第2幕 第2場 中庭にて

 笹野が部室を飛び出した翌週の月曜日。僕は昼休みになるや否や、笹野がいる隣の教室を訪れた。黒板がある前方の入口から顔を突き出して中の様子を窺うと、窓際後方の席に笹野の姿を見つけた。笹野は丁度机の上に弁当箱を広げているところだった。

「笹野、ちょっといいか?」

 僕が声を掛けると、笹野は手に持っていた箸を弁当包みの上に置き、体ごと顔を窓に向けた。

「昨日は雨に降られなかったか? オレたちは雨に打たれながら自転車で帰ったんだけどさ、途中でゲリラ豪雨にあって大変だったぜ。学ランがぐしょぐしょになって、母さんにめちゃくちゃ怒られたわ」

 風邪を引くかと思ったぜ、と後頭部に爪を立ててガシガシと髪を掻き上げる。ちらりと笹野の顔色を伺うが、彼女は唇をきつく結んで無言を貫いている。

 弱気になった視線がさ迷い、自然と机の上に向いた。笹野の弁当箱はまるでおままごとに使う玩具のように小さい。上品に詰められている白米は、僕なら三口で食べ終えてしまうほどに量が少ない。おかずが詰められている箱の方は、味が想像できない程に色取り取りだ。

「笹野の弁当、洒落たもんばかり入っててうまそうだな。オレんちの母さんなんて、前日の夕食で余った芋煮を弁当箱に突っ込んだりするんだぜ。汁が漏れて大惨事になってさ」

 話題を変えてみるが、やはり笹野は僕の話に相槌も打たないまま仏頂面を保っている。

 今度は窓の外を見る。先週の金曜日から天候の悪い日が続いている。今も糸のように細い雨が降っており、窓ガラスに映る笹野の細い髪の毛と溶け合っていて見分けがつかない。

「そういや、もうさくらんぼが出回る季節だな」

 僕はこれまたおもちゃのような、小さな四角いケースに詰められているさくらんぼを見ながら言った。

「いきなり人の教室に押し掛けてくるなんて一体何を考えているの? 信じられないわ」

 ようやく口を開いた笹野は、窓ガラスを見つめたまま言葉を吐き捨てた。強気な言葉とは裏腹に、窓ガラスに映る彼女の表情は戸惑いを隠し切れておらず、不安げに揺れている。

「笹野のことだから、事前に連絡したらどこかに逃げ出すだろうと思ってな」

「そこまで私のことを理解しているのに、よく会いに来る気になったわね。お察しのとおり、私はあなたと話すつもりは一切ないの。だから今すぐ自分の教室に帰って」

 笹野は、僕が途中で口を挟むことを許さないとばかりに早口で言い立てた。

 返答に困り、一息入れる間に、教室の中をぐるりと見渡した。笹野は僕と同じ文系クラスで、クラスの男子と女子の割合は半々くらいだ。僕の教室の昼休みの風景とあまり変わらない。所々で机を寄せ合い、四、五人が集まって食べている。後方の入口付近で固まっている女子グループは会話が盛り上がっているようで、奇声に似た笑い声が上がっている。そのせいか、今は男子よりも女子の存在感の方が強く感じるくらいであった。

「笹野は、いつも一人で弁当を食べているのか?」

 男ならまだしも、女が一人で弁当を食べているのは珍しい。悪意のある言い方をすれば浮いている。

「もしそうだったとして、だったら何だって言うの? 私が誰とお弁当を食べようが、私の勝手でしょう」

 笹野は箸を乱暴に掴むと、鳥がくちばしで獲物を捕らえるように卵焼きを口の中に放り込んだ。続いて唐揚げに手が伸びる。どうやら僕の存在を無視することに決めたようだ。

「ねえ、笹野さん。その人、もしかして笹野さんの彼氏?」

 笹野の前の席に座っている女子が後ろを振り返り、話し掛けてきた。

「違うわよ!」

 笹野は急いで唐揚げを呑み込むと、荒げた声で叫んだ。

 笹野のあまりの剣幕に、彼女はトレードマークのポニーテールを振り子のように揺らして驚いている。僕たちの会話が耳に届いたのであろう、周りで弁当を食べている人たちの好奇の眼差しが向けられていた。

「本当に違うの?」

 ポニーテールの彼女が、今度は僕の方に体を寄せて小声で訊ねてきた。

「違います!」

 急に漂った花の香りにどぎまぎしながら慌てて答えた。

「笹野さん、あまり教室でお弁当を食べないから、他の場所で彼氏と一緒に食べているのかと思ってたんだけどなあ……」

 彼女は憶測が外れて興味がそがれたのか、それともこれ以上、笹野には関わらない方がよいと判断したのか、正面を向き直った。それから机を向かい合わせている女子たちとの会話に混ざり始める。

「とにかく! 早く教室から出ていって!」

 僕は笹野の威勢にたじろぎ、逃げるように教室を後にした。僕のみっともない背中には、興味本位の視線が矢のようにいくつも突き刺さった。



「それで、笹野さんとの和解に失敗したわけかあ……」

 放課後になり、僕から話の一部始終を聞いた千歳が残念そうに声を漏らした。部室には、まだ千歳と白鷹しか来ていなかった。

「笹野はクラスに誰も友達がいなかったんだな。一人で弁当を食べてたぞ」

 僕は笹野に渡しそびれた英単語帳のページを意味もなく捲りながら言った。その参考書は大学受験用ではなく、世界共通試験として有名な試験用だ。いくつかの単語に蛍光マーカーが引いてある。本の角はどこも潰れて丸みを帯び、何度も繰り返し読んでいることが一目でわかるほど使い込まれていた。

「吾妻と千歳は、いつも一緒に昼飯を食ってるんだよな?」

 僕は知っているにもかかわらず、会話の引き金にするためにあえて訊ねた。

「うん。僕たちは大体いつも一緒だね。ケイタは、北沢くんたちと食べてるの?」

 北沢は演劇部の公演で、ときには照明、ときには音響の手伝いをしてくれるため、他クラスである千歳とも顔見知りだ。

「まあ、そうだな。それにしても千歳、一日中吾妻と一緒にいて、よく胃が荒れないな。見かけによらず、胃が強いのか……」

 思わず千歳の腹の辺りを見てしまう。「胃は普通だよ」と千歳が苦笑いを浮かべた。

「いくら部活が一緒だからといって、無理して一緒にいる必要はないと思うけどな」

 休み時間に千歳と廊下ですれ違うとき、彼の隣にはいつも吾妻の姿がある。移動教室のときも一緒に行動しているのだろう。

「無理なんかしてないよ」

 千歳が顔の前で手を振る。

「オレと吾妻は、一緒にいられなかったけどな」

 ふっと息を吐き出す。僕と吾妻は一年生のときに同じクラスだったが、教室の中で会話をした記憶はほとんどない。それぞれ他の友人と行動していた。

「クラスメイトに同じ部活の人がいたら、自然と一緒に行動する方が多数派だと思うよ。部活って趣味みたいなものでしょう。共通の話題が常にあるわけだし、興味の対象が同じってことは気が合うことの方が多いと思うけどなあ……」

 千歳が不思議そうに目を瞬かせた。

「そう考えると、英会話部は笹野一人しかいなかったわけだから、笹野には同じクラスどころか同じ学年に同じ趣味を持つヤツがいなかったってことだもんな。そりゃあ、孤立しても仕方ないか……」

 せめて演劇部に、笹野の他に女子がいれば、もしかしたら違っていたのかもしれない。

 僕と千歳の会話が途切れると、

「先輩方は、笹野先輩がいつも一人でいることを知らなかったんですね」

 てっきりオンラインゲームに夢中になっているものだと思っていた白鷹が、急に話に食いついてきた。だが視線はノートパソコンの画面に釘付けで、キーボードを打つ手は止まっていない。

「どうして後輩の白鷹が、笹野のクラスでの様子を知っているって言うんだ?」

白鷹の言い草が面白くなかった僕は、つい意地悪に言葉を返した。

「恋愛に、クラスも学年も関係ないですよ」

僕の嫌味を物ともせず、白鷹は表情一つ変えずにさらりと答えた。キーボードの音が鳴り止むこともない。

「恋愛って……」

 白鷹の反撃に、情けないが僕の方が動揺して言葉が尻切れになった。

「葉山先輩は、自分の笹野先輩に対する気持ちを冗談だと思ってるんですか?」

 白鷹がようやくノートパソコンから顔を上げ、痛いほど真っ直ぐな視線を僕に向ける。レンズの向こう側にある曇りのない目は、照明の弱々しい白い光を綺麗に弾き返していた。

「そんな風には思ってないが……」

 その目の強さに、僕はますますたじろいだ。

「自分、これでも本気なんですよ」

 白鷹が顎を持ち上げ、宙を見上げた。まるで何かを思い出すための仕草のように見えた。

 笹野は白鷹からのストレートで熱烈なアピールを真に受けず上手く交わしている。そのせいもあり、正直なところ白鷹の言葉は軽薄に聞こえ、笹野へのアプローチ自体が冗談に見えることがある。笹野が白鷹を全く相手にしていないだけといえばそうなのかもしれないが。

「笹野さん、やっぱり友達がいなかったんだね」

 白鷹の正面に座っている千歳がぽつりと呟いた。

「千歳も知っていたのか?」

 思わず声が裏返った。白鷹から千歳に視線を走らせる。。

「さすがに今のクラスでの様子までは知らないけど、僕は一年生のときに笹野さんと同じクラスだったからね。そのときの話だけど、笹野さんが他の女子と一緒にいるところをあまり見たことがなかったんだ。いつも一人で行動していたよ」

 そう言うと千歳は緊張を解くように、ふうと短い息を吐き出した。

「何も知らなかったのは、オレだけか……」

 自分の額に手を当てる。部室にいる笹野は、自分の意見を遠慮なく口に出す。そのことでたまに吾妻と派手に衝突するが引くところはきちんと引く。だから勝手に、笹野は誰に対しても自己表現のできる、周りに溶け込める性格なのだと思い込んでいた。

「他のクラスの事情は自分から知ろうとしない限り、わかるようなものではないから別に気にしなくていいと思うよ。それに笹野さんの場合、気づいて欲しいっていうサインを出していたわけでもないんだから……」

 千歳が僕を励ました。

「そうは言っても、笹野があれほど怒った理由の一つに、少なからずクラスでの悩みが関わっていたのかもしれないって思ったんだ。教室の中でも、必要以上に目立ちたくない様子だったし……」

「笹野さんはあの容姿だし、何をしなくても目立つからね」

 笹野は身内の僕が言うのもなんだが、贔屓目なしでも校内で一番の美少女だ。パーツの一つ一つが綺麗に並んだ小さな顔に、すらりと伸びた細い手足。雪のように白い肌が、大衆の中で一人だけピンライトが当たっているかのように周囲の視線を奪う。

 笹野は、本当に僕たちにSOSのサインを出してはいなかっただろうか。今までの彼女の態度が、もしかしたら彼女なりの不器用なサインだったのではないだろうか。

 急に部室の戸が開いた。僕たち三人は一斉に戸を見つめた。

「なんだ。吾妻か……」

 淡い期待を裏切られ、僕は反射的に持ち上げた肩をがっくりと落とした。

「ずいぶんと失礼な物言いだな。歓迎されてないなら、家に帰って勉強でもするか」

 吾妻が靴の踵でくるりと体を回転させ、今来た道を引き返そうとする。

「待てよ、ロミオ様! すぐに怒るなって。笹野だと思ったんだよ」

 僕は慌てて吾妻を引き止めた。

「そう言えば、今日の昼休みに笹野を説得しにいくとか言ってたな。この様子だと、失敗したみたいだが……」

 靴の踵で体を回した吾妻が、笹野の机をちらりと見ながら言った。それから中途半端に背負っていたリュックを雑に床に下ろした。

「それよりも、さっきのお前たち、ミーアキャットみたいだったぞ」

 吾妻がにんまりと口元を緩めた。

「ミーアキャットって、猫のこと?」

 千歳が顔を傾げた。

「猫ではなくてマングースですね。みんな同じ方向を見ることで有名な動物なんですよ。動画で何度か見たことがあります」

 吾妻の代わりに白鷹が答えた。

「へえ。どうして同じ方向を見るの?」

 千歳からの質問に、言葉が詰まった白鷹はキーボードを打ち込むと、

「腹を太陽に向けるから、らしいですよ」

 インターネットで検索した答えをそのまま口に出した。それからノートパソコンの画面を千歳に向け、どこかの動物園で撮影されたミーアキャットの動画を再生した。

「本当だ。みんな同じ方向を見てる! 可愛い!」

 千歳が思わずといった調子で拍手をした。

「なっ! そっくりだろう」

 吾妻がノートパソコンの画面を指差し、彼にしては珍しくはしゃいだ声を出した。

「えー。似てたかな? それはわからないよー」

 吾妻と千歳がミーアキャット話で盛り上がり始めたところで、

「ミーアキャットなんてどうでもいいんだろっ! それよりも今は笹野だ! 笹野!」

 僕は机を手のひらでバン、バンと叩いた。音に驚いたのか、肩を震わせた吾妻と千歳が息を揃えて僕を見つめる。

「ミーアキャット……」

 白鷹がぼそりと呟いたが、話がまたぶり返すのを恐れ、慌てて口を開いた。

「笹野のヤツ、相当怒ってるみたいで、ろくに話も聞いてもらえなかった」

 僕は素直に白状した。

「次の英会話部の活動日に期待した方がいいんじゃないか?」

 吾妻が軽い調子で言った。

「この状況で、笹野が部活に出てくると思うか?」

「さあな。だけど笹野が水曜日に部活を休んだことは今まで一度もないだろう」

 吾妻が短い前髪を掻きあげながら言った。

「状況が状況だからね。僕たちと顔を合わせたくなかったら、さすがに来ないと思うな」

 千歳が言った。

 すると今度は、舞鶴さんが物音を立てずに部室に入ってきた。僕たちが発しているどんよりとした空気から、笹野の説得に失敗したことを察したようで、挨拶をするだけで何も訊ねてこなかった。

「やっぱり笹野にジュリエット役を任せるのは無理があるんだ。本人もあんなに嫌がっていることだし、ここは今まで通り、千歳にやらせようぜ。そしたら全てが丸く収まるだろう」

 吾妻が面倒くさそうに言った。よほど笹野と共演することが嫌なのだろう。吾妻の隣に座っている千歳は、彼に賛成するでもなく、ただ黙って俯いている。

「自分は、千歳先輩のジュリエットも捨てがたいですが、笹野先輩のジュリエット姿が見たいです!」

白鷹がきっぱりと言い切った。重たい沈黙が破られ、僕と吾妻は自然と千歳を見つめた。僕と吾妻の視線に挟まれた千歳は、困ったように眉を八の字にし、それとは対照的に肩を持ち上げた。

「僕は……みんなの意見を尊重するよ」

 彼の煮え切らない返答に、吾妻が両手で頭を抱えた。ここで千歳が「笹野の代わりに自分がジュリエットを演じる」と言える性格だったら、おそらく吾妻は何が何でも僕を説得しにかかっていたことだろう。千歳は何かを決めるとき、受け身の態度を取ることが多い。

「それでケータは、本人が嫌だって言っていることをどうやってやらせるつもりなんだ?」

 吾妻が僕に視線をぶつけてきた。どうやら千歳を説得することは早々に諦め、僕と真っ向勝負をする作戦に切り替えたようだ。

「どうやってって、笹野と話し合って説得するしかないだろう」

 僕は強い物言いで答えた。

「俺たちには時間がないことを、本当にわかっているのか? それに、あの笹野が簡単に説得に応じるとは思えない」

 吾妻は僕に対抗するように口調を強くした。彼が舞台に立ち慣れていることを感じさせる、会場の端から端まではっきりと言葉が届くような声の通り方だった。

「話し合えば何とかなる」

「そもそもその話し合いができない状況なのが、一番の問題なんだろう。それに何とかってどうするつもりなんだ? 具体的な施策がないのは、何も考えていないことと同じだぞ!」

 吾妻の口調や言葉の節々から、彼がだんだん苛立ってきているのがひしひしと伝わってくる。吾妻が非協力的なのはいつものことだったが、今日はその態度が妙に癪に障る。僕がさらに言葉を言い返そうと口を開きかけたとき、

「なんだか懐かしいね」

 僕と吾妻の口論に口を挟んだ千歳が、突然声を出して笑い出した。

「笹野さんが演劇部に転部してきたばかりの頃を思い出すよ。僕たち、あのときも笹野さんの扱いにずいぶんと悩まされたよね」

 喧嘩を中断させられた僕と吾妻は、驚きをお互いに押し付けあうように、自然と顔を見合わせた。千歳は、僕と吾妻が喧嘩をしていても傍観していることが多く、間に入ってくるのは珍しい。口を出してくるのは笹野の役割だ。

「確かにそうだったな……」

 吾妻は中途半端に吐き出した怒りの残りを、どこに片付けたらよいのか戸惑っている様子を見せつつも、僕に向かって乗り出していた体を後ろに引いた。僕もいつの間にか浮かせていた体を椅子に戻した。

「あの頃は、こんな風に笹野さんと打ち解け合う日がくるとは思わなかったなあ……」

 千歳の言葉を引き取るように、笹野と言えば、と吾妻が話を切り出した。

「最初の頃は、演劇部の活動には参加しないで見学だけするって言い張って、カムさんをかなり困らせていたよな」

吾妻は懐かしんでいるのか、細めた目を窓の外に向けた。吾妻は都合よく忘れているようだが、神室さんを困らせていたのはなにも笹野だけではない。神室さんがいたときは、僕自身もずいぶんと好き勝手なことをしたものだ。たった一人の先輩だった神室さんに、僕たちはみんな甘えていた。そのことに気がついたのは、神室さんが演劇部を引退し、自分が部長に就任してからだったが。

 昨年度部長だった神室和哉とは卒業式を最後に、連絡を取っていない。晴れて第一志望の大学に合格した神室さんはこの春に上京した。今頃キャンパスライフを満喫していることだろう。絵に描いた田舎者のように金髪にしていなければいいなと思いながら、僕も吾妻につられて外を眺めた。止まない雨はないとは言うが、じとじとと降り続けるこの雨は、止む気配が感じられない。

「覚えているか? 笹野があんなに尖った性格だったとは夢にも思わず、みんなで笹野を演劇部のマドンナにしようぜっていう計画を立てていたんだよな」

 思い出を回想しながら、吾妻と千歳の二人に確かめる。興奮で熱を持っていた頬も少しずつ落ち着き始めていた。

「神室さん、張り切って当て書きしたのに、かわいそうだったね。あの脚本、結局お蔵入りになっちゃったし」

 結構面白かったんだけどね、と千歳が残念そうに眉を下げた。

笹野が演劇部に転部してきたのは、僕たちが一年生の秋だった。その頃から笹野は、一年生ながらも校内で一番の美人だと噂され、湊高校に通う生徒の誰もが彼女の存在を認知していた。とくに男子の間ではときおり話題に名前が上がり、僕の友人の中にも笹野に告白をしたが振られたというヤツが何人もいた。僕の笹野に対する第一印象も「美人」だった。今でこそ見慣れてしまったが、

「ヤスは笹野と同じクラスで笹野の性格を知っていただろうに、そのことを黙っていたんだから人が悪いよな」

 過ぎたことにも関わらず、吾妻が文句を垂れた。

「クラスメイトといっても全く接点がなかったから、笹野さんの性格までは知らなかったんだ。教室で喋っているところをあまり見かけなかったし、僕だって笹野さんのことは大人しい子だなって思っていたくらいだよ!」

 急に火の粉が降りかかった千歳が、顔の前で手を振りながら慌てて弁解した。

「それに僕、一年生のときは引っ越してきたばかりだったから、クラスメイトどころか学校に一人も知り合いがいなかった状況だったでしょう。自分のことで精一杯で、周りのことまで気にする余裕なんてなかったんだよ」

 千歳が嘆いた。

「そもそも合併相手に、英会話部を選ばざるおえない状況になったのは吾妻のせいだろう」

 僕はここぞとばかりに吾妻を見つめた。吾妻は居心地悪そうに唇を噛んでいる。

「まさか演劇部の中に、他に候補だった茶道同好会とクッキング同好会を出禁になっているヤツがいるとはな……」

「あれは誤解だ! 俺は二股をかけたつもりはないからな! だいたい二人とも菓子をくれると言うから貰っていただけで、どっちにもいい顔をしたつもりはないんだぞ!」

 吾妻が珍しく顔を赤らめながら叫んだ。

「だけど当人たちは掴み合いの喧嘩になっていたじゃないか。髪の毛を引っ張り合うわ、馬乗りになるわで、プロレスよりも迫力があったぞ」

「あれは本当にすごかったね。男の喧嘩よりもよっぽど野蛮だったよ」

 僕の後に、千歳が続いた。吾妻はだんまりを決め込んでいる。

「でも姉妹の喧嘩って、あんなものらしいですよ」

 僕は兄弟に女がおらず、千歳には妹がいることにはいるが、まだ幼稚園児なうえに歳が離れていることもあり、妹と喧嘩をすることはないだろう。

「モテる男は大変だな」

 僕はここぞとばかりに、たっぷりと皮肉を込めて口元を緩めた。少しだけだが気分が清々する。僕と吾妻の間に挟まれている千歳は、肩を小刻みに震わせながらも何とか笑い声を押し殺そうと堪えている。

「昔の話はよせ。せっかく忘れていたんだから今さら掘り返すなよ。それに、俺たちの仲間になったのが笹野でよかっただろう。おかげで、次の年にタカが入部してきたんだから」

 吾妻が自分から話題を反らすために白鷹を指差した。

「そういえば笹野さんが演劇部じゃなかったら、今ここにコウジはいなかったのかあ……」

千歳がしみじみといった様子で声を出した。

「確かにそうですね。もし笹野さんが吹奏楽部だったら、今頃自分はスーザフォンを吹いていたかもしれないですね」

 白鷹が指を動かして楽器を吹く真似をしたが、スーザフォンがピンときていない僕には、その演技が上手いのかどうか判断ができなかった。誰も白鷹に訊き返さないところを見ると、僕の教養が足りていないだけで一般的に知られている楽器のようだ。

「タカが吹奏楽部なんて似合わねえな」

 吾妻が遠慮なく、ふっと鼻で笑った。

「楽譜が読めないので、演劇部で助かりましたよ」

「演劇部は演劇部で、漢字が若干怪しいけどな。雰囲気を『ふいんき』と読んだときには戸肝を抜かれたな」

 吾妻がすかさず茶々を入れた。

「舞鶴の前で言わないで下さいよ!」

白鷹が声を張り上げる。白鷹といえども、先輩としての威厳が損なわれやしないかと気にしているのだろう。舞鶴さんは白鷹には興味がないのか、無表情だ。

「あと進捗を『しんぽ』って読んだのもなかなかだったな」

 吾妻が肩を上下に揺らし、さらに激しく笑った。

「吾妻先輩! これ以上言うつもりなら、自分は千歳先輩が『といちや』を『とーや』って読んだことを一生ネタにしますからね!」と白鷹が喚く。

「千歳を巻き込むんじゃねえよ。ト一屋なんて、千歳じゃなくても初見では読めやしねえよ。看板は横書きだし、『と』がカタカナだったら『一』は伸ばし棒にしか見えないだろう。おまけに、坂田にしか存在しないローカルスーパーだぞ」

 吾妻が呆れたように眉をひそめた。

「ト一屋のかぼちゃコロッケは日本一ですよ!」

 興奮に身を任せたように、白鷹が椅子から立ち上がった。

 食べたことないな、と吾妻が落ち着き払った態度で呟くと、白鷹は「ええ!」と背中を反らしながら甲高い声を上げた。「僕も好きだよ」と千歳が頷く。

ト一屋のかぼちゃコロッケは鮮やかな橙色が特徴的だ。衣がざっくざくで、味は甘さが控えめで美味しい。白鷹のせいで、口の中がすっかりかぼちゃコロッケになったところで、今だから正直に話すけど、と千歳が話を切り出した。

「僕は、笹野さんは幽霊部員になるんじゃないかって思ってたんだよね。最初の自己紹介のときに、演劇には全く興味がないって言ってたから……」

 言いながら、人差し指で頬を掻いた。

「それならオレも同じことを思ってたぞ。吾妻だって、そうだろう?」

 僕が吾妻に話を振ると、彼は、まあな、と呟いた。

「笹野さん、演劇部のことが好きだと思いますよ」

 今まで黙って話を聞いていた舞鶴さんが口を開いた。僕は驚いて舞鶴さんの顔を見た。誰も声こそ出さないものの、吾妻や千歳も目を丸くしており、驚いている様子だ。舞鶴さんは僕たちの視線をものともせず言葉を続けた。

「好きじゃなきゃ、一年半も続けられませんよ。今どきネイティブに話せる相手なんてネットで簡単に見つけられますし、お金は掛かりますけど英会話教室に通う手もあります。ましてや湊高は進学校ですし、好きでもないことに時間を割けるとは思えないです。それでも演劇部に付き合ってきたなんて、好き以外のなにものでもないと思います」

 あくまでもマイカの考えですけど、と最後に保険を掛けつつも舞鶴さんが持論を述べた。

 僕たちは自信がなかった。笹野とはこの狭い部室の中で同じ時間を過ごしてきたが、彼女は今でも僕たちに対して一線を引いている。その線を乗り越えることも、手を差し伸べてこちら側に引っ張ることもしてこなかった。そのことを今になって後悔する。笹野は正式な演劇部ではない、と聞こえの良い言い訳をして目を反らしてきた。

「やっぱりオレは、笹野にジュリエットを演じてもらいたいと思ってる。今まで薄暗い場所で照明係を務めてきた彼女に、一度でいいから光の中に立ってもらいたいと思ってる」

 僕の言葉は、狭い部室には不釣り合いなほど意味を持って浸透した。

 今ここにある演劇部の形は、少なからず笹野がいてこそのものだ。そんな彼女に、あの場所に立つ意味や価値を感じてもらいたい。押しつけがましいかもしれないが、知って欲しいと望んでしまう。

「説得する前に、笹野さんがどうして舞台に立ちたくないと思っているのか、一度、じっくり話を聞いてみた方がいいと思うよ」

 千歳が僕を見つめて言った。その顔に浮かぶ表情には迷いは感じられなかった。千歳の中にあったはずの、自分がジュリエット役を引き受ける可能性が打ち消えたように見えた。

「任せたぞ」

 すっかり心変わりした様子の吾妻が、それでもぶっきらぼうに言い放った。

「おう。必ず笹野を舞台に引きずり上げてみせるぜ!」

 言葉とは裏腹に、内心は不安で一杯だ。それでも背筋を伸ばして胸を張り、声を張って答える。しばらく舞台から遠ざかっているが、虚勢を張る演技なら朝飯前だ。演劇部に入るよりも前から、コートの上で何度も演じてきた。

 ジュリエット役を引き受けたくないと叫んでいた笹野の顔が脳裏によぎった。

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