まだ、果てぬ

紫鳥コウ

まだ、果てぬ

 雷鳴が響くより先に窓を閉めたが、ざあざあと大雨が瓦屋根に打ちつけて、白煙が立ち上がっている。先ほど借銭に来た長尾は濡れてはいないだろうか。なにも持たせずに帰らせるのは気の毒だったかもしれないなどと思ったが、本棚の上の写真立てを眺めやり、それでよかったのだと考え直す。ない袖は振れぬ。


 原稿仕事が一段落して、動画を再生する。何度目か分からないほど見ている。自分だけで数百回の再生数を計上していないだろうか。ざあざあと鬱陶しい雨音を追い払おうと、音量を大きくする。客席からの笑い声が、夕立を外へ外へと押し返す。


 明日までに、雑誌連載の数話分を書き切らなければならぬ。一階に降りて冷蔵庫からエナジードリンクを取り出す。西野さんから三つも貰ってしまった。こちらから返せるものといえば、感謝の言葉くらいだ。そして、古里さんに綺麗に洗ったタッパーを返すついでに、なにか持っていけるものはないかと見回すけれど、あるものといえば、あげられないものだけである。


 明日は瓶の回収日だ。忘れないように目覚ましを設定する。これから寝るわけではない。原稿仕事をしているうちに、ごみ出しの時間が過ぎてしまわないように、そうするのだ。どうせ今日も、徹夜になるだろう。仏壇の花を変えなければならない。そう思ったときにはもう、階段を三つも上がっていた。


 死というものを軽々しく扱う小説を軽蔑している、などと、むかしエッセイで書いたところ、とある方の逆鱗に触れたらしく、少なからず仕事が減ってしまった。五流も名乗れぬ書き手であるから、一流からの非難をはね返す力がないのも仕方があるまい。しかしまだ、方々ほうぼうから依頼が舞い込んでくるし、意地汚いと言われようとも、原稿仕事は貪婪どんらんに受けている。とにかく金が必要なのだ。


 煩雑な付き合いのある文壇や論壇からは距離を取っている。孤軍奮闘に、濫作をなしている自覚はある。だけれど、矜持きょうじまでは売り払っていないし、冷評されれば腹も立つ。しかし金が貰えれば、そんなことはどうでもいい。悪口ならいくらでも言えばいい。どうぞご自由にご批判くださいませ。


 父が死に、母も死に、残ったのは兄妹あにいもうとだけ。そして兄は、妹のために金を送ってやらねばならない。妹の夢のためだ。少しくらいは仕送りをしてやりたい。こちらの心配はしなくていい。食うに困れば山羊やぎのように本をむし、飲むものがないなら水道水を煮沸すればいい。妹の月々の薬代全部と生活費の一部は、こちらがすべて負担してやる。


 いつしか雨は上がり、蒸し暑い空気が部屋のなかに充満している。網戸にしても、風は吹かない。上半身だけ裸になって、首にタオルをひっかけて、氷を頬ばり、飴のように舐める。


 妹のことを思うと、筆はどんどん乗ってきた。しぶしぶと雨が降り出して、肌寒くなったのに気付いたのは日付を過ぎたあたり。くしゃみをひとつして、バタンと窓を閉めてシャツを着た。向こうの神社は蕭然しょうぜんとしていて、灯りひとつついていない。鬱蒼とした木々の合間に、狐が遊んでいる様子もない。月は見えないけれど、月明かりはそれとなく雨空へ映っている。


 妹はいま、薬の副作用で眠っている時間だろう。ちゃんと冷房を使っているだろうか。ひとり暮らしだ。熱中症になってしまっては、たまらない。相方の仁科さんへは、内証ないしょうでこちらから何度も頭を下げて、こまめに連絡をあげてくれるよう頼んである。いつ倒れるとも分からないあの身体。舞台の上で死ねば本望などという美談には、絶対にさせぬ。もうすぐ花が開きそうなのだ。天国の扉など開けさせぬ。


 ちゃんと食事をっているだろうか。こっちは羊のように紙を食べるから、栄養に気をつけて、三食きちんと口にしなさい。連日のこの暑さだ。スポーツドリンクを買いだめしなさい。水道水を煮沸するのは、兄だけでいい。


 劇場に足を運ぶことはできぬ身ではあるけれど、公式チャンネルでネタを見ている。きっと、年末には決勝の舞台に立って、テレビ越しに妹たちを見ることができるだろう。兄への恩返しなんて考えなくてもいい。笑わせたいひとを、笑わせる芸人になってくれれば、それでいい。妹の夢を応援するのが、父母ちちはは亡きあとの兄の使命だ。家族というものの、辞書に明記されていない定義だ。


 父と母の教え通り、借金はしない。もしお金に困ったら両親にだけ頼りなさいという教えは、空文化してしまった。自分ひとりで、なんとかせねばならないし、今年も秋までに、もう少し金を稼がなければならぬ。家族になるかもしれぬひとに、なにかを贈らねばなるまい。


 だから、書く。書くことが尽きても、書いてみせる。


 ですから、仕事をください。いくらでも受けますから。謹んでお願い申し上げる次第でございます。何度も、そう呟く。

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