第2幕 第4場 中庭にて

 僕は四時限目の終わりを告げる予鈴が鳴り始めるのと同時に、椅子からバネのように立ち上がり、後ろに弾いた椅子も戻さずに教室から飛び出した。

 教壇にはまだ世界史の教師が立っていて、生徒からの個別の質問に答えているところだった。僕は彼らに目もくれず脇を通り抜けた。

 廊下に出ると、

「やあ! また来たのか。随分熱心だね」

 昨日、笹野が図書室にいると教えてくれた赤色の眼鏡をかけた男子が声を掛けてきた。

「おう」

 僕はその挨拶に、右手を上げて答えた。

 教室の中に飛び込むと、笹野は机の中に教科書をしまっているところだった。一直線に突っ込んでくる僕に気がつくと、笹野は手の動きを止めた。

「外に行くぞ!」

 僕は笹野の返事をきかないうちに細身の腕を掴み、椅子から無理矢理立ち上がらせた。

「ちょっと待ってよ!」

 笹野が悲鳴を上げた。

「無理だ。待てない」

 笹野の体は拍子抜けするほど軽く、簡単に自分の思い通りになった。

 教室の入り口でたむろしている生徒たちを掻き分け廊下に飛び出す。その間も笹野は制止を求める声を上げていたが、僕は聞こえないふりをして彼女の腕を掴んだまま廊下を突き進んだ。

「痛い! 離して!」

 笹野が一際甲高い声を響かせる。廊下を歩いている生徒たちが一体何事かと好奇の色を含んだ視線を投げかけてくる。僕はそれさえも無視して笹野の腕を握る手に力を込めた。折れてしまいそうなほどに細すぎる腕は、汗ばんでいる手のひらからすり抜けてしまいそうで少し怖い。

「離してよ!」

 性懲りもなく、笹野が叫ぶ。

「離したら逃げるだろう」

「逃げないから! 離して! お願い!」

 生徒たちの声が遠ざかっていく。

 叫びすぎたのか、笹野の声は掠れ始めていた。



 僕は渡り廊下を横切り、中庭まで来たところでようやく足を止めた。都合のよいことに誰の姿もなかった。

 掴んでいた笹野の腕を離すと、笹野は膝に手を当て体を丸め、肩で呼吸を始めた。

「腕は痛いし! 歩くのは速すぎるし! 強引過ぎると、彼女に嫌われるわよ!」

 目の縁を赤らめた笹野が、僕に鋭い視線を投げた。

「お生憎様、彼女はいません」

「女の子にモテないわよ!」

「いいよ、モテなくて。どうせみんな吾妻みたいなヤツが好きなんだろうし。それに、これくらい強引にならないと、頑固で強がりな女の子とは向き合えないだろう」

 図星だったのか、笹野が喉を引きつかせようやく黙った。

 厚みのある白い雲が風に流れ、切れ目から太陽の日が差し込んできた。光の筋が、笹野の黒髪を眩しくさせていた。

 午前中は雲一つない青空が広がっていたが、午後になるにつれ雲の量が増えていった。明日、また雨が降る予報だったことを頭の片隅で思い出す。

「随分勝手なのね。私、まだ怒っているのよ」

 笹野は腕を組むと、くるりと体を回転させ僕に背中を見せた。

「知ってる。だから和解するために、ここまで連れて来たんだろう」

「ほとぼりが冷めるまで時間を置くとか考えられなかったの?」

 珍しく髪の毛を無造作に飛び跳ねさせている笹野は、僕の返事を待たないまま言葉を続けた。

「さすがのあなたも、私があなたたちから逃げていることに気づかないほどバカじゃないでしょう!」

「時間があるならそうしたさ。でも今のオレたちにはその時間がないだろう」

 ようやく笹野が振り返り、僕の顔をじっと見つめてきた。何かを暴こうとする、鋭い視線だった。

「それならなおさら私のことなんて見捨てればよかったでしょう! 今までどおり千歳にジュリエットをやらせれば、それで解決する話じゃない。どうしてそこまで部外者の私に拘るのよ!」

 笹野が金切り声を上げる。

「そうさ。千歳だって、ジュリエットはやれる。でも違うんだ。今までのオレたちのままでは駄目なんだ。吾妻も口ではああ言ってるが、オレたちが変わらなければいけないことにアイツが気づいていないはずがない。そのためには笹野の力が必要だ。だからオレは、笹野がオレたちの気持ちに答えてくれるまで何度だって足を運んで説得を続けるさ」

 僕には、笹野が演劇部に入部したことは「運命」としか思えなかった。笹野は他人にスポットライトを当てるために、ここまで導かれたわけではないはずだ。眩しい光を受け取るために、意地っ張りな彼女の代わりに、運命の方が彼女をここまで導いてくれたのだ。

「頼む。オレたちに協力してくれ」

 そう言うと僕は、迷いなく頭を下げた。

 グラウンドで遊んでいる生徒たちの声が聞こえてくる。よほど楽しいのか、笑い声が絶え間なく続いている。

「どうして、そこまで頑張るの?」

 頭上でイヌワシが一羽通過してから、後を追うように笹野の声が落ちてきた。

「たかが部活でしょう?」

「たかが部活だ。それでもオレは、本気で演劇部を残したいと思ってる。演劇部の活動を見て欲しい人たちがいる。笹野にだって、自分の頑張っている姿を見てもらいたい人がいるだろう?」

 僕は顔を上げて笹野を見つめた。

 彼女の目に僕の姿は映っていない。波打つように震えるその目には、きっと僕が顔も知らないあの子の姿が映っているのだろう。

「そんな人、一人もいないわ……」

 笹野の伏せられた視線が滑るように地面を這った。その先を辿れば彼女の本心が見える気がして、僕は執拗に後を追いかけた。それでも彼女の視線は、僕の心を突き放すように逃げていく。

「笹野は、クラスに友達がいないのか?」

 言ってから僕は舌を尖らせ、すっかり渇いていた唇をなぞった。

「いないんじゃない。必要ないの!」

 笹野が反射的に怒鳴った。

「笹野がそんな態度だから、友達ができないんじゃないのか?」

 僕の言葉が癪に障ったのだろう、笹野が目をカッと見開いた。

「私のことを何も知らないくせに勝手なことを言わないで! 私には必要ないって言ってるでしょう! 大体友達って何? 自分の都合が悪くなったら簡単に手のひらを返すようなヤツらなんて、お願いされたって一緒にいたくないわよ!」

 笹野が肩を上下に動かしながら声を張り上げた。

「本気で夢を追いかけるのは恥ずかしいことなの? 他人からバカにされないといけないことなの?」

 笹野は言葉を最後まで言い切らないうちから僕に詰め寄ってきた。

「少し落ちつけよ」

 僕は自分の予想以上に興奮してしまった笹野にたじろぎながら、何とか宥めようと思い華奢な肩に両手を置いた。が、笹野の肩はその手を容赦なく押し上げてくる。先程僕から好き勝手に体を動かされていた彼女の影もない。

「葉山だって、その見えない心の中では、私のことをバカにしてたんでしょ! いつも英単語帳を持ち歩いている私のことを、本当はバカにしてたんでしょう!」

 笹野が体を折り曲げ、声を強くする。

「バカにしてねえよ!」

 僕は怒鳴り返した。

 笹野は僕から怒鳴られるとは思っていなかったのか、あれほど押し付けてきた体を瞬時に後ろへと引いた。

「小見先生から話を聞いた。英語スピーチコンテストのこと……」

 小見先生の名を出した途端、笹野の表情ががらりと変わった。

「それにオレは、笹野を羨ましいと思ってる。自分の好きなことを一人でも続けようと必死になっている笹野を、嫉妬するくらいに羨ましいと思うよ」

 笹野が無言のまま僕を見つめた。

 自分の好きなことを素直に好きだと大声で叫べる人間はどのくらいいるだろか。恥じる必要のない好きを他人に直隠しにしている人間はどのくらいいるのだろうか。憧れと諦めの狭間で右往左往している人間はどのくらいいるだろうか。憧れに飛びこめる人間を強い人だと言い、諦める材料にしている人間はどれくらいいるだろうか。

 自分だけだろうか。いや、違う。おそらく笹野が友達になりたくないと言ったヤツらは、僕と同じこっち側の人間だ。

 僕は笹野の肩に自身の額をのせた。自分が情けない表情をしていることは簡単に想像できた。それを彼女に見られたくなかった。

 笹野の体が硬直したのがわかった。

「この気持ちが演技ではないことくらい、わかるだろう?」

 僕は笹野の手を取り、自身の胸に押しつけた。笹野は戸惑うように、僅かに指先を動かした。激しく脈打つ胸の鼓動が、僕の言葉を代弁するように、彼女に伝わっているはずだ。伝わっていないわけがなかった。

 風が吹き、生い茂った葉が柔らかな音を鳴らす。笹野の黒髪が靡き、彼女の髪の毛が僕の手の甲を滑った。

 彼女は今までどんな気持ちで、たった一人で英会話のプリントを作っていたのだろうか。

「ごめん……。葉山を他のヤツらと一緒にしてごめん……」

 謝る笹野の声が震えていた。

 笹野の顔を覗き込むと、笹野は僕の目から逃げるように地面を睨みつけていた。

「笹野がどうして舞台に上がりたくなかったのかようやくわかった。人前で演技をすることが嫌なんじゃなくて、人前に立つこと自体が嫌だったんだな」

 笹野の髪の毛はとても柔らかかった。

「そうよ。私はスポットライトを浴びることが怖い。だからジュリエット役はできない……」

 笹野は一呼吸挟んで、言葉を続けた。

「元々英会話部には、私の他に同学年の女子が四人いたの。入学してから最初の四か月間は、三年生の先輩たちと洋画を見たり、英語のゲームをしたりと積極的に活動してた。とても充実していてすごく楽しかった。だけど先輩たちが引退すると部内の状況が変わった。二年生が一人もいなかったから、私が部長を引き継ぐことになったの。私はそれまで通りに活動していくつもりでいたけれど、他の四人は違った。先輩たちがいなくなって自由になったと思ったのか、できることなら活動日を週に一度にして欲しいと言ってきた。私はいくら自分が部長だからといって、その意見を頭ごなしに反対するつもりはなかった。だけど私のいないところで四人だけで話し合いをしていたんだってことに気がついたら途端に許せなくなった。私は反対せざるを得なくなった。話し合いは平行線を辿り、彼女たちはだんだん面倒になってきたのか、別に自分たちは英会話部でなくてもいいんだって言い出した。文化部で活動日が少なければ、写真部でも茶道部でも何でもよかったんだって……。結局和解できないまま、彼女たちは退部していった」

 笹野の肩が震えていた。僕はその震えを抑えようと手を持ち上げかけたが、笹野が口を開いたことに気づき、その手を急いで引っこめた。

「英語に本気だったのも、あの子たちを友達だと思っていたのも全部私だけだった」

 笹野が苦しげに喉を鳴らす。

「葉山の言う通りだよ。私、みんなよりも英語が得意なことを無意識に鼻にかけていたんだと思う。だから私とみんなとの間にあった温度差に最後まで気づかなかったんだ……」

 笹野は声を絞り出しながら、それでも話を続けた。

「部員が私一人になると、小見先生から他の部との統合を勧められた。英会話は相手がいて初めて成り立つものでしょう。その相手がいなければ活動にならない。それは私もわかってた。だけど私は反対した。私がやりたいのは英会話であって、お菓子作りでも、お茶立てでもないもの。ましてや友達作りではないもの。実績があれば、誰か入部してくれるかもしれないと考えて、英語スピーチコンテストの地区大会に出場することにした」

 部活の見直しは年に一度、四月の新入部員の入部期間後に実施される。愛好会とて部員が三名以上は必要だ。笹野にとっては、一世一代とも言える挑戦だっただろう。

「大会当日、私はお父さんが運転する車で秋田の会場に向かった。だけど通行する予定だった道路が前日に起きた事故で封鎖されていて、迂回すると開会式どころか発表順にも間に合わないかもしれないという状況になった」

 笹野の声がまた震えだした。

「お父さんが頑張ってくれたおかげで、何とか自分の順番には間に合ったんだけど、息が落ちつかないうちにステージに檀上することになって、階段を上がっている途中で頭の中が真っ白になって、マイクを目の前にするともう駄目だった。最初の一句が全く出てこなくて、どうしよう、どうしようって思う間もなく、気づいたときには過呼吸になってた」

 笹野が自身の腕をぎゅっと抱きしめた。

「そこからの記憶はあまりなくて、確か小見先生がステージの横から出てきて、私は先生に肩を抱えられながらステージを降りた。私の成績は入賞するどころか、出場辞退という扱いになった。それからのことは葉山も知っている通り、英会話部は演劇部に吸収され、表面上は廃部という形になった」

 演劇部と英会話部の合併は、円満だったかというと否だ。当時演劇部の部員が、部長の神室さん、僕、吾妻、千歳の四人で、英会話部は笹野一人だったこともあり、合併といえど演劇部が英会話部を吸収する形を取った。

「……悔しかった! 私の頑張りは誰からも認められないまま、自分にさえ認められないまま、行き場を失くした。去年、小見先生からもう一度挑戦してみないかと誘いを受けたわ。だけど、また同じことになったらって考えると怖かった。人前に立つことが怖かった。あの子たちから影でバカにされることが怖かった。大したことないじゃんって言われることが怖かった」

 そこまで話し終えると、笹野は静かに目を閉じた。

「覚えてるの。全部、覚えているの。今でも原稿を見なくても一言一句間違えずに言えるの。二度と読み上げる機会がないのに、何度も何度も練習してるの。おかしいでしょう?」

 笹野が眉を顰めた。僕に同意を求めてはいるものの、差し出してきた手を握って欲しいとは望んでいなそうだった。

 僕は頭に刻んだ英文を、目を閉じたまま口遊んだ。笹野が人前に立ってまで伝えたかった気持ち。その気持ちを音に変えながら復唱する。それができるのが演劇だ。

「……どうして! どうしてあなたがそれを知ってるのっ!?」

 笹野が僕の腕にしがみつき、乱暴に揺すった。

「英単語帳に挟まってたぞ。笹野のスピーチ原稿」

 今僕の前に立っているのは、笹野が必死に隠してきた、記憶から消したい彼女だった。僕は笹野の手を自分の腕から外すと、今度は僕の方が笹野の腕をがっしりと掴んだ。

「ステージに上るのが怖いだって? それは一人のときの話だろう。もし一人でなかったら成し遂げられることもあるはずだ」

 僕は許してあげたかった。彼女が許せなかった彼女を、僕が代わりに許してあげたかった。

「何を言ってるの?」

 笹野が濡れた眼差しを揺らした。

「リベンジするぞ」

 僕は学生服のポケットに入れていた書類を取り出し、笹野へ差し出した。

「これは……」

 笹野が震える指先で、それを素直に受け取った。

「小見先生からの預かりものだ。大会に出場する気になったら、小見先生のところに来いと言ってたぞ」

「でも、私……」

 笹野が抗う。

 この「でも」は誰に対する言い訳なのだろうか。自分か、それとも僕にだろうか。僕にはわかる。この「でも」は、自分に対する言い訳だ。

「今度の舞台だが、台詞を全て英語にする」

 以前舞鶴さんに、笹野が正式な演劇部員ではないことを説明したときに、彼女が言った言葉を思い出した。『だから演劇部の活動に、英会話の時間があるんですね。てっきり英語劇でもしているのかと思っていました』と。その言葉からヒントをもらった。

 笹野の問題に、中途半端に首を突っ込むのは失礼だと思った。付き合うと決めた以上、最後までとことん付き合ってやると覚悟を決めた。

「全部英語って……。脚本はどうするのよ? あなたが英語で書くっていうの?」

 笹野が瞬きを繰り返す。

「そうだ。脚本はオレが英語で書く。笹野を舞台に引き上げるためなら多少の努力は惜しまない。どうだ、笹野。これは契約だ」

 二年前の、あの日。あのときも僕たち演劇部は、笹野と契約を結んだ。

「この条件でジュリエット役を引き受けてくれないか? 舞台には吾妻に千歳、それに白鷹がいる。もし笹野に何かアクシデントがあったとしても、アイツらが必ずフォローしてくれる。文化祭の舞台でトラウマを克服して、胸を張って英語スピーチコンテストに出場しろ。そのために演劇部を利用してくれて構わない。オレたちを頼ってくれ」

 僕は自分の胸を叩いた。この胸の高鳴りも、笹野の胸の高鳴りも、同じものであって欲しい。それを懇願しながら、もう一度叩いた。

「どうして、そんなことを言ってくれるの……?」

 笹野が、綺麗に整えられている眉を下げる。

「くだらないことを訊くなよ。答えたら、安っぽくなるだろう」

 僕は目を逸らそうとした笹野の視線を執拗に追いかけた。笹野は観念したように視線を止めて、口を薄く開いた。

「私とあなたたちの間には契約があるから、対等な関係ではいられても友達にはなれないんだって思ってた。期待しても、また裏切られるだけだと思ってた。英会話部のときもそうだった。私だけが友達だって勝手に勘違いしてた。相手を責めることはできなかったけど、やっぱりどこか寂しかった。だから他人には期待しないことにしてた。他人に、私の幸せを預けないことにしてた」

 笹野が涙で濡れた目を僕に向けた。彼女のプライドは、その光で塗り潰されていた。

「だけど! あなたたちが! あなたたちが下手な英語で喋るから! 下手なくせに、真面目な顔で喋るから! だから……、だからね、週に一度の英会話部の時間が楽しかった! お礼に演劇部の活動に協力してやってもいいかなって思うくらいに楽しかったの!」

 笹野が叫ぶ。彼女の目から大粒の涙が溢れ出していた。その滴が柔らかな肌の上を滑って弾いた。

「本当に期待していいの?」

 笹野が顔を傾ける。その角度に嘘はなかった。意地っ張りな強さもなかった。

「ああ。思う存分、期待してくれ。Will you be our Juliet?」

 僕は一歩踏み出して、笹野に右手を差し出した。笹野は瞬きをして涙を叩き落とすと、大きく、深く頷いた。差し出した僕の手が、真っ白な手に握られる。

「OK.Please cast a spell on me」

 僕と笹野は互いに見つめ合った。

 頭上で旋回していたイヌワシが一際高い木の枝に降り立った。

「笹野が頑張ってきた姿を、学校のみんなに見せてやろうぜ。オレが絶対に成功させてやるから信じて後ろをついてこい。笹野の報われなかった努力を、まずはオレが一番に認めてやる」

 僕は笹野の返事を聞かないまま教室棟を目指し、渡り廊下へと歩いていった。

 大丈夫。笹野の答えはもう決まっているはずだ。

 僕は廊下を走り抜けていく下級生の横を通り過ぎ、軋む階段を二段飛ばしで上っていった。



「笹野先輩、来ないですね……」

 僕から話を聞いた白鷹が、微動だにしない戸を見つめながら言った。

 部活の開始時刻から十五分が過ぎていた。数十分の遅刻は、笹野に限らず他の部員でも珍しいことではなかったが、笹野を説得できたつもりでいた僕の心に不安が現れ始めていた。

「本当に和解してきたんだよね?」

 心配そうに眉を下げた千歳が遠慮がちに言った。

「オレは、そのつもりでいるんだが……」

 僕の答える声が、ついに尻すぼみになっていた。

「このまま退部するつもりなんじゃないのか?」

 つまらなそうに、人差し指で机を叩きながら吾妻が言った。

 僕が吾妻に文句を言ってやろうと口を開きかけると、部室の戸が開かれ、光が差し込んできた。その道の上をほっそりとした影が通る。

「笹野……!」

「笹野先輩……!」

 笹野は自身に注がれる視線に戸惑ったのか、黒板の前辺りまで来ると、ぴたりと足を止めた。

「演劇部には私が必要なんでしょう。仕方ないから最後まであなたたちに付き合ってあげるわよ。その代わり、英会話部の活動にも最後までとことん付き合ってもらうからね!」

 笹野は恥ずかしさを紛らわすように腕を組み、わざとつっけんどんな物言いをした。

「遅刻だぞ」

 僕は緩む頬の筋肉を必死に引き締めながら、壁にかかっている時計を指差した。

「うるさいわね。小見先生のところに寄ってきたのよ。来てあげただけでもありがたいと思いなさいよ」

 笹野が顔を赤らめながら席に着いた。

 僕は、まだ耳をほんのりと赤らめている笹野を見ながら口を開いた。

「ようやく全員揃ったことだし、今から演劇の話し合いに入る。ご覧の通り、笹野がジュリエット役を引き受けてくれることになった。が、そのことにあたって、オレの方から一つ条件を出した」

「条件?」

 千歳と白鷹が声を揃えて顔を傾げた。

「劇中の台詞は全て英語にすることにした」

「ええ!?」

 狭い部室に絶叫が響いた。僕は予想以上の反応に思わず顔をしかめた。

「みんなに話を通していなかったの?」

 瞬時に状況を察した笹野も、みんなに負けじと驚きの声を張り上げた。

「アドリブだったからな……」

 僕は責めるような鋭い視線を向ける笹野から目を反らした。

「自分たちの問題は一度横に置くとして、観客はどうするつもりなんですか? まさか翻訳スピーカーを配るわけにもいかないし……」

 白鷹が心配そうに語尾を窄めた。

「その問題は後から考える」

 僕は躱すように答えた。

「ちょっと待て! 台詞を覚えるのは俺たち役者だろう。腕を組んで突っ立っているだけの演出家が勝手に決めるなよ」

 今まで口を閉ざしていた吾妻が不満を一切隠さない態度で言った。ロミオを演じる吾妻は一番台詞量が多くなるはずだ。吾妻は英語の成績もよいため、その点に関しては正直なところ何も心配していなかった。

「僕、英語はあまり自信がないな……」

 吾妻の隣で、千歳が弱々しく呟いた。

「英語の台詞で脚本を書くのはオレだ。負担は五分五分のはずだぞ」

 僕は自分の弱みを見せないよう声を張った。

「確かにそうか……」

 興奮していたわりには、妙に納得した様子の吾妻が口元に手をあてて黙り込んだ。

「さあ、どうする? 笹野は条件を呑んだぞ。今度はオレたちが決断する番だ」

 僕は部員たちの顔をぐるりと見渡した。

「自分やります! 笹野先輩のジュリエット姿が見られるのなら、苦手な英語も完璧にマスターしてみせます!」

 白鷹が興奮で顔を赤く染めながら、椅子から立ち上がって叫んだ。

「せっかく笹野が承諾してくれたっていうんだから、僕も精一杯頑張るよ」

 千歳も深々と頷き、意志表明をした。

 全員の視線が自然と吾妻の元に集まった。吾妻は気圧されたのか、体を後ろに引くと、眉をぴくぴくと動かした。

「まったく……。こっちはケータの無茶ぶりには慣れてるんだ。しょうがねえからやってやる!」

 吾妻は自棄を起こしたように机を叩いた。

 その音が、始まりの合図になった。

「最後の舞台の演目、ロミオとジュリエット。ジュリエット役は笹野で決定だ! オレは今から脚本の執筆に取り掛かる。舞台装置は……台本が仕上がってからにするとして、笹野は脚本が書き終わったら英文のチェックを頼む。千歳は舞鶴さんと一緒に衣装の用意を。白鷹はいつも通り、フリー素材のBGMをピックアップしておいてくれ」

 僕は高まる胸の鼓動を感じながら早口で捲し立てた。

「吾妻は笹野のフォローを頼むな」

 僕が吾妻の肩に手を置くと、

「しょうがねえなあ……」

 吾妻は頷く代わりに、頭の後ろに手を回した。

「それからもう一つ」

「まだ何かあるのかよ?」

 間髪入れずに吾妻が口を挟んだ。

「三年は、明日から昼休みは部室に集合だ」

「はあ? どうしてだよ?」

 吾妻が眉を曲げた。

「演技うんぬんの前に、吾妻と笹野の距離を物理的に縮めるところから始めていく必要があるからだ。今のままだと、ラブストーリーじゃなくてアクションコメディになりそうだからな」

 僕の言葉に、吾妻と笹野は互いに視線を絡めた。

「移動が面倒だ」

 吾妻が足を組み替えた。

「僕たちの教室に集まるのはだめなの?」

 千歳が訊いた。吾妻が嫌がっている通り、部室のある特別教室棟は一般教室棟から離れている。吾妻と千歳の二人がいる三年四組に集まりたいと思う気持ちは理解できる。

「四組は理系クラスだろう。男ばかりのそんな場所に、笹野を連れて行けるかよ。大変なことになるのが目に見えてる」

「人のことを何だと思ってるのよ?」

 笹野が口を挟んだ。

「先輩たちばかりずるいです! 部室に集まるのなら、自分も参加したいです!」

 白鷹が騒ぎ出した。

「それならケイタか笹野さんの教室は?」

 白鷹をスルーして、千歳が訊いた。

「文系クラスは、吾妻がいると女子たちの視線がうるさそうだから却下だ」

 なるほど、と千歳が手を打った。

「わかったよ。部室に行けばいいんだろう」

 吾妻も諦めがついたようだ。

「自分も! 自分も行きたいです!」

 ついに白鷹が手を上げて主張を始めた。天井に触るつもりなのではないかと思うほど身体を上に伸ばし跳ね出す始末だ。

「仕方ないな。月曜日だけは許可しよう」

 僕は白鷹の熱意に負けて妥協案を提示した。

「どうしてですか! 毎日行きたいです!」

 白鷹が机を叩いた。

「それはだめだ。白鷹がいると、吾妻と笹野の仲が深まらないだろう」

 白鷹は反論できないようで、唇に歯を立てている。

「吾妻と笹野には、本番までに、目と目で会話ができるレベルになってもらうからな」

 僕は、吾妻と笹野の顔を交互に見ながら言った。

「何だよそれ!」

「何よそれ!」

 吾妻と笹野が机に手をついて立ち上がった。

「これは、息がぴったりって言うのかな……?」

 千歳が真面目な顔つきで首を傾げた。

「人は共通の敵を持つと団結力が高まるって言うし、このさい、オレが悪者になるのも一つの手か……」

 僕が顎に手をあてて考えていると、

「でも、そういう過程で高めた結束力は崩壊しやすいらしいですよ」

 白鷹がノートパソコンの画面を僕の方に向けた。

「アホらしい。本当に親密にならなくても、俺は完璧に演技できるぞ」

 吾妻が舌打ちをこぼした。

「誰も吾妻の心配なんてしてねえよ。笹野のための対策だ。いっそのこと、文化祭までで構わないから、本当に恋人同士になってみたらどうだ?」

 僕の提案に、

「断る!」

「嫌よ!」

「そんなのだめに決まってますよ!」

 吾妻と笹野よりも、白鷹が声を大きく張り上げた。

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