東雲に蛍
仄か
東雲に蛍
下駄が鳴る。
浴衣の袖から吹き込む風が肌を撫で、髪飾りが耳元で揺れた。
喧噪の中、私は電灯の下に立っていた。
行きかう人影に目を配り、その時を待っていた。
何故かとても緊張する。
周りの賑やかさとは打って変わって、私はドキドキと鼓動が高鳴るのを感じた。
彼が私を見た時の反応を想像して、顔が赤くなったり青くなったりする。
早く会いたいはずなのに、どんな表情をすればよいのか、どんな話をすればよいのかと思考を巡らせてしまうのだった。
下駄の音が私の前で止まった。
項垂れていた私は、ゆっくりと顔を上げ、一等鼓動が強く打つのを感じた。
私より高い背丈、栗色のサラサラとした髪、爽やかな笑み――。
「やあ、待たせてしまったね」
浅葱色の浴衣が軽やかに夏の夜風に揺れる。
彼を一目見たとたん、思わず笑みがこぼれた。
「いいえ、それ程でもありません」
頬が紅潮するのを感じて、とっさに顔を逸らした。
「——!行きましょう」
彼の顔を見ることができなくて、私は早足で前を歩いた。
*
二人分の下駄の音が重なる。
少し前を歩いていた私に彼も歩調を合わせる。
話したいことは山のようにあった。
私はぽつり、ぽつりと話し始めた。
彼はいつもの調子で静かに私の話を聴いてくれた。元々口数の多い方でない彼は、私の話に相槌を打ち、時折考えを述べるのだった。
彼と話している時間も、合間に生まれる沈黙も、私にとって心地よい幸せな時間だった。
貴方にとってもそうであったなら——。
心の中で少しだけ祈って、彼の隣に並んだ。
しばらく歩くと、人だかりが引いて川辺が見えた。
翠緑の石垣が水流を導くように陳列する。
水はビー玉を転がしたように透明で、静かに細く流れていた。
目の前でふらりと光が揺れる。導かれるように光に目をやると、
——蛍。
数多の蛍が眼前でその光を灯していた。
水面が鏡のように光を映し、幻想的な風景を演出していた。
「凄い……!」
思わず感嘆の声が漏れる。
「これを君に見せたかったんだ」
彼が蛍に目をやったまま呟く。
光を眺める横顔が、何故か遠くに見えた。
そう思った矢先、彼は私に微笑みかける。
その表情に先程のような影は消えていた。
「綺麗だろう?」
「そうですね……。こんな場所があるなんて知りませんでした」
私はそう返すと、再び蛍に目を向けた。
とても静かで穏やかな時間が流れた。
お互い何も言わず、川辺をただ眺めていた。
それがとても心地よくて、ずっとこうしていたいのに、それがとても怖いのだ。
不意に手が触れた。
心臓が大きく鳴る。
硬直してしまった私を溶かすように、少し冷たい指先が私の手を包んだ。
ああ、どうか夢ならば醒めないで
貴方の瞳に映るのは私だけでいいの
願いを胸の奥底に秘め、私は彼の手を握り返した。
*
私の元に届いたのは一通の手紙だった。
白い封筒に丁寧に書かれた名前は彼のもので間違いなかった。
何故か強い胸騒ぎを覚えた私は、慌てて封筒の口を破った。
手紙には彼の字で短く文章が綴られていた。
『貴方のことを愛しています。
どうか僕が愛したままの貴方でいてください』
目の前が真っ暗になった。
彼の言葉の意味が分かってしまったからだ。
私は裸足のまま家を飛び出した。
通りをまっすぐ、三つ目の角を右に曲がってさらにまっすぐ———。
いつもあっという間にたどり着くはずなのに、走っても走ってもまるで永遠にたどりつかないかのように感じた。
足底に鋭い痛みが走る。汗が流れ、目が染みる。
彼の住む家にたどり着いた。
息が大きく乱れ、声が上手く出せない。
「——っ!あの!」
掠れた声で玄関先に呼びかけた。
ほどなくして中年の女性が現れた。
「あぁ!花ちゃん!」
女性は私を見たとたん、慌ててつっかけを履き駆け寄った。肩をさすって心配そうに私を見つめている。
「あの、おばさん……。彼は……」
彼の母親は、私をさする手を止め、目頭を押さえた。
「——あの子、自分で志願して行ったのよ。体が弱いせいで自分だけお国の為に何もできないのは嫌だって。この国を守るんだって……」
「そんな——」
声が上手く出なかった。
息はとっくに落ち着いていたのに、鼓動が一層早く打った。
彼と見た川辺が瞼の裏に映る。
蛍の淡い輝きと彼の横顔、蒸し暑い空気と涼しい風を感じた。
「……なちゃん、花ちゃん!」
がくがくと肩を揺らされ、ハッとした。
「ごめんなさいね。私も突然のことだったから、まだ気持ちの整理がついていなくて」
彼の母親も目を潤ませていた。
私は彼女と抱き合って声を殺して泣いていた。
*
ほどなくして彼が戦地で陣没したと連絡があった。
とても短い手紙が一枚っきり届いただけだった。
その手紙を彼の母親に見せてもらった時、私はその場で泣き崩れた。
彼が無事に戻ってきて、また二人で蛍を見れるようにと願っていた。
しかし、心のどこかで分かってしまっていた。
彼から届いた最期の手紙が、それを予感させていたから。
私の心はぽっかりと穴が開いてしまったようだった。
もう流す涙も枯れ果ててしまった。
動く理由が無くなってしまった。
いつの間にか涼しくなっていた空気が、嘲笑うかのように頬を撫でた。
*
季節はいつの間にか春になっていた。
彼がいなくなってしまってから、私は何も感じられなくなってしまっていた。
風はとっくに春の陽だまりで暖かったのに、私の心にはまだ雪が降り募っていた。
融けない雪は、質量を持って私に重く圧し掛かるのだった。
私は彼とあの日訪れた川辺に立ち寄った。
真夜中の川辺に人は居らず、しんと静まり返っていた。
「ここなら丁度いいわ」
私は橋から流れる川を覗き込んだ。
透明な水が涼しげに流れている。あの日と全く変わらない景色だった。
「——私も、そっちにいきますね」
履いていた靴を片足ずつ脱ぐ。
裸足になって、地面に降り、橋の柵を乗り越えた。
「ああ、この川ならあなたのもとに、」
ゆっくりと体を傾けた。目の前には、月明りを映す川と、
——蛍。
私は反射的に柵を掴んだ。体が強く引っ張られる。
息が上がる。鼓動が強く高鳴る。
生きている証が嫌というほど私を現実へと引き戻す。
項垂れていた私は、ゆっくりと顔を上げ、一等鼓動が強く打つのを感じた。
眼前には川を埋め尽くさんばかりの光が灯っていた。
「何で、どうして……」
まだ蛍の季節には早すぎるはず。
それに、さっきまで何もなかったのに。
状況が掴めず、私は呆然とするしかなかった。
蛍が飛び交う中で、私はあの日の彼との会話を思い出していた。
『蛍がなぜ光っているか知っているかな?それはね、蛍が亡くなってしまった人の魂だからなんだよ。きっと大切な人のことを見守っていると知らせたいんだね』
そう言って蛍を見つめる彼の目がとても綺麗で、寂しげだったことを覚えている。
不意に一匹の蛍が目の前でふらっと揺れた。
その蛍を目で追いかけると、蛍は橋の袂でゆっくり地面に降りた。
そこには便箋が落ちていた。
便箋を拾い、目を凝らして書かれた文字を読んだ。
その文字を読んで、私は思わず驚いてしまった。
『あの日蛍を共に見た貴方へ』
間違いなく彼の字だった。
私は慌てて続きを読んだ。
『あの日蛍を共に見た貴方へ
まずは、貴方に謝らなくてはいけないね。
勝手に行ってしまって済まなかった。
母にはああ言ったが、本当は国のことなんてどうでもよかった。
ただ、この国に住む貴方が危険な目に合ってしまうかもしれない。
そう思うだけで僕は胸が張り裂けそうだった。
体の弱い僕にできることはこのくらいしかないのだと思い、兵役に志願したんだ。
今はとても後悔している。
貴方を守るために死ぬのではなく、貴方を守るために共に生きれば良かった。
しかし、貴方がいつまでも泣いている姿を見ていると僕は悲しくなってしまう。
僕が愛した貴方は笑顔に溢れた人だった。
蛍の光のように辺りを優しく照らし、こんな時代を強く生きる貴方を愛していたんだ。
貴方が居なくなってしまったら、あの日見た蛍を覚えている人はいなくなる。
そうしたら僕は本当に死んでしまうんだ。
僕のわがままかもしれないが、どうか君には生きていて欲しい』
私は手紙を胸に抱きしめて、涙を流した。
本当は私も彼と未来を生きたかった。
本当は私の隣にずっといて欲しかった。
思いは溢れ、次から次へと涙となって胸に零れる。
空は真っ暗闇から茜色に移り変わる頃だった。
蛍の光が空に融けていく。
私は持っていたペンで便箋の裏に文字を書き出した。その間、私を便箋へと導いた蛍は近くでじっと私を見ているようだった。
『貴方に笑顔を届けます』
想いよ、届け。
書き終わり、そう強く願った時、強い風が吹いた。
その風が便箋を攫って、便箋は川にぽとりと落ちた。
川から手元へ目を移すと、じっと私を見つめていた蛍はいつの間にか居なくなってしまっていた。
辺りはうっすらと明るくなっており、もうすぐ朝日が昇ろうとしていた。
私、強く生きます。
貴方と見た蛍が胸の奥で灯る限り。
東雲の空を見上げ、私は固く拳を握った。
終
東雲に蛍 仄か @sea_you_bunny
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