第2幕 第1場 中庭にて

 教室の窓から望める鳥海山の麓には、濃厚なソフトクリームのような色をした雪がまだまだ多く残っている。山形県と秋田県を結ぶ、鳥海山の五合目を通る鳥海ブルーラインは、あと一週間ほど経たないと開通されない。冬の間は、雪を理由に閉鎖されるのだ。

 ツーリングが趣味だった父は、僕が生まれたことをきっかけにバイク乗りを引退し、代わりにドライブを楽しむようになったという。父は僕を車の助手席に乗せ、よくドライブに連れて行ってくれた。弟の晶二はドライブに興味を示さなかったが、僕は父の青春時代を彩ったというどこか懐かしい昭和のメロディを聞きながら、流れる風景を眺める時間が好きだった。天気が良好な日は顔に風が当たるのもかまわず、窓を全開にして景色を楽しむ。なかでも鳥海ブルーラインはお気に入りのドライブコースだ。空気が澄んでいる日は庄内平野や日本海が見下ろせ、その眺望は絶景だ。

 週に一度のロングホームルーム中。夕方に放送されているテレビの報道番組の県内ニュースで、今年は例年よりも数日早く「種まきじいさん」が現れたと取り上げられていたことを思い出し、何となしに「種蒔きじいさん」を探し始めた。退屈なときに山を眺められるのは、窓際の席の特権だ。

「種蒔きじいさん」とは、雪が解けて露わになった山肌の形が、腰を曲げた老人が畑に種を撒いている姿に見えることからそう呼ばれている。この雪形は農作業を始める目安の役割だけでなく、春を告げる風物詩として地元民から親しまれている。僕は幼いときから、どうして「じいさん」なのだろうかと不思議に思っていた。ばあさんかもしれないじゃないか、と。月の兎と同じで、シルエットからでは性別が判別できない。それなのに男と決めつけるのは、おそらく農業は男がするものだというイメージが強いからだろう。

 ああ、あれか、と、じいさんを見つけたところで、

「……なあ、葉山。今日、傘持ってきたか?」

 前の席に座る北沢蔵馬が、後ろを振り返らないまま小声で訊ねてきた。

「持ってきてないけど……」

 僕は鳥海山を眺めていた視線を窓ガラスに映る北沢へ向けた。

「朝の天気予報だと夜から雨が降るって言ってたのにさ、今最新情報を確認してみたら夕方から降り始めるらしいぞ」

 北沢は体を斜め後ろにずらして半透明な僕を見ていた。

 朝は優雅にテレビの報道番組を観ている余裕がなく、天気予報を観る習慣がない。朝家を出るときは雲一つない晴天だったため、すっかり油断していた。へえ、と言葉というよりは感情そのものといった方が正しいような声が洩れた。

 薄汚れた窓ガラスにはまだ雨の足跡はついていないが、空には見るからに重たそうな曇天が広がっている。この様子だと、僕の家がある市街地の方ではすでに降り始めているかもしれない。

「せっかく学校帰りに桜祭りに行こうと思ってたのにさ。今年の桜も、今日で見納めだろうなあ……」

 頬杖をついた北沢が溜息混じりに言った。

 桜の開花状況を考慮して延期されていた、日和山公園で開催されている桜祭りも今日でいよいよ終わりを迎える。今年は開催期間が十日間と長期だったこともあり、クラスメイトや演劇部のヤツら、それから弟、と一緒に行く相手を変えて何度も足を運んだ。とはいっても、僕には花をまじまじと鑑賞する趣味はない。まさに花より団子と言わんばかりに露店巡りを楽しんだ。ド田舎の高校生にとって、市内の祭りは数少ない娯楽の一つだ。北沢も僕と同じようにすでに何回か足を運んではいるだろうが、残念がるのも無理はない。

「この後、ケイタは部活があるんだっけ?」

「おう。今年から活動日を増やしたんだ」

「そりゃあ、ご苦労だな。桜祭りには京田と行く予定なんだ。ケイタも部活がなければ誘ったんだけどな。とはいえ、やっぱり雨が降りそうだなあ……」

 北沢は帰宅部だ。彼は高校に入学したときから国立大学一本狙いで、部活動には参加せず塾に通っている。彼のような選択をする生徒は決して少なくないが、そこまで勉強に対する熱意を持っているのなら、市内で一番の進学校である東高校の方に進学すればよかったのではと思わないこともない。だが、吾妻が東高ではなく湊高を選んだように、彼にも湊高校を選んだ理由があるのだろう。事情がわからない以上、余計なことを言うつもりはないし訊ねるつもりもない。吾妻にもそうしないように。

「家に帰るまで雨が降らないといいな」

 北沢はそう言い残して正面を向き直った。



 僕は空模様と同じくらい、どこかぱっとしない気持ちのまま部室に向かった。僕の気持ちが沈んでいるのは、ロングホームルームの議題が大学進学に関する内容だったせいだ。

 部室の戸を開くと、千歳と笹野が仲良く菓子を食べていた。僕が自分の席に座ると、千歳が「ケイタも食べる?」と小袋を差し出してきた。木村屋のマロニエだ。

「ありがとう」

「ケイタには、あまり甘くないカシューナッツね。ちなみに笹野さんはアーモンドで、僕はマーブルなんだ」

 さすが千歳だ。僕の食の好みを理解している。早速小袋を開けてかじり付く。

「いやあ、まいったよ」

 口内に広がるクッキーの甘さが、想定外に言葉を柔らかくしてしまった気がしたが、

「何かあったの?」

 千歳は紙パックのミルクティーに挿しているストローから唇を離し、僕が希望した通りの言葉をくれた。待っていましたとばかりに話しを切り出す。

「今日のロングホームルームが進路の話だったんだ。こっちはまだ部活に励んでいるんだからさ、勘弁してくれって感じだろう」

 ぜひとも共感していただきたい不満を気持ちよく洩らした。

「なるほどね。僕のクラスも進路の話だったよ。そういえばケイタは、まだ志望校が決まっていなかったんだっけ?」

 千歳が首を傾げた。前髪が音もなくさらりと流れて右目が隠れる。

 僕はすっかり忘れていた。千歳が決して僕の同志ではないということを。僕の記憶が正しければ、千歳は去年の夏には志望大学を決めている。

「あら? あなたにも迷うほどの選択肢があるのね」

 笹野が涼しい表情で言った。悲しいことに、僕のことをバカにしているのではなく、純粋に疑問に感じている様子だ。

「うるせぇな。まだ一年あるんだから、これから頑張ればいいだけの話だろう!」

 僕が叫んだ後に、部室の戸が開いた。遠慮のない物音から、入口の方を振り向かなくても誰が部屋に入ってきたのかがすぐにわかった。

「マロニエじゃん!」

 吾妻が机の上に広がっているマロニエを見つけるなり嬉しそうな声を上げた。

「吾妻はチョコレートだよね」

 千歳が吾妻にマロニエを渡すと、彼はお礼を言うなり、すぐさま食べ始めた。

「今日はお菓子パーティーですか?」

 いつの間にか、戸の前に白鷹が突っ立っていた。彼の後ろには、新入部員の舞鶴満衣香の姿もある。

「マイカはグミなら持ってます」

 舞鶴さんが肩から斜めに掛けているショルダータイプの学生鞄からグミを取り出し、それを机の上に置いた。

「それじゃあ、自分はこれをカンパしますね」

 続いて白鷹が、スポーツバッグからポテトチップスを取り出した。

「そんなものを鞄に入れてたら、教科書が入らないだろうが」

 マロニエで口を膨らませながら喋る吾妻からの一言に、

「いやあ……」

 白鷹が癖毛の髪を掻きあげ、誤魔化すように笑った。

 千歳は白鷹にはコーヒーキャラメル味、舞鶴さんにはチェリー味のマロニエを渡した。「久しぶりに食べます」と舞鶴さんが軽やかな声を出した。

 机の上に広げた菓子は、あっという間に片付いた。

「基礎練習に入る前に、文化祭で披露する演目について、話しておきたいことがある」

 僕は部員たちの顔をぐるりと見渡しながら言った。白鷹がまだ口をもぐもぐと動かしている。

 今まで舞台の脚本は、僕が好き勝手に書いてきた。役者を担う吾妻と千歳、それから白鷹に希望や意見を聞き、それを脚本に反映するような真似はしたことがない。せいぜい発声し辛いと言われた台詞を修正する程度だ。彼らが黙っているのは、決して僕が書く脚本の出来がよいからではない。みんな自分の役割をこなすのに手一杯で、脚本に口を出す余裕がないだけだ。

 僕たちは部員数が少ない分、役割を掛け持ちしている。僕は脚本の執筆と演出の他に、音響や照明、それから申請系の雑務を担っている。役者陣も同様だ。副部長の千歳は、裁縫が得意なため衣装係を担当している。数字に強い吾妻は会計を、体力に自信がある白鷹は小道具や大道具をこなしている。正式な演劇部員ではない笹野ですら、衣装係と照明係を兼業している。それでも人手が足りないため、公演時はクラスメイトの北沢を始め、友人に声を掛けて手伝ってもらっている。

 今回脚本について、あえて話をするのには理由がある。

 舞鶴さん以外の部員たちが、身構えるように肩を窄めたのが見て取れた。僕は緊張で震える喉を飼い慣らしながら言葉を続ける。

「最後の舞台の演目は『ロミオとジュリエット』にしたいと思ってる」

 僕が座っている誕生日席からは、狭い部室が視界の中に全て納まる。窓際の後方は物置化しており、過去の舞台で使用した背景の板が壁に寄りかかり、小道具の詰められた段ボール箱がいくつも乱雑に重ねられている。

 埃が落ちる音さえ聞こえるほど、場は静まり返った。カチリ、と時計の秒針が自身の存在を主張するように音を立てた瞬間、

「……正気か?」

 吾妻の低い声が緊迫感を募らせた。

「ああ、正気だ」

 僕は吾妻を真正面から捉えて言った。吾妻も負けじと僕から目を反らさない。

「まさかのロミジュリか……」

 僕と吾妻の間に入り込むように、千歳が口を挟んだ。

「そうなると、脚本は書かないんですか?」

 二人よりも落ち着いている様子の白鷹が首を傾げた。

「いや。台詞の引用はするが、脚本は一から執筆する」

 僕は努めて冷静に答えた。

 湊高校の演劇部は、代々部長が脚本を執筆することが伝統になっている。年によっては顧問が全面的に協力することもあったらしいが、少なくとも僕が演劇部に入部してからの三年間は、顧問に頼ることなく生徒が自身で脚本を書き下ろしている。

 顧問の熊野先生は部活に干渉しておらず、名ばかりの顧問だ。最後に熊野先生が部室に顔を出した日をすぐには思い出せないほどだ。熊野先生に用事があるときは、こちらから職員室に出向かう必要がある。脚本の執筆に限らず、活動全般に非協力的だ。

「最後の舞台だぞ。創作脚本じゃなくていいのか?」

 机に肘をついた吾妻が、訊ねるというよりは念を押す口ぶりで言った。

「オレ自身は、そこにあまりこだわりはない」

 僕は吾妻に向かって頷いて見せた。

「完全に意表を突かれたね」

 その隣で、千歳が細い息を吐き出しながら言った。言葉とは裏腹に、穏やかな口調だ。

「他に候補はないのか?」

 吾妻が目を細めた。

「他は何も考えてない」

 僕は表情一つ変えず、即座に言い切った。

「ロミオとジュリエットって、演劇の定番というわけではないんですか?」

 僕と吾妻のやり取りを聞いて疑問に思ったのか、舞鶴さんが遠慮がちに右手を上げながら訊ねてきた。その仕草は、彼女の小柄な体形も合わさり、どこか小動物を連想させた。

「演劇といえば『ロミオとジュリエット』のイメージが強いかもしれない。オレも演劇部に入部するまではそう思ってた。だが実際、高校演劇ではロミジュリが演じられることはあまりない。高校演劇は創作脚本、いわゆるオリジナルの演目を行うことが多い。とくに大会となると既存脚本で出場する高校は少数派だ。というのも既存脚本は、審査員からの受けが悪く、入賞し辛い傾向があるんだ。他にも理由は色々とあるんだが、様々な制約のある高校演劇では、これ以上、厄介な演目はないというわけだ」

 僕は自身が新入部員だったときに、当時の先輩たちから譲り受けた説明を我が物顔で話した。昨年、入部したばかりの白鷹にも同じ説明をしており、劇部の風物詩ともいえる。

「だから僕たちは、あえてタブーに挑もうとしているっていうわけなんだ」

 千歳が言葉を付け足した。

「タブーですか……」

 舞鶴さんが、ぼそっと呟いた。その言い方は納得したというよりは、受け止め切れていない印象を与えた。

「演劇部のことは、これから少しずつ知っていけばいいさ。残念ながら、オレたちが大会に出場することはないんだけど……」

 僕は昔のことを思い出しながら、思わず溜め息交じりに言った。

「演劇部にも、運動部のように大会があるんですか?」

 舞鶴さんがパッと目を見開いてさらに訊いた。

「あまり一般的には知られていないと思うが、演劇部にも全国大会がある。上位の大会はテレビで放送もしている。こう見えて二年前までは、俺たちもその予選にあたる地区大会に出場していたんだ」

 吾妻がすっきりとしている顎を突き出し、どこか得意気に語った。

「そうなんですね……」

 そう言うと舞鶴さんは、半信半疑と言わんばかりの表情で唇を結んだ。あの頃と比べて部員数は四分の一まで減少し、人数に合わせて活動内容も縮小された。たった数年で、すっかり廃れてしまった。彼女が疑問に感じるのも無理はない。

「二年前は今よりもずっと部員が多くて、それなりに色んなことができたんだ」

 三年生を代表して告げた吾妻の頭の中には、おそらく卒業していった先輩たちの顔が思い浮かんでいることだろう。今の自分は、あのときの先輩たちと同じ年齢だというのに、どんなに頑張っても縮められない差があるように思えて仕方がない。越えていることはおろか、近づけている気さえしない。とくに部長だった、あの人には。

「……それで、演目はロミジュリに決定するの?」

 千歳が脱線していた話を戻した。

「俺は反対だ。ロミジュリといえば、ごてごてのロマンス劇だろう」

 吾妻は腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかり、鼻息を荒くしながら言った。

「演劇を知らない人たちに興味を持ってもらうためには、誰もが知っている物語の方がいい。何よりもロミジュリのタイトルは人を惹きつける力を持っている」

 ここで意図的に一呼吸挟むと、さらに台詞を続けた。

「オレたちは今度の舞台で、多くの人たちに見てもらわないといけないんだ。去年の文化祭を思い出してみろ。どれくらいの客が椅子に座ってた?」

 僕の言葉を受け、舞鶴さん以外の部員たちは昨年のことを振り返っているのだろう、途端に顔が俯きがちになった。当時の状況を知らないはずの舞鶴さんも、僕たちの様子からあらかたのことは想像できたのであろう、いたたまれなそうに目を伏せている。

「評価される以前の問題なんだ。オレたちがやっていることを、みんなに知ってもらわないといけないんだ。だから公演時間を五十五分にして、途中から見ても話についていけるよう、演目は誰もが知っている『ロミジュリ』にしたい」

 僕はこの数か月間、ずっと考えていた。最後の舞台を成功させるためには一体何が必要なのかと。今まで一体何が足りなかったのだろうかと。そして一つの答えを導き出した。頑張るのが当たり前ならば、自分たちが頑張っている姿を見てもらうための努力をしなければならないと。

「考えなしっていうわけでもないから、僕は反対しないよ」

 千歳が微笑んだ。

 僕は次にくるであろう反論に備え、背筋を伸ばしてから喉を開いた。

「実は、もう一つ提案があるんだ。ジュリエット役は……笹野に演じてもらいたいと思ってる」

 僕は覚悟を決めて、最後のカードを場に出した。

「え?」

 突然話の矛先を向けられた笹野が声を上げた。

「笹野がジュリエット? それならヤスはどうするんだ!?」

 間髪入れず、吾妻も声を張り上げた。

「千歳にはマキューシオを演じてもらう」

「ちょっと待って! 私は舞台に上がらないわよ!」

 笹野が跳ねるように立ち上がった。その勢いで椅子が後方へ倒れ、木の床が派手な音を立てた。笹野の隣に座っている舞鶴さんが怯えるように顔をしかめた。

「千歳がいるんだから、ジュリエットは千歳がやればいいじゃない!」

「ヤスが男役を演じられないことは、ケータも知っているだろう! その千歳にマキューシオを押し付けるなんて一体どういうつもりなんだ?」

 吾妻が当事者である千歳の肩に手を乗せながら、笹野と一緒になって畳みかけてきた。

「学校一の美少女である笹野梅子がジュリエットを演じる。これだけで話題性ができて、人が集まるとオレは思ってる」

 ずっと考えていた。最高の舞台とは、どんな舞台だろうかと。あの舞台を越えるためには、どんな物語をどんな風に表現すればよいのだろうかと。

 ずっと探していた。

「ケータは何を考えているんだ? ケータが最後の舞台でやりたいことは、正式な演劇部員であるヤスを脇役にしないとできないことなのか?」

 吾妻が吐き捨てるように言う。

「いいよ、シズオ。僕にはケイタの考えが理解できる。笹野さんを照明係にしておくのはもったいない。それに男同士のロマンス劇なんて、誰も観たくないと思うよ」

「男同士なのは、舞台から降りたときの話だろう!」

 吾妻が千歳の両肩に手を置き、その肩を激しく揺さぶった。

「男役を演じられる保証はできないけど、ケイタも考えがあって提案しているわけだから、その期待に応えられるよう、僕は精一杯頑張るよ」

 そう言うと千歳は、小粒な白い歯を見せた。

「ちょっと待って! 当事者の私を無視して勝手に話を進めないでよ! だいたい私は演劇部の部員じゃないのよ! 否定権ぐらいあるでしょう!」

 笹野が手のひらで机を叩き、自身に注目を集めた。その振動が、くっつけて並べている他の机にも広がり、白鷹が慌ててノートパソコンを抑えた。舞鶴さんは椅子を引き、机から遠ざかっている。

「せっかく千歳が一度も演じたことのない男役に挑戦してみるって言ってるんだ。笹野も頑張ってみようぜ」

 僕は宥めるような口調で笹野を諭した。

「ナレーターならともかく、ジュリエットなんて嫌よ! 絶対にやらないわ!」

 笹野は僕の話を最後まで聞かないうちに、上から言葉を被せるように喚いた。

 僕が笹野を落ち着かせるための言葉を頭の中で選んでいると、彼女は足元に置いていたスクールバッグを掴み、あっという間に部室を飛び出した。

「おいっ! 待てよっ!」

 僕は慌てて椅子から立ち上がり、教室の入口まで駆け寄った。が、伸ばした手は笹野を捕まえることができなかった。僕の手から逃れた笹野は、そのまま廊下を走り抜けていった。僕は笹野の後ろ姿が廊下を曲がって消えるのを見届けてから、仕方なく席に戻った。

「ジュリエットがキレちゃったぜ」

 吾妻がどこか他人事のように言った。その口調には、千歳をヒロイン役から外した不満が表れていた。

「笹野さんには、心の準備が必要だったかもしれないね」

 千歳が肩をすくめた。

「あそこまで否定されるとは思っていなかったな」

 僕は右手で頭を抱えながら溜め息交じりに言った。

「あの……」

 険悪な雰囲気にあてられたのか、体を縮こませた舞鶴さんが遠慮がちに手を上げた。

「笹野さんが正式な演劇部の部員ではないって、一体どういうことなんですか?」

 舞鶴さんの言葉に、僕たちは顔を見合わせた。

「そう言えば、マイちゃんにはまだ説明していなかったね」

 吾妻から目配せを受けた千歳が、彼の代わりに口を開いた。

「笹野さんは元々英会話部の部員だったんだ。だけど部員が笹野さん一人になって、僕たち演劇部と吸収合併したから正式な部員ではないんだ」

「だから活動の中に英会話があるんですね。てっきり英語劇でもしているのかと思ってました」

 舞鶴さんが、千歳の説明を受けて合点が言ったとばかりに目を瞬いた。

「週に一度英会話部の活動をすることが、笹野さんが僕たちに出した、合併に承諾する条件だったからね」

 千歳が続けて答えた。

「それよりも、配役はどうするつもりなんだ? こんな状態じゃ、笹野にジュリエット役を任せるのは無理だろう」

 吾妻が低い声で割って入ってきた。

「本人はあんな態度を取っているが、笹野だって演劇部の一員だ。一年半演劇部の練習にも参加してきた。だからオレは、笹野に一度は舞台に上がってもらいたいと思ってる」

 笹野が今まで理由もなく部活を休んだことは一度もない。演劇部に転部してきた理由が理由なだけに、当時は幽霊部員になるのではないかと思っていた。そんな彼女が今まで真面目に演劇部の活動に参加してきた。演劇に全く興味がないとは言わせないし、言わせたくない。絶対に。

「それなら、どうやって笹野さんを説得するかを考えないといけないね」

 千歳が机に肘を立て、手のひらで顔を支えながら言った。

「脚本が書き終わるまでまだ時間がある。それまでに何としてでも笹野を説得してみせる。早速だが月曜日の昼休み、笹野に会いに行ってくる」

 僕は吾妻の顔を見ながら言った。吾妻は僕と目を合わせないよう、視線を遠くに投げて窓の外を眺めている。

「僕も一緒に行こうか?」

 千歳が言った。

「笹野の場合、複数人で押しかける方が逆効果だろうから、オレが一人で行ってくる。だけど状況が進展しなかったら、そのときは協力してくれ」

「了解。何かあったらすぐに言ってね」

 笑顔で答える千歳の隣で、吾妻が頑張れよ、と感情のこもっていない声で呟いた。

「またシズオは、他人事みたいな態度で……」

 吾妻の態度に、さすがに見かねた様子の千歳が窘めるような物言いをした。

 演劇部の練習には真面目に参加するというのに、舞台には立ちたくないと頑なな態度を見せる笹野。今まで笹野は役者としてではなく、照明係としてキャットウォークに立ちスポットライトを操ってきた。

 これまでは、それでもいいと思っていた。笹野は正式な演劇部の一員ではなく、あくまでも頭数合わせの存在だったから。でもいざ最後の舞台を前にして、本当にそれでよいのだろうかと思い始めていた。

 笹野は一体どんな気持ちで、光に包み込まれる舞台を見下ろしてきたのだろうか。そこに自分も立ちたいと望んだことは一度もなかったのだろうか。ないのだとしたら、なぜ演劇部の練習に参加してきたのだろうか。本当の彼女は、舞台の上にいてもいいはずだ。

「雨が降ってきたな」

 吾妻の言葉に、思わず窓へと視線を走らせた。今まで何とか堪えていた曇天が、とうとう雨粒を落とし始めていた。薄汚れている窓ガラスに雨の足跡がついている。

「家に帰るまではもつと思ったんだけどなあ……」

 千歳が溜息混じりに呟いた。

「自分、傘を持ってきませんでした」

 白鷹がノートパソコンから顔を上げて言った。俺も持ってきてねえ、と吾妻が続くと、

「マイカ、折りたたみ傘なら持ってます! 吾妻さん、マイカと一緒に帰りますか?」

 言いながら舞鶴さんが、鞄から折りたたみ傘を取り出して見せた。

「遠慮しておく。学校にチャリを置いて帰れねえからな」

 吾妻からの返答に、舞鶴さんが残念そうに傘を鞄に片付けた。

「舞鶴。自分も傘持ってないんだけど……」

 白鷹が自身を指差すと、

「白鷹さん。女子の傘って、誰でも入れるわけじゃないんですよ」

 舞鶴さんが諭すようにきっぱり言い切った。反論こそしないが、白鷹が引き上げた口端をわなわなと震わせている。

 舞鶴さんが入部してからまだ数週間しか経っていないが、彼女は既に白鷹の扱い方を習得している。女子はコミュニケーション能力が高いな、と素直に感心する。

「タカの家は徒歩でも五分ぐらいなんだから、走って帰ればいいだろうが」

 吾妻が呆れ顔で言った。

「ノートパソコンがあるんで、鞄を濡らしたくないんですよ」

「それなら家に一度傘を取りに行って、また戻ってくればいいだろう」

 吾妻の提案に、それはそれで面倒くさいじゃないですか、と白鷹が嘆き声を上げた。千歳が「雨が降ってる中、あの坂を往復するのは億劫だよね」と白鷹に慰めの言葉を掛けている。

 湊高校は百メートルほど続く坂の上に校舎が建っている。市内の外れに位置していることもあり、生徒の九割が自転車通学だが、坂道に差し掛かると男子は立ち漕ぎで上るが、女子は自転車から降りて歩く者が多いほどに急勾配な坂だ。白鷹が渋るのも無理はない。

「舞鶴さんって、坂六の出身だったよな? 歩いて帰るには少し遠くないか?」

 吾妻と白鷹の押し問答に聞き飽きた僕は、舞鶴さんに話を振った。港高校から徒歩で通える学区は、白鷹の出身中学校である坂田第五中学校ぐらいだ。確かに僕の家よりは近いだろうが、途中で歩き疲れても都合よくバスに乗れる町でもない。

「近くはないですけど、誰かと喋りながら歩けばあっという間ですよ」

 さすがに朝は歩く余裕はないですけど、と舞鶴さんがけろりとした表情で答えた。

「女子は同じ理由で、お店の行列にも平気で並ぶもんね」

 千歳がうん、うん、と頷いた。

「部活が終わるまでに止めよなー」

 吾妻が恨めしそうに窓を見つめる。

「この雨は、日付が変わる時間くらいまで続くそうですよ」

 白鷹がノートパソコンの画面を僕たちに向け、天気予報の情報を見せてきた。

 僕は笹野が長傘を持っていなかったことを思い出し、舞鶴さんのように折りたたみ傘を持っているのかが気になった。

 僕が黙っている間に話は膨らみ、出身中学校の話題に移っていた。とはいっても、舞鶴さんの興味は吾妻一人に絞られている。ことあるごとに口を挟み、ここぞとばかりに根掘り葉掘り質問をしている。

 僕は傘を持っていなければ、傘の差し出し方も知らない。彼女が雨で濡れていませんようにと祈りながら、もう一度、窓の向こう側の空を見上げた。

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