第9話 残価設定ローン
五月の中旬、数原のバーに行った。彼の誕生日を控えて落ち着かなくて、話を聞いてほしかった。
仕事は上手くいっていなかった。先月はなんとかノルマを達成したが、先々月は数字が足りなかった。それでもあまりダメージがないのは、仕事外で夢中になっているものがあるからだ。
「今日はもちちゃんいないんだ」
そう言いながら、おしぼりを投げるように渡される。他に客がいないといつもこうだった。
「残念だけど、いない」
「……やけに素直じゃない? 何、もしかして付き合ってんの」
「いや、まだだけど」
「まだ?」
数原が煙草に火を点ける。
「付き合うの?」
答えるに答えられず、俺も煙草を取り出した。
「武仁らしからぬ……」
「他のやつとヤッてるから、あいつ。それが嫌で、なんとかしたいっていうか」
「告白するの?」
「やばいな、そういうの頭おかしくね」
想像すると、無理だった。好きです、とか真面目に言えないだろ。
「だから、惚れさせようと思う」
俺が言うと、数原は笑った。
「格好いいじゃん。でもあの子、難しいんじゃない」
「まあ、いけるだろ、俺なら」
「そうねー。あんたモテるし、がんばったら。応援するよ、昔っからフラフラしてた武仁に、ちゃんとパートナーできるなら私も嬉しい」
数原は俺が咥えた煙草に、ライターを近づけた。兄貴分は楽しそうに口角をあげていた。
そして迎える誕生日、持留はアルバイトに従事していた。だから、当日が過ぎてから、予定が合いそうな日を選んで誘うことにした。
『明日か明後日か、空いてるか』
仕事終わり、テンプレートと化した文章を送りつける。いつもと違い緊張した。
ジムに行く支度を整えていると、僅かにスマートフォンが震えた。画面をつけて、返信を読む。
眉をひそめた。
『すみません、ちょっと大学が忙しくて難しいです。また連絡します』
断られた。
初めて、断られた。
嫌な汗が滲む。
知っていた、こういう文面はもう二度と会えない時のものだ。
これで縁が切れた相手が、何人もいる。受け取ったこともあるし、俺も送ったことがある。
分かった、とだけ返して、とりあえずジムに行くことにした。こういう時は、いつも通り過ごさねばならない。
それ以降、持留からの返事はなかった。届かない連絡を今か今かと待ちわびるのは息苦しかった。
彼は俺への興味を失ったらしい。
数原に聞くと、バーにも姿を見せていないようだった。本当に忙しいんじゃない、と奴は楽観的な意見を述べたが、俺はそうではないと分かっていた。
けれど、その楽観にすがるほかなかった。
一月ほど経って、またこちらから連絡を取った。一ヶ月も交流のないメッセージ画面を見るのが辛くて、馬鹿らしいけれど薄目で視界をぼやかしながら文字を打った。
『来週とか時間ないのか』
『アルバイトが忙しくて、すみません』
あいつの今月のシフトは、当然だけれど送られて来ていなかった。
断られていながらも、返事がある、ということに安堵してしまう。まだ繋がっている。
俺は仕事に熱中した。自動車情報誌を片っ端から買って、バックナンバーも取り寄せて、メカニックの話をメモした。
今まで、人との縁の切れ目は俺が相手に見切りをつけたときか、もしくは両方が飽きたときか、どちらかしかなかった。
俺は初めての挫折を味わっていた。
バカにしていたものをバカにできなくなった。
くだけた心を奮い立たせるのに必死だった。
そんな状態だったから、仕事だけは上手くいかせるしかなかったのだ。
月末、今までのツケを返せるくらいの数字が出た。しかし、無感動だった。
休みの日はとにかく用事を入れて、なるべく持留を頭から追い払った。
他の男とも寝た。ケンゾウさんともした。
「なんか変わったね、石田さん」
「そうか? ケンゾウさんは変わらず魅力的だけどな」
「ふふ、うーん。なんか俺様感が薄れたというか」
「いい意味?」
「いや、どっちでもない。相変わらずいい身体だし、セックス最高だったよ。だけど、なんていうか、ようは落ち込んでるのかなって」
「いーや、んなことない。……あえて最近で言うなら、ジムが混みだしてちょっと嫌ってのはあるけど」
「分かる、それ。夏前のジム、急に混むよね。まあ、それで僕は飯食べてるわけだから、嫌じゃないけど」
「ああ、そうか。そうだよな」
ケンゾウさん、いい人だなあ。もういいじゃん、あんな奴のことなんて。そう思いながら、心の奥にいる全くもってタイプではない彼を
七月末、持留がバーに来たらしい。俺への連絡はなかった。
「好きな人できたんだって」
数原は悲しそうな顔をした。
「ああ、そうか」
強がろうとして出た言葉がどうしようもなくて笑えた。ていうか好きな人なんて、こんなバーで出てくる単語じゃないだろ。
「あんな子忘れなよ」
「ああ」
「しょうもない奴だって。この店でもめちゃくちゃナンパしてたし、最初から武仁だけじゃなかったし。好きなタイプ聞いたら、ノンケっぽい感じの人って答えてたし、もうそういう回答まじで嫌い。絶対性格悪いよ」
「数原」
俺を励ますために、長々と似合いもしない悪口を並べる彼を止める。
「なに」
「俺、俺以外のやつに持留のこと馬鹿にされると腹立つみたいだ」
「……はぁ? 何、言って」
数原が息を飲んだのが聞こえる。俯いているから、顔は見えない。
「泣いてんの」
俯いているのは俺だった。
「泣いてない」
「え、え〜。いや、泣き止めよ……」
だから、泣いてないって。返事をせずにいると、カウンターの外に出てきた数原が後ろに回って頭を乱暴に撫でてくる。
本当にやめてほしい。振り払わずに受け入れた。
あの子は恋をしているらしい。もう、俺の相手はしてくれない。
手元に残ったのは、思い出だけだった。
ああ、そうか。残クレで得た車を残価払ってでも買いたくなる人間の気持ち。乗り換え前提のプランで、乗り換えないというのは本末転倒で端から見ると愚かだった。
けれど、思い出だけで生きていきたくなんてない。
あの客にとって五年乗った車は、もう換えがきかないのだ。愛着が湧いたものを手放すのは、身を切るように痛かったのだ。
失恋の末を残価設定ローンに例える自分は、やっぱりどうしても恋愛に向かないのかもしれない。
馬鹿みたいだ。
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