第二階層 天界

第10話 光の部屋


 静かだった。

 なにも聞こえず、なにも見えない。


 目を開けている感覚はあったが、暗い。一片の光すらない。

 どんよりと淀んだ思考を動かすための契機となるものを探して、ハルトは首を動かそうとし、それができないことを知った。首だけではない。腕も、足も、動かない。


 死後について彼は深く考えたことがない。

 それでも、命がないというのはこんなに不自由なのか、もう少しなにか、解放なり救いなり、よいことがあるものではないのかと、ぼんやり考えているのである。


 が、そうした穏やかな暗黒は、唐突に終了した。

 ぴ、と、小さな音が彼の耳に届く。ついで、何かが光った。頭の右側に小さな白い光が灯る。続けて橙、さらに青。いくつかの光が続けて点灯し、彼の右側に列を作った。

 ばすん、という空気を吸い込むような音と共に、その列が繋がった。光の列は帯となり、幅をゆっくりと広げる。

 ようやくハルトは、彼を覆っていたなにかがゆっくりと開かれようとしていることを悟った。

 膨大な光と冷たい空気とが流れ込む。目を開けていられない。ぎゅっと瞑ると、その顔を、なにかにばふんと覆われた。

 

 「あああああっ」

 

 今度は、声。ひどく大きく、ハルトは顔を顰めた。が、耳を塞げない。腕が動かないし、その声は耳元で発せられたためだ。


 「こりゃミディア、ばかもん、離れんかい」

 「あううあああ」

 「はぁなぁれぇろ、って言うとるんじゃ、こやつ、もいちど死ぬるぞ」

 「やだあああ」


 ぱん、と何かをはたく音がすると、顔を覆っていたものが離れた。ようやく瞼ごしの光に慣れてきたハルトはゆっくりと目を開く。

 

 「……みでぃ、あ……」


 いまだはっきりしない視界が、それでも蒼い髪と瞳を捉えた。その顔が、笑おうとしているのか泣いているのか、奇妙な表情でおおいに歪められていることも見てとった。そして呟いた瞬間、ふたたび視界が覆われた。


 「ああっ、ばかこの、なにしとる、不潔じゃ、口を塞ぐな呼吸を止めるなああ」


 ハルトの唇を自分のそれで封じたミディアは背を掴まれ、無理やり引き剥がされた。ハルトが収められているカプセル状の容器の横にへたりと腰を落とす。顔だけを上に向けたまま脱力し、幼児のような泣き顔をつくる。


 「……よがっだぁ……よ、がっだ、よぉ……」

 「おぬし……感情モジュールの調整が必要じゃの。現状認識の入力と行動選択の整合が取れとらんぞ」

 「なに、ぞれ」

 「滅茶苦茶じゃ、というとるんじゃ」


 呆れたように呟いたのは、少女。

 ミディアより、あるいはハルトよりも若い。いや、幼い、という形容が相応しいだろう。透明なほどに薄い金髪を頭の左右でまとめている。薄い翠の瞳。大きな目をくるくると忙しげに動かし、左右に並んだ複雑な装置を操作している。

 広い部屋だった。淡い光に満たされた、無限に続く白い空間のように見えるその部屋の中央に機器が密集しており、そこにハルトは寝かせられている。


 「錬成細胞で心肺を再生したんじゃ、はじめて外気に触れさせるときは慎重にせねばならん。わかっとろうがおぬしも」

 「うぅ……だって、もう目、醒まさないかと思って……怖かったから……」

 「まあ、死んどったらおぬしが殺したようなもんじゃからの」


 金髪の少女をぐっと睨むミディアの目には、涙が溜まっている。少女は意地の悪い笑みを浮かべてみせたが、その涙から目を離さない。脳裏ではミディアの思考と感情の経緯について何通りもの推論を立てているのだ。

 と、ハルトが身動きをしたから、視線をそちらに移す。複雑な文字と紋様が浮かぶ操作盤を片手でたたたっと叩くように操作する。するとハルトの四肢を固定していた銀色の器具がすっと引き込められた。


 「気分はどうじゃ、ハルトくん」

 「……こ、こ、は……」

 「うむ、まず深呼吸してみよ。ゆっくりでよいからの」


 言われたとおりにハルトは深く吸い、静かに息を吐いた。痺れていた手足に血液が行き渡るような感覚を覚える。苦しさも、痛みもない。肘をついて上半身をゆっくりと起こす。

 その様子を眺めていた金髪の少女は、満足げに頷いた。


 「どうやら問題なさそうだの。ま、ちと心臓が潰れたくらい、このシーファさまにかかれば擦り傷のようなものじゃ」


 ふん、と息を吐き、純白の長い装束の胸を張る金髪の少女……シーファの顔を不思議そうに見て、それから左右を見回し、ハルトはしばらくぼうっと何かを考えていた。が、不意に大きく目を見開き、だん、と手をついて立ちあがろうとした。途端にがはっと大きく咳き込み、胸を抑える。

 シーファは駆け寄り、右手をハルトの首筋に当てる。袖口から覗く彼女の腕に薄く紫色の複雑な模様が浮かび、その色が薄くなるに連れてハルトの呼吸が落ち着いてゆく。


 「思い出したのか。大丈夫じゃ、おぬしらを襲った獣器体ビーストはすべて排除した。おぬしの友人らもみな、無事じゃ」

 「……僕、魔物に、襲われて……ころ、され……」

 「ああ、殺されかけた。というより、生物学的にはいったん、死んだ。が、それを言うならわしも何度も死んでおるゆえの。気にするな。まあとにかく、ミディアの要請でな、緊急回収した。おぬしと、ミディアをの。そしてここで蘇生したというわけじゃ」

 「……あなた、は……ここは」


 ハルトが肩で息をつきながら小さく問うと、シーファはミディアに振り返った。ミディアは手を胸に当て、眉根を寄せて、頷いた。シーファは表情を和らげ、それからハルトの目を真剣な眼差しで見つめた。


 「のう、ハルトくん。おぬし、どうしたい」

 「……どう、って」

 「今なら、どちらも選べる。ひとつ。なにもかも忘れて、楽園アース……元の世界での暮らしに戻る。ふたつ。すべての真実を知り、受け入れ、あるいは抗う。どちらでも良い。誰も責めぬ。おぬしの自由じゃ」

 「……僕……は……」


 ハルトはシーファの目を避けるように視線を落とし、しばし迷って、小さく声を出した。


 「……戻り……たい」

 「……そう、か。そうじゃの」


 シーファは大きく息を吸い、吐いた。それでも笑って、ハルトの肩をぽんぽんと叩いた。


 「すまなんだの。いろいろと、怖い目に遭わせて。ミディアががさつなおかげでの。じゃが、何度か接吻もできて、良かったではないか、はは」


 明るい調子で声を出すが、ミディアは俯いたまま反応せず、ハルトも黙っている。シーファは後頭部を掻いて、ふうとため息をつく。


 「……わしの責任で、おぬしを戻す。ミディアに送らせよう。迷彩降下軌道シャフトを使うゆえ、ちと元の住まいから離れたところに降ろすぞ。それと……降りる時に、記憶はぜんぶ、消させてもらうでの。ここのことも、ミディアのことも」

 「……」


 ハルトには、実のところ何を言われているのかまったく理解できていない。が、とにかくこれ以上、未知のこと、不安なことに出会わなくて済むと捉えて、頷いた。

 その横顔をミディアがじっと見ている。ハルトに声をかけようとして、断念し、唇を噛んで俯いた。

 シーファはいくつかの機器を操作してハルトの状態を確認し、心身が安定した時点で、彼をカプセルから下ろした。立ち上がるまでしばらく時間を要したが、それでもすぐに歩けるようになった。衣服はなにやら薄いものを着させられていたが、シーファは着替えを差し出した。竜祈師校の制服。魔物の襲撃で傷んだはずだが、新品の状態で手渡された。


 「……じゃあ、行こうか」


 着替えたところで、ミディアが歩み寄った。伏せていた顔をハルトの前で上げる。くしゃり、と、不器用な笑顔を浮かべてみせた。


 「……いろいろ、ごめんな。巻き込んじまって。でも……さ」

 「……」

 「あたし、な……」


 が、言葉はそこで止まった。

 ぴいん、という音と共に、何もないと思われた空間に小さな光の線が走る。線はつながり、扉のようなかたちとなり、静かに開いた。

 人影が立っている。三人だ。

 扉の向こうはこちらよりさらに明るい。その光を背に受けて人影が入ってくる。中央の男は、ミディアより頭ひとつぶんほど背が高い。


 「ここはわしの執務室ラボじゃ。入室を許可した覚え、ないがの、議長」


 シーファが鋭い声を向けるが、議長と呼ばれた中央の男は気にする様子をみせない。短く整えられた銀髪、淡い青の瞳。ハルトに薄氷のような視線を向けながら、ゆっくりと歩み寄る。


 「目覚めたのなら、なぜ報告しない。シーファ・エノステア長官」

 「いま覚醒したばかりじゃ。動かせんぞ、無理をすれば心臓が止まる」

 「構わん。止まれば、また動かせばよいだけのこと」


 平然と言葉を吐いた議長をミディアは睨みつける。が、そちらに顔を向けることもせず、彼は抑揚のない声を出した。


 「エノステア第三部隊、コード二百十八。君の軽率な行為が招いた結果がどれだけ重いものか、理解しているか。被験体を危険に晒し、みすみす失うところだった。本来ならただちに廃棄処分となるところだ」

 「……」


 ミディアは唇を噛み、ぐっと頭を下げた。議長はちらと横目を彼女に向けて、それから側に立つ二人に向けて短く指示を出す。


 「連れてゆけ。油断するな。被験体は竜核コアとの融合を果たしている。また、逃げられるぞ」


 そう言い、ハルトに向けた冷たい表情に、小さな侮蔑の色を加えた。


 「こいつの、母親のようにな」


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