第2幕 第3場 中庭にて

 翌日。数日ぶりに雨が上がっていた。春の雨は、冬の雪よりも冷たく感じるのはなぜだろうか。春らしさを取り戻しつつある気温に体を預けながら、午前中の授業を過ごした。

 昼休みになると、再び笹野がいる隣の教室を訪れた。昨日と同じように教室の中を覗いてみるが、笹野の姿はどこにも見当たらなかった。

「今日、笹野は休みか?」

 僕は教室から出てきた赤色の眼鏡をかけた男子生徒を捕まえて訊ねた。

 彼は、ああ、と何かを思い出したかのように空を見上げながら呟くと、

「笹野さんなら、終業のチャイムと同時に教室から出ていったよ。本を持ってたから、もしかしたら図書室に行ったのかも」

 と、快く教えてくれた。

 どうやら僕は笹野から徹底的に避けられているらしい。笹野はお守りのように、毎日持ち歩いていた英単語帳を部室に忘れてきたことに気づいているはずだったが、それでも僕たち演劇部から逃げることを優先して部室に取りに来ない。

「あら。あなたも笹野さんに用事があるの?」

 背後から急に声を掛けられ、風を切るように振り返る。すぐ後ろに、英語教師の小見先生が立っていた。小見先生の存在を意識した途端、季節外れの金木犀の香りに気がついた。

「あなたもってことは、小見先生も笹野に用事があるんですか?」

「ちょっとね……」

 小見先生は都合悪そうに歯切れ悪く答えた。授業終わりに立ち寄ったのか、胸元には教科書とおそらく答案用紙と思われる書類の束を抱えている。

「オレは今から図書室に行ってみます。小見先生も行きますか?」

「そうね。なるべく早く渡したいものがあるから、ご一緒させていただくわ」

 小見先生が僕の誘いに乗り、僕たちはすぐに並んで歩き出した。

 図書室は演劇部の部室もある特別教室棟に位置するため、一般教室棟からは離れている。その不便性から、長くない昼休みに図書室を利用する生徒はあまり多くない。

「確か葉山くんは演劇部だったわね。笹野さんは元気に部活をやっているかしら?」

 小見先生が木造校舎には不釣り合いなヒールの音を鳴らしながら、思い出したように訊いた。ドレスのように着こなしているグレー色のスーツはオーダーメイドなのだろう、体のラインにぴたりと合っており、仕事のできる女感を漂わせている。

「笹野は英会話部の活動のときは元気ですよ。演劇部の活動のときは冷めていますけど。でも部活に参加してくれるだけでもありがたいですね。公演のときには裏方の仕事も手伝ってくれますし。今の演劇部は人手が足りない状況ですから……」

「笹野さんらしいわね。あの子は、本当に英語が好きだったから……」

 小見先生は無愛想な笹野の顔でも想像したのか、口元に手をあてて小さく笑った。鮮やかな赤色の唇が形の良い曲線を描く。

「笹野って、帰国子女というわけではないんですよね? それなのに、どうしてあんなに英語がペラペラなんですかね」

 僕は小見先生なら何か知っているのではないかと期待し、ずっと疑問に思っていたことを訊ねた。過去に、笹野本人に問い質したことがあったが、そのとき彼女は答えてくれなかった。

「笹野さんは、アメリカに住んでいたハーフの子とお友達で、その子から英語を教えてもらったと言っていたわ」

 小見先生がさらりと答えた。

「その子は、この学校の生徒ではないんでしょうか?」

 湊高校の生徒数は全校で六百人弱だが、ハーフの生徒は誰も知らない。その友人が同い年とは限らないが、ハーフなら目立つだろうし、知っているだろう。クォーターならちらほらおり、意外な人物がらそうだったりする。

「ええ、違うわ」

 小見先生が首を横に振り、顎先に合わせて切り揃えられた髪の毛先が活発に揺れた。

「そのお友達は、高校に進学するときに、ご家族でアメリカに戻ってしまったそうなの。笹野さんが授業以外の時間も、積極的に英語の勉強を続けている理由は、いつかその子に会うために、アメリカに行きたいからなんだって私に話してくれたわ」

 小見先生は年齢が三十に届いておらず、湊高校の教師陣の中では、演劇部の顧問である熊野先生と同じく若手組に入る。校舎の中でもヒールの高い靴を履いていることを筆頭に、少々派手な服装が目につくが、田舎に甘んじず、お洒落なファッションを貫く姿勢が生徒たちに受け支持は厚い。また湊高校の卒業生ということもあり、その親近感ゆえに好感を抱いている生徒も多い。おそらく笹野もその一人で、小見先生に自身の内情を打ち明けたのだろう。

 その後は自然と来月に行われる定期試験の話題になり、話しているうちに図書室に着いた。

 僕は笹野が図書室にいることを念じながら戸を開いた。が、閲覧スペースには笹野の姿はおろか他の生徒の姿もない。カウンターの中に、図書委員の生徒が一人いるだけだった。

「どうやら、ここにはいないみたいですね」

 期待を裏切られ、僕は堪らず肩をがっくりと落とした。

「そうみたいね」

 小見先生も言葉に溜め息を混ぜながら残念そうに言った。

「小見先生は、笹野にどんな用事があったんですか?」

 ここに来るまでの道中、いくらでも訊ねる時間はあったというのに、そこまで頭が回っていなかったことに今更気が付く。

 小見先生は、三年生には英語を教えていない。そんな彼女が、笹野に一体何の用事があるというのだろうか。

 小見先生は喉を引き、一瞬躊躇う様子を見せながらも、思い直したかのように口を開いた。

「今度、英語スピーチコンテストの地区予選があるのよ。それで、その書類を彼女に渡しておこうと思って持ってきたの。今年こそは彼女に出場してもらいたいから、少し話もしようと思っていたのだけれど……」

 小見先生の「今年こそは」という言葉が胸に引っ掛かった。

「意外ですね。あの笹野なら、手放しで喜んで引き受けそうなものなのに」

「これには、少しばかり複雑な事情があるのよ」

 そう言うと小見先生は、僕から視線を逸らして窓の外を見つめた。そこから見える景色は、演劇部の部室から見えるものとほとんど変わらない。何にも邪魔されることなく、大地にずっしりと聳え立つ鳥海山の姿が見える。

「去年は断られてしまったから、今年も断られてしまうかもしれないわね」

 小見先生が何かから逃げるように目を伏せた。マスカラを重ねた気の強そうな睫毛が、アンバランスに震えている。

「よかったら、その話を詳しく聞かせていただけませんか? 複雑な事情って、一体何ですか?」

 僕の突然の頼みに、小見先生は面食らったように細く整えられた眉を持ち上げた。僕は小見先生の背中を後押しするつもりで、さらに言葉を続けた。

「もしかしたら、小見先生の力になれるかもしれません」

 小見先生は引き締めていた表情をふっと緩ませると、胸に抱えていた書類の束を机の上に載せた。

「そうね。あなたになら話してもいいかもしれないわね。長話になりそうだし、椅子に座りましょうか」

 小見先生から椅子を勧められ、僕はありがたく腰を掛けた。小見先生は、僕が椅子に座ると同時に真っ赤な唇を縦に開き、話を始めた。

「元は彼女が一年生のときに、自分からこの大会に出場したいと私に言ってきたことが始まりだった。英会話部の部員が、途中から笹野さん一人になってしまったことは、もちろんあなたも知っているわよね?」

 言いながら、小見先生が僕に一枚の紙を差し出した。そこには『全国高等学校英語スピーチコンテスト』と書かれていた。

「それは知っていますけど、笹野が一人になったのは、上級生たちが部活を引退したからではないんですか?」

 僕の問いに、小見先生が首を横に振った。

「それなら、他の部員たちが英会話部を辞めた理由って何だったんですか?」

 気が動転して声が裏返った。

 僕は今まで自分がとんでもない勘違いをしていたのかもしれないという可能性に、このときになって初めて気がついた。

「ごめんなさいね。顧問失格かもしれないけど、私も詳しい話は何も知らないの」

 小見先生が言葉どおり、申し訳なさそうに眉を寄せた。

「辞めていった子たちも、とくに何か文句を言っていたわけではなくて、表向きの理由としては勉強に専念したいという内容だったの。でも一人残された笹野さんの様子を見ると、本当はそうではなかったんだろうなって……。今はこんなおばさんだけど、私にも女子高生だった頃があったの。女子高生には女子高生の世界があることはわかるわ。きっと笹野さんと他の子たちの間で、一言では説明できないような何かがあったんだと思うの。そうでもなければ、一度に四人も退部するなんてことはないだろうし……」

 小見先生が肩を竦め、自身の両腕を抱いた。彼女が動くたびに金木犀が花を揺らすように香った。

「そうなんですね……」

 相槌を打つ声が掠れた。それ以上、深くは踏み込めないと判断して大人しく黙る。

 演劇部は、ある事件がきっかけで、当時七人いた二年生のうち六人が、地区大会後に引退した三年生と共に退部した。唯一残った二年生が、前年度に部長を務めた神室さんだ。こんな部は自分たちばかりだと思い込んでいたこともあり、まさか英会話部でも似たようなことが起きていたとは今まで想像したことがなかった。

 小見先生は、いくら若く見えても、若者の理解者とばかりに生徒たちから支持をされていようとも教師は教師だ。小見先生の派手な唇や香りは、自身が学生にならないようにするためのお守りみたいなものなのではないかと思った。

「話を本題に戻すわね」

 小見先生が、右側の髪の毛を耳に掛けた。柔らかそうな耳たぶが露わになり、彼女がピアスを付けていることを初めて知った。高級そうな一粒の宝石が、人工的な光を弾いている。僕が思いがけず気を逸らしてしまったことに気づかないまま、小見先生は話を続けた。

「それまでの英会話部は、平日の放課後に少し活動するくらいだったから、私も顧問とは名ばかりで、積極的に関わるようなことはあまりなかったの。だけど彼女が大会への出場を決めてから、自分の書いた英文を私に添削するよう何度もお願いに来るようになり、それでようやく私も、顧問として全面的に協力するようになったの」

 小見先生はそこで一度、息を吐いた。まるで煙草の煙でも吐き出すかのように、口先を窄め、長い、長い息を吐いた。当時のことを思い出しているのか、視線は下がり、紫色のパウダーが塗られた目蓋が露わになっていた。

「彼女は本当に一生懸命だった。少しでも納得のいかない部分があれば、他に何かいい表現ができないかを自分で調べては何度も原稿を書き直していたわ。彼女は努力家なだけでなく実力もあったから、もし大会に出場していたら、一年生ながらも入賞できていたと思うの。もちろん自分の生徒だからという贔屓目はなしよ」

 僕には小見先生の気持ちが十分理解できた。笹野の英語に対するストイックな姿勢は、部活での様子を思い返せばありありと想像できる。

 週に一度の英会話部の活動は、全て笹野に任せている。彼女は毎週、英会話のシチュエーションのテーマを変えた自作のプリントを作成してくる。完成度の高さから、てっきり参考書から引用しているものだと思い込んでいたが、全て彼女が自作したものだと話を聞き、声を上げて驚いた。

 それに笹野は、英会話のレベルも高い。ネイティブと変わらない綺麗な発音で流暢に話す。

 小見先生は意を決したように、真っ赤な口元を引き締めてから話を再開した。

「地方大会の予選は秋田県で行われ、笹野さんは親御さんの車で会場に向かうことになっていたの。私は秋田に親戚の家があるから、その家に前泊させてもらい、当日はそこから会場に向かったわ。だから詳しいことはわからないのだけど、会場に向かう道路で何かトラブルがあったらしく、笹野さんが会場に到着したのは開会式が終わった後で、彼女が発表する順番の少し前だった。彼女は遅刻したことでパニックになっていたみたいで、ステージに檀上した途端に過呼吸を起こしてしまったの」

 小見先生の言葉に、徐々に溜め息が混じり始めた。

「過呼吸って知っているかしら? 極度の緊張やストレスが原因で症状が起こることがあるらしいわ。おそらく彼女は一人で頑張りすぎていたのね。私にも弱音を吐いたことがなかったもの。そんなことがあって、彼女はスピーチをすることができず、出場辞退という形になった。そんな彼女だからこそ、私はもう一度挑戦して欲しいと思っているの」

 そこで、小見先生の話は終わった。

 演劇部と英会話部が合併したのは、僕たちが一年生の秋だった。秋といっても、ほとんど冬に近かったが、暦上では秋だった。

 当時は自分たちのことで精一杯で、合併相手である英会話部のことを気にしたことはなかった。ましてや笹野が、部員が自分一人になってでも英会話部にこだわってきた理由を訊ねたことさえない。

 小見先生の語る過去が事実ならば、普通は部活を辞めてしまうのではないだろうか。部員は自分一人しかいないのだ。誰からも引き止められなければ責められることもない立場である。

 それでも笹野は、僕たちに打ち明けない過去を抱えながらも英会話部を続ける選択をした。彼女はやりたくもなかったであろう演劇部の活動をしてまでも、英会話に関わる道を選んだのだ。

「話してくださってありがとうございました。その書類を、オレに預からせていただけませんか?」

 僕は机の上の書類を指差した。

「どうするつもりなの?」

 小見先生が目を見開いた。

「オレが笹野を説得します」

 僕には考えがあった。その考えどおりに物事を進めることができたなら、笹野の問題を解決できる自信があった。

 僕は演劇部の部長で、脚本家で演出家だ。僕の頭の中で筋書きはできていた。

「わかったわ。私が話したところで、去年と同じ結果になりそうだし、あなたにお任せするわ。もし笹野さんがその気になったら、いつでも私のところに来てと伝えてくれるかしら」

 小見先生が目尻を細ませて微笑んだ。その笑みには僕への期待が表れていた。

「あの子をよろしくね」

「はい」

 僕が返事をすると、小見先生は先に図書室から出ていった。

 僕はすぐに椅子から立ち上がる気にはならず、小見先生から受け取った書類に目を通した。以前舞鶴さんが演劇部に大会があることに驚いていたが、それと同じだ。英会話部にも大会があったとは知らなかった。そして笹野は過去に一度、その舞台に立つことを目指していたとは知らなかった。

「葉山くん……葉山くん!」

 これからのことを考えていた僕は、自分の名前が呼ばれていることにすぐに気づかなかった。小さな手に肩を揺さぶられ、驚いて顔を持ち上げた。

「あ、えっと……」

 いつの間にか、息が掛かる距離に、先ほどまでカウンター先に腰を掛けていた女子が立っていた。見かけたことのある顔だったが、咄嗟に名前が出てこない。明るめの髪色が、図書室特有の照明の明るさでさらに鮮やかに見える。

「隣のクラスの福田だよ。一年生のときに同じクラスだったのに、忘れるなんてひどいなあ……」

 福田と名乗った女子が、短く切り揃えた前髪の隙間から覗かせた眉を下げながら嘆いた。

「ああ、福田さんね……。オレに何か用事?」

 僕は書類を四つ折りにすると、スラックスのポケットに押し込んだ。

「さっき小見先生と一緒に、梅子を探していたよね?」

「ああ、探してたけど……」

 話の先が見えてこない僕は、福田さんのことを訝しく思いながら答えた。

「多分だけど、梅子は中庭にいると思う。晴れてる日は、中庭でお弁当を食べているみたいなの。さっきは小見先生が隣にいたから言えなくて……」

「小見先生がいたら、どうして都合が悪いんだ?」

 福田さんの考えていることがてんでわからない僕は、彼女への警戒を解かないまま訊ねた。

「私、元英会話部の一人だから……」

 福田さんは歯切れ悪く答えながら俯いた。

「本当に私のことを何も覚えていないんだね。隣の席になったこともあるんだけどな。いや、同じクラスの仲くらいでは、さすがに部活までは知らないかあ……」

 福田さんがぼそぼそと続けた。

「それで笹野は、中庭で何をしているんだ?」

「だから、お弁当を食べてるの。前に何度か見かけたことがあるんだ」

「どうしてわざわざそんなところで食べてるんだよ……」

 僕の思わず溢れた独り言に、

「教室で一人でお弁当を食べるのは気まずいからじゃないの? もしくは、昼休みくらいは静かな場所で過ごしたいか……」

 福田さんが今度はごにょごにょと誤魔化すように答えた。

「なあ、一つ訊いてもいいか? どうして福田さんは英会話部を辞めたんだ?」

 福田さんがわざわざ自分から僕に話しかけてきたということは、少なからず笹野を気にかけているはずだ。無視できなかった「なにか」があるはずだ。

「どうしてって……梅子からなにも聞いてないの?」

 福田さんが質問で返してきた。どうやら小見先生と僕の会話の内容までは聞こえていなかったらしい。

「笹野からはなにも聞いてない。小見先生からは、少しだけ聞いたけど……」

 僕の返事を聞いて、福田さんは長々と溜息を吐くと、

「梅子らしいなあ……」

 言葉に息をたっぷり含ませながら言った。

「てっきり私たちが悪者にされているのかと思ってたのに」

 福田さんが自虐気味に笑った。

「私はね、周りに流されて英会話部を辞めたの。そもそも英会話部に入部した理由も同じ」

 福田さんが僕から少し離れた、斜め前の席に腰を掛けた。

「菖蒲って、覚えてる?」

 机に肘をついた福田さんが、手のひらで支えた顔を傾げた。

 僕は一年生のときに同じクラスだった女子の顔を何人か思い浮かべてみたが、そのなかに「菖蒲」さんはいない。福田さんや菖蒲さんに限らず、女子とはあまり交流がなく、顔と名前が一致していた子は数少ない。

「名前は覚えてるんだけど、顔までは思い出せないな」

 僕は素直に首を横に振った。珍しい苗字のため、そんな女子生徒がいたことだけはうっすらと記憶がある。

「葉山くんって、本当に薄情だなあ。菖蒲も一年生のときに同じクラスだったのに。それに菖蒲は私と違って、クラスではそこそこ目立つ方だったと思うんだけどなあ……」

 福田さんは納得がいかないとばかりに眉を寄せた。

「私と菖蒲は中学からの知り合いなんだ。とはいっても、三年間同じクラスではあったんだけど、当時は部活が違ったし、私も菖蒲も同じ小学校だった友達と仲良くしていたから、たまに話すことがあるくらいの仲で、いつも一緒にいるようになったのは高校生になってからなんだ。一年一組に同じ中学だった女子が菖蒲しかいなくて、それでなんとなく一緒につるむようになったんだ」

 だから菖蒲との親友歴はまだ三年目なんだよね、と福田さんが肩を竦めた。

「英会話部にはね、菖蒲が入部するっていうから一緒に入ったんだ。他にやりたいこともなかったから、その場の流れでなんとなくね。それで私たちは、梅子とは英会話部で知り合ったの。私は英語のできる梅子のことを尊敬していたし、仲良くなりたいと思ってた」

 福田さんは一度、そこで言葉を区切った。ふっと空気が変わる。僕はその一瞬を見逃さなかった。

「だけど菖蒲は違った。菖蒲は、梅子のことが気に入らなかった。いや、気に入らなくなっちゃったんだ。始めの二ヶ月くらいは、部活が終わってから一緒に下校したり、休みの日にイオンに行ったりとかしてたんだ。よく三人でゲームセンターでプリクラを撮ったり、ファミレスのドリンクバーだけで何時間もお喋りしたりしてた。あのときの私と菖蒲は、高校でできた新しい友達に浮足立ってた気がする。それに梅子って、ほら、あの見た目でしょう? あんな綺麗な子と友達になれたことが嬉しかったし自慢に感じたりもしてた」

 福田さんが目を伏せる。

「でも、それが突然変わった。菖蒲が格好いいって騒いでいたクラスの男子が、梅子のことを可愛いって言っていたのが面白くなかったみたい。それから菖蒲は、梅子とは必要以上に関わろうとしなくなった」

 福田さんは困ったと言わんばかりに眉を下げた。整えられている形の良い眉が窮屈そうに八の字を描く。

「葉山くんはさ、それくらいのことでって思うかもしれないけれど、私は菖蒲の気持ちが痛いほどよくわかる。もしそれを言った男子が私の好きな人だったら、私の梅子に対する気持ちも違っていたと思う。私たちにとって、好きな男子の言葉には、その子の世界を変えるくらいの力がある」

 福田さんの声が強くなる。無意識なのだろうが、その声には他人の感情に訴える響きを持っていた。

 福田さんがスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。それからスマートフォンに取り付けているストラップのウサギのマスコットを大事そうに指先で撫でた。

「菖蒲が梅子と距離を取り始めたのは確かだけど、だからといって梅子を無視したり物を盗んだりするような幼稚な真似はしなかった。部活中は、目を合わせて会話もしてた。だから私は、最後まで菖蒲の味方だった」

 福田さんの口から語られるエピソードだけを繋ぎ合わせて、物語の一幕を完成させる。福田さんや菖蒲さんの役が浮き彫りになり、笹野の人物像がさらにくっきりと浮かび上がる。ただここで気をつけなければならないのは、福田さんの話を鵜呑みにしてはいけないということ。福田さんが語るストーリーのなかに、彼女の主観がどれだけ含まれているのかを見極める必要がある。

「菖蒲は、ただ梅子の近くにいることをやめただけ。先輩たちが引退して梅子が部長になって、梅子が部の活動日を増やしたいと言い出したことが、私たちの退部の決定打になった」

 福田さんが唇に歯を立てた。

「菖蒲は限界だったの。梅子と一緒にいる時間を増やすことができなかった。例え一日、例え数時間だったとしても。でも梅子はそのことを察せられず、活動日を増やしたいと頑なだった。梅子はもちろん、菖蒲も悪くない。だけど梅子は、そうは思ってない。梅子は私たちが英会話部を辞めるのは、自分になにか至らないところがあったからだと思って自分を責めていたし菖蒲のことも責めてるの」

 福田さんの口の動きが止まった。福田さんの長い話の最中も、図書室の扉を開ける者は誰もいなかった。

 僕は福田さんに早く話の続きを聞かせるよう、促す真似はしなかった。まだ昼食を食べていないこともあり、昼休みの残り時間が気にならないと言えば嘘になるが、そのときが来るのを静かに待った。

 福田さんは両手でウサギのマスコットを触りながら話を再開した。

「そもそも私たちと梅子との間には決定的な違いがあった。それは英語に対する情熱。その埋まらない温度差は、仮にあのとき梅子との関係が上手くいってたとしても、遅かれ早かれいつか私たちの関係が綻ぶ原因になったと思う。だって私も菖蒲も、友達の言葉一つで、男の言葉一つで部活を辞められるくらいに部活の優先度が低かった。でも梅子は違う。現に、たった一人になった今でも英会話部を続けてる」

 果たして福田さんの言うとおり、笹野が英会話部に固執している要因は、英会話に対する情熱だけなのだろうか。それを知りたいのではなく、暴きたいと思っている自分がいることに気がつく。

「菖蒲に悪いところがあったとしたら、辞めるときに私だけじゃなくて、他の二人の同級生も誘ったこと。その二人も梅子の熱意にはついていけないと愚痴をこぼしていたから、あくまで自分の意志で辞めたんだけど、それが結果的に梅子を孤独させ、さらに英会話部を廃部にさせたから……」

 福田さんの手は止まらない。まるで子どもをあやすように、うさぎの頭を撫でている。

「葉山くん。梅子を裏切った私がこんなことを言うのは間違ってるかもしれないけど、もう後悔したくないから伝えておくね」

 福田さんが顎を持ち上げ、僕の目を見つめた。その目は澄み切っていて、どきりとするくらいに真っ直ぐ射ってきた。

「梅子は全然強くない。昼休みに教室で一人でお弁当を食べられないくらいに弱いの。美人でスタイルがいいくせに弱いの。弱いくせに強がるの。そして、それは菖蒲も同じなの。菖蒲も弱いの。梅子の傍にいられないくらいに弱いの。私は菖蒲の味方になるから、葉山くんは梅子の味方になってあげて」

 一頻り話続けた福田さんは、肩の荷が下りたようにようやく満足気に微笑みを浮かべた。

 笹野が生きてきた世界は、僕が考えるよりもずっと複雑で、ずっと生きづらく、周りからなかなか理解してもらえなかったのかもしれない。

 正直、英会話部が廃部に陥った原因が一人の男の発言であったことをくだらないと思っている。だけど福田さんの言うとおり、菖蒲にとってはくだらないことではなかったのだろう。少なくともこれから「ロミオとジュリエット」の幕を上げようとしている人間が、簡単に否定していい感情ではないはずだ。

 恋が人を変える。恋が運命を変える。恋が未来を変える。それがいい方向に転じることがあれば、悪い方向に転じることもあるだろう。

「話してくれてありがとうな」

 僕がお礼を言いながら椅子から立ち上がると、福田さんはカウンターの中へと戻っていった。

 僕はスラックスのポケットから書類を取り出すと、もう一度上から目を通し始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る