だって、僕の人生で誰かに信頼されたことなんて、ただの一度もなかったんだから。


 だけど、そう思うと同時に、その言葉に息苦しさを感じもする。彼女をこんなふうにしたのは僕ではない。けれど、こんなふうにした者と〝同類〟ではある。そしてそのことを彼女には伝えていない。それどころか、誰にも伝えずに今も逃げ続けている。


 その事実が、しつこいぐらいに僕のことを苛む。


「確かに、僕たちの関係は仕事上のものだ。だけど、だからってそれ以外で呼んだらいけないってわけでもないんじゃないか? 知らない仲じゃないんだ。困ったことがあったら呼んでくれれば、いつでも手を貸すくらいはするさ」


 それは僕の贖罪のつもりとして出てきた言葉なのだろう。でも、それだけでもない。

 この子に笑っていてほしい。元気になってほしい。そう思うのは、きっと僕の本心だったんじゃないかと思う。そんなふうに思う資格なんて、僕にはないのかもしれないけど。


「いつでも? ……いつまでも?」


 月ヶ瀬は体を捻って後ろを振り返り、車椅子を押している僕の手に自分の手を重ねながらそう呟いた。


 〝いつでも〟と〝いつまでも〟。

 その二つの言葉は似ているけど、その言葉が意味する内容には大きな隔たりがある。

 月ヶ瀬は何を思ってそんなことを言ったのか。それを問うために僕は視線を下げて月ヶ瀬の顔を見た。


「あ……」


 そうして見た彼女の目は真剣で、その瞳に吸い込まれるように見つめ返してしまう。


 先ほどとは違った意味で再び足を止めてしまった僕は、ほんの数秒だけではあったけどしっかりと月ヶ瀬と見つめ合うこととなった。


 僕の手に重ねられた彼女の手がぴくりと握られたことでハッと気を取り直し、僕は車椅子を押す手に力を込めて再び歩き出した。


「ま、まあ、僕が生きているうちは……うん。そうだね」

「そう、ですか」


 歩き出してから少しして、なんとか絞り出した僕の答えに、すでに前を向き直っていた月ヶ瀬は短く答えたが、その言葉にどんな想いが込められていたのか、僕にはわからなかった。


 ——◆◇◆◇——


「岡崎さん。月ヶ瀬さんのお母さんから電話がきてます」

「え? 俺にですか?」


 月ヶ瀬家への訪問介護がなく、通常業務を行なっているある日。僕は突然同僚から呼び出された。

 今まで僕個人に対しての電話なんてなかったし、何か言いたいことがあるなら前回、あるいは次に月ヶ瀬家を訪れた時でいいのではないだろうか。

 そんな思いが顔に出ていたのか、僕を呼びにきた同僚が電話のかかってきた理由を教えてくれた。


「ええ。由梨ちゃんのことでお礼が言いたいそうです」

「お礼ってそんな……まあえっと、ありがとうございます」


 お礼を言うなりすぐに事務室に向かい、そこにいた人とわずかに言葉を交わすとかかってきたという電話をとった。


「お電話変わりました。岡崎です」


 何を言われるのかわからず、恐々としながらもそのことを声に出すことなく電話に出る。するとすぐに月ヶ瀬の母親から反応があり、定型の挨拶を交わしてから本題にはいる事となった。

 本題といっても、そう難しいことでもない。最初に聞いていたように月ヶ瀬に関してのことだ。


『岡崎さんのおかげであの子も元気になってきました。両脚がなくなったと知った時の取り乱し様と言ったらひどいもので、その後も心あらずな状態でした。退院する時には笑顔を見せていましたけど、私達に心配をかけまいとして取り繕っていた笑顔だったんです。でも、今はちゃんと心から笑っているようで、それが嬉しくて……本当にありがとうございます』

「いえ、笑えるようにと手助けをしましたが、それでも心から笑えているのなら、それは彼女が強い子だからです。僕たちのしたことなんて、本人に前を向くだけの覚悟がなければ意味のないものですから」


 これは本心だ。僕達は真面目に仕事を行い、できる限り真摯に患者へと向かい合った。月ヶ瀬に関しては、僕は仕事以上に彼女に目をかけ、手を差し伸べていた。けれど、そうだとしても彼女自身が前を向こうと思い、努力しなければこんなにすぐに良くなることなんてなかった。


『そんなことはありません。少なくとも、私達では無理でした。私は親なのに、あの子を心から励ますことはできませんでした。突然の状況にこれからどうすればいいのか、あの子の面倒を見ていかなくてはならないのか、将来は、かかる費用は、なんて不安に思いながら由梨に接していました。でも、それじゃあきっと由梨は今のように笑ってはいなかったと思います』


 それは……この人も気づいていたのか。

 月ヶ瀬は両親が自分が生き残ったことを心から喜んではいない、自分のことを真っ向から見てくれていないと感じていた。

 だが、この人にとっては自分のことだ。悩んだり考えたりする時間なんていくらでもあったんだから、娘に向ける感情や娘から向けられた態度のことを理解していてもおかしくはない。


 でもそれは仕方のないことだろうと思う。当事者だけで片付く問題ならそれでいいが、そうでないのなら周りで補佐する人は苦労することになる。それに、親子の関係となれば、大抵の場合親が先に死ぬ。そうなれば残された子供は一人で生きるしかなく、そのことについても考えなければならないのだから、純粋に生き残ったことだけを喜ぶ、なんてことはできないだろう。


『それに、最近は外に出ることを前よりも怖がらなくなりましたし、家にいながらでもできる仕事も探し始めたんです』

「そうですか! それはよかったです!」


 前に散歩として一緒に外に出た時からそれほど時間が経っていないというのに、もう外に出られるようになったのか。話を聞く限りまだ一人で自由に、と言うわけではないだろうが、それでも十分な進歩だ。


 仕事だって、脚がない以上は普通の仕事に就けないのだから働きたくなった時にコンビニでバイトを、なんてわけにはいかない。


 まだ前を向くには早すぎるように感じる。やっぱりきっと前回話したようにまだ焦りがあるのだろう。それでも前を向いて行動すること自体は悪いことではないとは思うが……無理はしないでほしいとは思う。

 でも、本当に月ヶ瀬は頑張ってるな。


 その後も少し話をし、もう十分に礼を言われたし話もしたということでその場は締めることとなった。だが、最後に月ヶ瀬の母親の言葉を聞いて僕は心を揺らされることとなった。


『今までありがとうございました。まだもうしばらくは介護を頼むことになりますが、様子を見て大丈夫そうであれば私達だけでやっていこうかと思っています』

「そうですね。いつまでもというわけにはいきませんし、今の彼女ならきっと大丈夫でしょう。……本当に、よかった」


 確かに、月ヶ瀬は元々精神的にすごく落ち着いていた子だ。家での生活も十分にできるようになり、外に出ることも仕事もすることもできるようになるのなら僕達みたいな介護はいらないだろう。

 だがもうすぐ僕と月ヶ瀬の関係も終わると示唆するようなことを言われ、僕は知らずのうちに電話機を強く握りしめていた。


 なぜそんなことをしたのか、それは僕自身にもわからない。


 ただ、このまま終わっていいのか、黙ったままでいいのかと、そう思ってしまった。


 ——◆◇◆◇——


 月ヶ瀬家への訪問を始めてから一年後。月ヶ瀬由梨は高校は中退したが、本来であれば高校卒業の時期。なんとか介護なしでも生活が可能となり、車椅子の者でもできる仕事に就くことができたことでもう介護は必要ないと判断されたことによって、僕達は今日が月ヶ瀬家への最後の訪問となった。


 最後と言っても特段変わったことはない。いつも通りに聞き取りや軽い相談、生活環境の調査なんかをやっておしまいだ。あとは、月ヶ瀬の場合は軽い散歩が入るけど、まあその程度。


 特に問題がなければサッと終わってしまうような簡単なもの。それが今の僕達の関係だ。

 そんな吹けば飛んでしまうような軽い関係だけど、なくなるとなればなかなか寂しくも思うものらしい。


「岡崎さん。今までありがとうございました」

「いえ、由梨さんが一人で前に進めるようになったのは彼女自身の努力のおかげですから。本当によかったです」


 以前電話で受けたような礼を再び月ヶ瀬の母親から行われたが、やはり以前も言ったようにここまで来れたのは月ヶ瀬自身の努力によるところが大きい。

 僕達ができたことなんて、本当に些細な手助けでしかない。


 けれど、そんな些細な手助けも、もう行わなくなる。

 決してそれが嫌と言うわけではない。手助けが必要ないと言うことは、それだけ月ヶ瀬が普通に生活できるようになったと言うことで、彼女にとっては良いことに決まっているのだから。


「岡崎さん。少し、いいですか?」

「え? ああ、うん。どうしたんだ?」

「いや、えっと、少し話が……」


 最後、ということで今後の対応やら何やらを話していると、小さく月ヶ瀬が話しかけてきた。ここではダメな話なのだろうかと思いながらも一緒に来ていた先輩に視線を向けると、問題ないと頷き、散歩でも行ってこいと勧められた。

 これまでの実績から、僕は月ヶ瀬と二人で散歩に向かうことを許されていた。今回も二人で行けということなのだろう。


「それじゃあ行こうか」


 そう口にしながら立ち上がり、ゆっくりと月ヶ瀬の乗る車椅子を押しながら散歩に出る。


「えっと、まずは今までありがとうございました。お母さんも言ってたけど、岡崎さんのおかげで色々と立ち直ることができました」


 散歩に出てからしばらくして、周りに人のいない散歩道を歩いていると月ヶ瀬がそう切り出してきた。


「お母さんにも言ったけど、月ヶ瀬が頑張ったからだよ。ただ僕達が補助しただけじゃ、こんな短期間で良くなることなんてないはずだからね。ただまあ、これで終わりかと思うと、寂しいところがあるかな。月ヶ瀬にとっては事態が良くなってる証なんだから、こう言うのもなんだけどね」


 僕がそう答えると、月ヶ瀬は前を向いたまま俯くようにわずかに視線を下げて黙ってしまった。いつもならもう少し楽しそうに話をするものなんだが、今日はどうしたのだろうか。やはり最後ということで彼女も思うところがあるのだろうか。


 だけど、僕からはなんだか話しかけづらい。それはきっと、僕の心の中に彼女に対する迷いがあるからだろう。話さないまま終わることに罪悪感を抱きながらも、話さずに済むことに安堵を感じている。このまま終わってもいいのかと思いながらも、早く終わってほしいとも思っている。

 そんな不安定……いや、優柔不断な状態だから、何かを話そうと口を開くこともできない。口を開けば、余計な言葉が口から出てしまいそうになるから。


 けれどそんな沈黙がどれくらい続いたことだろうか。正面を向きながらも少しだけ顔を上げた月ヶ瀬が話し始めた。


「……月ヶ瀬じゃないです。由梨って呼んでください。——裕哉さん」


 裕哉さん。それは僕の名前だ。僕——岡崎裕哉の名前。今までは岡崎さんと呼んでいた月ヶ瀬がこんなふうに僕のことを呼ぶということは、そこには普通ではない〝特別〟な想いが込められているということだろう。


 〝あの日〟から僕にそんな好意を向けてくれた人なんていなかった。いや、いたとしても僕がそれを拒んでいた。あるいは好意そのものを向けられないようにと生きてきた。


 けど、それは罪悪感があるからで、好意を向けられることそのものは嬉しいんだ。だから、今の月ヶ瀬の言葉だって……嬉しいんだ。


 その好意を……〝好き〟という感情を向けられた僕は、そのことを理解すると僕の心臓はドクドクと大きな音を出しながら脈動し、その音が全身を揺らす。


 心臓が痛い。頭が痛い。口の奥が気持ち悪いし胸の奥から吐き気が込み上げる。


 そんな好意を……僕に向けないでくれっ! 僕は、君にそんなふうに思われるような人間じゃない。思われていいような人間じゃないんだ!


「——はは。……ああ。ああああぁぁぁああぁっ……!」


 嬉しさと罪悪感と拒否感が入り混じった感情が僕の中で渦巻き、気がついたら僕は車椅子を押す手を離して頭を押さえながら奇声を上げていた。


「お、岡崎さん……?」


 月ヶ瀬の僕を心配する声が聞こえてくるが、その声が尚更僕の心を刺激する。

 けれど、その刺激によって僕の心は限界を越えた。それによって僕は…………全てを吐き出してしまった。


「——僕は、そんなふうに思われるような人間じゃないんだ」

「え、あの……急になにが……今のはいったい……」

「僕は……そんな人間じゃないんだ。君にそんなふうに思われるようなやつじゃ……思われていいようなやつじゃない。違う。逆だ。むしろ僕は、恨まれる側なんだ」


 困惑する月ヶ瀬を置いて、僕の口はまるで崩壊したダムのように勝手に動いて言葉を垂れ流していく。


「君は僕が本心で君に向き合っていたと言ったけど、違うんだ。君のことを贔屓にしていたのも心を砕いたのも間違いじゃないけど、それは君のことを心配してたからじゃない。僕は君自身のことなんて……なにも見ていなかったんだ」

「え……それ、は……」


 こんなことを話してはいけない。頭の片隅にある冷静な部分がそう叫んでいるけど、そんな言葉は溢れ出す心に押し流されて消えていく。


「この手で殺したわけじゃない。傷つけようとしたわけでもない。けど確かに僕が原因であの子は死ぬことになったんだ」

「なにが……あったんですか?」


 月ヶ瀬が振り向き僕のことを覗き込みながら問いかけてくる。その言葉が、僕にはありがたかった。まるで好きなだけ話せと許されたように感じられたから。


「僕は昔、女の子を殺したんだ」


 月ヶ瀬の許しを得た僕は、懺悔するように過去の出来事を説明する。

 父親にいたずらをして事故を起こしたこと。そのせいで女の子とその家族を轢いてしまったこと。そして、生き残った女の子を傷つけて自殺に追い込んでしまったこと。全てを話していく。


「そうして僕は、誰が悪いのか、あの時なにがあったのかを黙ったまま彼女に上っ面だけの謝罪に行った。そして、彼女は自殺した」


 今まで隠していた事故の原因を正直に打ち明けた僕は、なんだか清々しい気持ち……というよりも諦念だろうか。隠さずにいられると、解放されたように感じられ、もうどうでもいいや、どうにでもなれ、という感情で満ちていた。


 そんな話を聞いて何をどう思ったのか。月ヶ瀬は口を開けて呆けたような表情をすると、困惑した表情へと変わり、視線をあちこちへと泳がせた。


 そして、口元をきゅっと固く結んだ後に何かしらの覚悟を決めたような表情で口を開いた。


「………………で、でも! それがどうしたって言うんですか! 確かにそういうことがあったのかもしれないけど、でも今の岡崎さんと私にはなにも関係はっ——」


 違う。その言葉は違う。

 月ヶ瀬が何を言いたいのかを理解した僕は、その言葉を途中で遮るように言葉を吐き出していく。


「そもそもの始まりがおかしいんだ。君と出会った理由も、君に心を砕いた理由も、『君』だからじゃない」


 月ヶ瀬にとって僕は信頼に足る人物で、自分が苦しんでいるときに手を差し伸べてくれた優しい人かもしれない。好意を伝えようとしたくらいなのだから、彼女の中で〝唯一〟といってもいい存在かもしれない。


 でも、僕にとってはそうではないんだ。


「僕はずっと罪悪感を感じていた。僕があんなイタズラなんてしなければ、あの時女の子への対応を間違えなければ、もしかしたらもっと何か違っていたかもしれない、って。その罪悪感を消すために介護士として働いて、そこに来たのが君だ。事故で両脚を失った女の子。きっとこの子を助ければ、この子が自立できるようになるまで手助けしていれば、僕はこの罪悪感から逃げられるって、そう思ったんだ。だから君に目をかけた。僕があの時傷つけて、殺してしまった女の子の代わりになってくれると思ったから」


 ただ月ヶ瀬由梨という少女が『あの時の少女』に似ていると感じたから目をかけただけ。

 罪悪感を減らすことができるなら——誰でもよかったんだ。

 もっとも、彼女に目をかけた結果としては、むしろ余計に罪悪感を刺激されることになったけど。


 でも、始まりは彼女の思ったようなものではないのは間違いない。


「僕にとっては、君である必要はなかった。だって、僕が見ていたのは〝君〟じゃなくて、〝あの女の子と同じ状態だった少女〟なんだから。僕は誰かを助けるために生きなくちゃいけない。そう思って生きてきた。だから、君自身については——————どうでもよかった」


 それが僕の全て。僕が隠してきたこと。

 彼女に話すべきではないと思いながらも、全てを話したいと思い隠してきた事実。


「…………なん、で……今更そんな……」


 判決を待つ罪人……いや、死刑の執行を待つ犯罪者のような諦念に満ちた気持ちで待っていると、月ヶ瀬は震える声で問いかけてくる。

 その思いは当然のことだろう。僕だって、こんなこと話すつもりはなかった。けど……


「君が笑っているのを見て、隠したままでいることができなかったんだ」


 今日の彼女から告げられた言葉なんてきっかけに過ぎない。きっと僕は前から全てをぶちまけてしまいたかったんだと思う。ぶちまけて、壊して、そうして怒られたかった。怒られれば、恨まれれば、きっと以前の罪も償うことができるような気がするから。


「そんなの! ……そんなの、勝手すぎるっ……! そんなこと、知りたくなかった……!私は! 私はあなたがそばにいてくれたからっ……あの時私を見ていてくれたからこれまで頑張ってこれたのに!」


 泣き出しそうな表情……いや、すでに涙を流しながら月ヶ瀬は僕を睨み、正面を向き直ると両手で顔を覆って俯いてしまった。


 これ以上一緒に歩いている空気でもなく、僕達は月ヶ瀬家へと戻っていった。

 戻った際に僕達の様子がおかしいことにみんな気づいていたと思うが、誰もそのことに触れてこなかった。むしろ気遣うように接してきたことからおそらくは今回が最後の訪問となったことで悲しんでいるとでも思ったのではないだろうか。


 そうして僕は、また真実を告げずに黙って全てを終わらせようとした。


 ——◆◇◆◇——


 あれから、あの最後の訪問から二ヶ月が経過した。長いようで短かったこの二ヶ月の間、僕は月ヶ瀬のことを忘れるように仕事に打ち込んだ。彼女とはもう関係ないんだ。元々仕事があっての付き合いだったはずだ。だから彼女が介護を必要としなくなった以上、僕が気にかける必要もないはずなんだ。

 けど、どうしたって空き時間というものはできてしまい、その度に僕は彼女のことを思い出す。


 彼女は今どうしているだろうか。落ち込んでいるだろうか。僕のことを裏切り者だと、人でなしだと思っているのだろうか。あるいは——自殺を考えたりはしていないだろうか。


 彼女はきっと、僕のことを信頼していただろう。最後のあの時の様子からすれば、好意を持っていたのは僕だって理解できる。そんな信じていた相手から裏切られたと言ってもいい状況であれば、自殺をしてもおかしくないのではないだろうか。


 何かあればこっちにも連絡が来るんじゃないかと思うけど、もう切れた関係である以上はなんの連絡もこない可能性だってあり得る。だから、実はすでに彼女は自殺をしているということだって、あり得るのだ。


 そんなことにはなって欲しくない。彼女には生きて、幸せになってほしい。……そう思うけど、どうしたってあの時僕が傷つけ、僕を恨んでいた女の子を思い出してしまう。


 ならなんであの時あんなことを言ったんだと、自分で自分を責めたくなるけど、僕だってあんなことを言うつもりはなかった。ただ、ちっぽけで弱い僕の器が壊れてしまった。


 あの時話してしまったのは、隠し通すことができなかった僕の弱さが原因だ。

 けど、話したからって僕の心が楽になったのかと言ったらそうじゃない。むしろ、余計にひどくなっている。

 心は鉛の様に重く、気分は雨続き。以前までは僕のことを責めてくる女の子の夢を見ていたけど、今ではその子と一緒に泣き、飛び降りる月ヶ瀬までもが出てくる。はっきり言って悪夢以外の何ものでもない。


 あの時話したことは間違いでしかなく、僕はまた後悔をする。


「岡崎さん。月ヶ瀬さんのお母さんから電話が来たわ」


 そんな鬱々とした心を表に出すことなく仕事を続けていると、突然聞こえてきた言葉にドキリと胸を跳ねさせた。嫌な跳ね方だ。体の体温が一気に失われていくのが自分でも理解できた。

 体だけではなくその奥にある心まで震えさせる様な心臓の鼓動。


 まさか月ヶ瀬は本当に……

 そんなことを思ってしまう頭を振って、僕はかけられた声に応える。


 すると、返ってきたのは僕の想像していなかった言葉だった。どうやら、再び月ヶ瀬の家に訪問介護に来てほしいとのことだ。

 どうしたのだろうか。彼女はもうすでに独り立ちできた。周りのサポートは必要だろうが、それは僕達ではなく家族だけで事足りたはずだ。だからこそ月ヶ瀬家は僕達の介護を終わらせたのだから。


 わからない。何かがあったのだろうことはわかるが、それだけだ。少し様子を見て、やはりダメだったとかだろうか?


 しかも、月ヶ瀬の母親としては僕に来て欲しいと思っているようだ。確かに以前の僕達の様子を見ていればそう考えるのも無理からぬことだろう。だけど、それはダメだ。今の僕達は、他の人たちが知っているような状態ではないのだから。

 だから、僕は月ヶ瀬の家に行くことはできない。

 今何が起きているのか、どんな問題があるのかはわからないけど、僕は彼女に酷いことをした。そんな僕が行けば、彼女を傷つけることになりかねない。だから僕は、月ヶ瀬に会うのを拒むことにした。


 けど、そうですかとはいかなかった。所詮仕事だ。僕が嫌だと言ったところで、上が決めてしまえばどうしようもない。依頼人に望まれ、こっちに予定がないのであれば、当然メンバーに組み込まれるに決まっている。


「どうしてそんなに嫌そうなの?」


 車で移動中に、以前も一緒に月ヶ瀬家に行っていた先輩の女性に問われるが……どう答えたものかわからない。全てを正直に話すわけにはいかない。それは、卑怯な僕を話すことにもなるから。


「……前に、喧嘩をしてしまったんです」


 そうして話し始めたのは月ヶ瀬殿のことだけではない。僕のこと。僕の隠していた過去。その一部を話した。


 昔事故を起こしてしまったこと。その事故で人を轢いてしまったこと。

 相手を|怪我(・・)させてしまった罪悪感から介護士として働こうとしたこと。

 月ヶ瀬由梨のことを心配していたのも、自分が怪我をさせてしまった女の子と状況が似ていたからだということ。

 そして、それらを月ヶ瀬へと話してしまったこと。


 事実ではあるが真実ではない。いまだに『あの女の子』を死なせてしまったことを話さないで〝逃げ〟ている説明。


「あの時、思わず話してしまったけど……話さなければよかったと今でも後悔しています」

「思ったよりも重い話だけど……まあそりゃあ怒るってもんよね。だって、話ってそれだけじゃないでしょ? 由梨ちゃんから告白とかされたんじゃないの?」

「……いえ。そんなことは。精々名前で呼んでほしいって言われたくらいで……」


 そこに込められた思いがどんなものなのかは僕だって理解しているつもりだ。でも、事実としてはそれだけ。月ヶ瀬が僕のことを名前で呼び、月ヶ瀬のことを名前で呼んでほしいと言われた、それだけ。

 だから僕は、言葉に込められた意味なんて知らないふりをして言葉を紡ぐ。


 所詮そんな考えもいつも通りの〝逃げ〟でしかないことには気づかないふりをしながら。


「そんなのほとんど同じ様なものでしょ。付き合うかどうかは置いておいても、好意を伝えたのに、そんなくだらない理由で断られたら、そりゃあ喧嘩にもなるってもんよ」

「くだらないってっ……!」


 自身の葛藤や罪悪感をくだらないと言い切られてしまい思わず怒鳴りそうになるけど、ぶすっと機嫌悪そうに僕のことを睨んでいる先輩を見て、びくりと体を震えさせてしまった。


 そして逃げるように視線を泳がせ、先輩から顔を逸らしてしまった僕に対し、彼女はため息を吐き出してから再び話し始めた。


「あなたの過去はあなたにとって重いものかもしれないけど、月ヶ瀬さんにとっては所詮知らない過去でしかないじゃない。それなのに、そんな〝くだらないもの〟に大事な『自分の今』を邪魔されて壊されるなんて、ふざけんじゃないって思うものじゃない?」


 それは……確かにその通りなんだろう。僕がどれほど苦しんだところで、それは他人にとっては〝他人事〟でしかない。そんな他人事のせいで自分の大事な想いが拒絶されたとなれば、やるせない思いを抱くのは当然と言えば当然のことで、僕だって理解できる。


 僕の苦しみを、罪悪感をわかってくれない、なんて言うつもりはない。

 人は誰かの苦しみに寄り添うことができたとしても、そもそも寄り添う前に近づかせてさえもらえないなら何もすることはできないんだから。だから、近寄らせないようにしている僕には何も言えない。言う資格がない。


「あなたの思いはあなただけのもの。その思いがあるせいで誰かの想いを拒絶するなんて、拒絶された方からしてみればたまったものじゃない。罪悪感を言い訳に逃げるんじゃなく、ちゃんと彼女を見てあげなさいよ。好きなら好きで、嫌いなら嫌いって、そう言ってあげないと可哀想すぎるでしょ」

「……」


 そう言われた僕は何も言い返すことができず、ただ俯きながら月ヶ瀬への想いや過去の罪悪感について考え続けるだけだった。


 ——◆◇◆◇——


「皆さん、この度はありがとうございます」


 電話を受けた僕たちは月ヶ瀬家へと向かい、以前のように月ヶ瀬の母親に出迎えられた。


「それじゃあ、岡崎さんは彼女のことをお願いね。|くれぐれも(・・・・・)気をつけてちょうだいね」


 いつもならここで月ヶ瀬自身も一緒になって話をするのだが、今回は少し事情が違う。

 すでに電話で話がついているんだろう。少し話をしただけでこの後の予定が決まった。

 僕は先輩の言葉を受けて何度か深呼吸をしてから立ち上がり、歩き出す。


 月ヶ瀬の部屋へと向かった僕は、いつものように座るのではなく部屋の入り口でただ立ち尽くしながらもなんとか口を開く。


「月ヶ瀬。その、僕は……」


 だけどそれ以上言葉が出てこない。話すべきことは、言うべき言葉はいくらでもある。あるはずなのに……口が動かない。


「——岡崎さん。そこに立っていてください」

「え?」


 そんな僕を見て何を思ったのか、月ヶ瀬はひとつ深呼吸をした後そんなことを言ってきた。


「それくらいも聞いてもらえませんか?」

「あ、いや……わかった」


 チクリと突き刺すような言葉。その言葉に逆らうことができず、僕は指示された場所——彼女の目の前に立つ。

 手を伸ばせば容易に届いてしまいそうな距離。そこで彼女のことを見下ろし、見つめる。


「これでいいか?」

「はい。そのまま立っていてください」


 何があるんだ、と思っていると、月ヶ瀬は両手で肘置きを掴み、そのまま力を入れて立ちあがろうとした。


 けど、それは無理だ。だって……彼女には脚がないんだから。


「つ、月ヶ瀬っ……!?」

「やめて!」


 そのまま力を入れても立ち上がることはできず、転ぶだけだろうことは容易に想像できる。

 それを止めるために僕は慌てて手を伸ばそうとしたけど、月ヶ瀬に叫ばれたことで差し出そうとしていた手は止まってしまった。


「来ないで。そこで、待ってて……」


 どうして、と僕が困惑しながら動きを止めている間も月ヶ瀬は腕に力をこめていき、ついに体が車椅子から浮かび上がった。——けど、そこまでだ。


 脚を失っている月ヶ瀬は体を浮かび上がらせた勢いのまま体が前に流れ、倒れてしまう。

 受け止めるために思わず手を伸ばすが、月ヶ瀬の体に触れて支えようと力を込めた瞬間、先ほどの月ヶ瀬の静止がふと頭をよぎり動きを止めてしまう。


 力の入っていない手では彼女の体を支えることなんてできず、僕は月ヶ瀬に押し倒される形で後ろに倒れ込んでしまった。


「ぐっ——」

「罪悪感なんていらない。私はその子じゃない。私を見て」


 倒れ、苦悶の声を漏らした僕とは違い、そうなることがわかっていたんだろう月ヶ瀬は僕の服に縋り付くように握りしめた。

 手を伸ばせば触れるなんてものではなく、後少し近づけば顔がついてしまうような距離でまっすぐ僕のことを見つめ、月ヶ瀬は言い放つ。


「月ヶ瀬……」

「私は、一人じゃ立てないんです。あなたがいなくても一人で大丈夫だって、そう思っても何にも上手くいかなくって。あなたがいないとダメで……助けてよ」


 涙をこぼしながら弱音を吐く月ヶ瀬を見て、僕はどうしたらいいかわからなくなった。

 罪悪感はある。あるに決まってる。この想いはきっと消えることはないんだろう。

 ……それでも、月ヶ瀬に対する想いも……ある。


 今まで彼女の介護として付き合いを続け、罪悪感以外の感情は生まれていたんだ。ただ、罪悪感を言い訳に知らないふりをしていただけで。そしてその想いは、僕の中で少しずつ大きくなっていた。


「いつまでも助けてくれるって言ったじゃない! 罪悪感がなくならないって言うんだったらそれでもいい。誰かのために生きなくちゃいけないって言うんなら、私のために生きてよ!」


 縋りつきいていた月ヶ瀬は涙を流す顔を上げ、僕のことを見つめながら叫んだ。


「僕は……」


 涙を拭ってあげたい。笑っていてほしい。

 そう思ったらもうダメだ。


「ん——」


 僕の体は自然と動きだし、月ヶ瀬のことを抱きしめ——キスをした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の心と君の脚 農民ヤズー @noumin_00

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る