第8話 鼓動の停止
じじ、と、何かが焦げるような、爆ぜるような。
不安を煽る小さな音を伴い、周囲の空気がハルトの右腕に凝集する。
頭上を覆う暗い霧が彼の指先を目指して流れ込んでくる。
「……おい……なにするつもりだよ」
ナダヤの問いには答えず、ハルトは詠唱に似た言葉を送り出す口の角を、ゆっくりと持ち上げてみせた。頬に押し上げられるようにその目が不自然に撓み、歪んだ半月のかたちとなる。
「……だめ、だ……め、さませ……」
ミディアの苦しげな声。その背に立つ三枚の黒い羽根が、相互に雷鳴のような小さな光を交換し始めている。ぶぶん、と、小さく震えている。
はじめはハルトのすることを眺めていた生徒たちも、互いに目を見合わせ、ゆっくりとナダヤから遠ざかる。鋭敏な生徒は、踵を返して走り出している。
『
ハルトの脳裏にだけ響く、静かなミディアの声色。彼女の口が動いているのではない。その処理機構の稼働をハルトが強制しているのだ。ミディアにも、そしてハルト自身にとっても無自覚なままで。
『四』
指先の蒼い光が強くなる。ハルトの薄い笑いが照らされる。
『三』
ミディアの全身を蒼い燐光が覆う。ナダヤは後ずさり、足をひっかけ、転倒した。ハルトの指先がやや下に方向を変える。その動きに、ナダヤははじめて、ひ、という恐怖の声をあげた。
『二』
そのとき。
ばん、という鋭い音とともに周囲が閃光に包まれた。ハルトの両腕が弾き飛ばされ、天を向く。
同時に、激しく軋むような音。
ハルトの腕から直前の閃光よりはるかに強い光が上空に飛んだ。その光量は、周囲が瞬時、暗転したかに思えるほどだった。
光を放った反動で、ハルトは大きな手のひらで叩き潰されるように地に転がった。直後に、上空で低く鈍い破裂音が轟く。近隣の森から鳥たちが一斉に飛び立つ。
「……なにをした!」
叫んだのは、倒れたハルトの横に走り寄った風の房の教官だった。他の三つ、光と水、土の房の教官も続いている。
ぼうぜんとしているハルトの横に膝を立て、胸ぐらを掴み、引き上げる。
「あの膨大な魔式
ハルトは魂が抜けたような表情で空を見ている。その頬を、教官は平手で打った。ようやく焦点を結んだハルトの目が教官を捉える。次いで首をまわし、ミディアがうつ伏せに倒れていることを発見した。
身を捩り、教官の腕から抜け出る。這うようにミディアに近づき、苦しげに激しく上下するその背に手を置く。黒い羽のようなものはすでに失せていた。
「その生徒が……ミディアくんが、関係しているのか」
教官がハルトの背に問いを投げるが、ハルトは目に涙を溜め、くしゃりと顔を歪めたまま、頭を振るだけだった。
教官は歩み寄り、ハルトの肩に手をかけ、振り向かせようとした。
と、その時。
「……あれ……は!」
別の教官の叫び声。その場の全員が顔をあげ、見回す。
教練場の奥、試技の的が並ぶ先には、森がある。森は丘に続いており、なだらかな登りとなっている。
その斜面で、何かが動いている。
木々に見え隠れし、うぞうぞと動くそれは、やがてその姿を木立の途切れた場所で晒してみせた。
「……魔物だ!」
無数の細く長い脚、毒々しい紫と赤の縞を刻んだ丸い体躯。大人の男の身体ほどある巨大な蜘蛛というべきものが、教練場のふちに降り立った。
鋭い牙をもたげ、威嚇するように空を仰ぐ。
「緊急討伐発令、実戦許可生は各自展開! それ以外の生徒は退避せよ!」
風の房の教官が叫ぶと同時に、魔物は小さく屈み、どんと踏み切った。百歩以上の距離があったにも関わらず、間合いは数拍で詰められた。
跳んできた先には、ハルトがいる。
が、横に立つ教官がすでに防御魔式を展開している。がん、という衝撃音とともに進行を止められた魔物の横腹に、左右に展開していた生徒たちが各自の攻撃魔式を射出する。いくつかは命中したが、魔物の動きは止まらない。脚を振り上げ、突き刺すように鋭い爪を送り出す。防御していた生徒数人がそれにより弾き飛ばされた。
それでも、その間に生徒と教官が同時に放った攻撃がふたたび命中した。魔物は動きを止め、ふらりと揺れて倒れた。
ふう、と息を吐く教官たち。
が。
「……なんだ、ありゃあ……」
生徒のひとりが指差す。
先ほど魔物が現れた木立の間で、再び、影が動いている。
が、先ほどとは状況が異なった。
ずざり、と、教練場に降り立つ魔物。
続いて、別の個体。そしてもう一体、また、一体。
無数の魔物が、森から湧いている。
百を越えていると思われた。
浮き足立つ生徒たち。座り込むもの、走り出すもの。
教官は大声で指示を送るが、多数が恐慌を来した現場で、なお戦おうとするものは多くはなかった。
「……くそっ……呼んじ、まった……か」
怒号と悲鳴のなか、ミディアが震えながら手をつき、半身を起こす。ハルトがその背に手をあてたまま、ぐずぐずと泣いている。
「……怪我、ないか」
ミディアが声をかけると、ハルトは頷きながらしゃくりあげた。
「ごめ……ごめん……僕……なにを……」
「……呑まれたんだ、
ミディアはそこで言葉を区切り、唇を噛んだ。
「……それに、ハルトは、まだ、あたしを……乗りこなせない」
「……」
「セキニンとるのは、あたし、だったね」
そういい、にへら、と、状況に相応しくない笑みを浮かべた。わずかの間、ハルトの顔をじっと見る。
それから拳を地につき、膝に手をおいて、ぐらりと立ち上がった。遠くに群れて揺れる禍々しい波を見据える。
目を瞑り、なにごとかを口のなかで呟く。
と、その姿が再び淡い燐光に包まれた。
髪がふわりと持ち上がる。
「……見てて」
前を向いたまま、ミディアは小さく呟いた。
その制服の内側から光が溢れ、やがて全身が光に覆われる。光は首から上り、やがて顔を、そして頭頂までを覆った。覆われる直前にミディアは、ハルトに振り返って、すこし寂しげに微笑んだ。
やがて光が収まる。
光が呼んだのだろうか、薄い霧のようなものが漂っている。
その霧を裂くように、ばずん、と、黒い尾が地を叩いた。
尾には、鈍い黒鉄色に輝く刃のような棘が並んでいる。その棘は背鰭のごとく背に繋がり、小さな角を持つ頭部まで続いている。
頭部は、竜。
ミディアと同じ背丈。全身を黒鉄の鱗で覆われたその竜は、二本の足でハルトのそばに立っている。固く噛み合わせた牙。肘と指先には鋭い爪。魔物を見据える鋭角の目は、蒼く静かに輝いている。
『……これが、あたし。対
ハルトの脳裏にミディアの穏やかな声が届く。
と、その時。
緩やかに、無秩序に移動していた魔物の群れが、突如、耳障りな咆哮をあげて突進を開始した。跳躍するものもある。
そのすべてが、ハルトを目指していた。
呼吸の一回分もない。
ハルトの頭上に複数の黒い影が到達する。周囲に残る生徒は多くはなかったが、ハルトを含め、誰も動けない。声すら、出ない。
どん、と地を蹴って、竜が跳んだ。
魔物が吐く瘴気と砂塵とで霞んだ空を背景に、竜は空中の魔物の群れの中心で舞った。目で追うことができない速度で回転し、腕を振り、ずどんと着地した。
切断された魔物の残骸は遅れて降ってきた。
片膝をついている竜は、く、と顔をあげ、さらに殺到する魔物たちを睨んだ。牙を見せ、ぐるる、と唸る。
『指一本、触れさせねえ。ハルトは……あたしのものだ!』
再び踏み切った竜は、姿を消した。消したと見えたのは、瞬時に百歩ほどの距離を跳躍したからだ。失せた影の後に空気が流れ込み、ごうと鳴る。地が揺れる。
竜は魔物の群れの中心に突入し、すぐに飲み込まれ、見えなくなった。
「……なんだ……なんなんだよ、あれ……」
ハルトの背、少し離れたところで、ナダヤが声を出した。腰を抜かして逃げ遅れ、ミディアのことを一部始終、目撃していたのだ。
呆けたような表情で、ばけもの、ばけもの、という言葉を繰り返している。
ハルトも似たような表情だったが、それでも頭を振り、立ち上がった。ナダヤに歩み寄り、手を取る。
が。
「……あ」
その背の、向こうに。
ぎぎぎ、と石を擦り合わせるような不快な音をたて、一体の魔物が浮いていた。
半透明だ。複数の触手を持ち、木の根のようなものを生やした、巨大な眼球。周囲の砂塵を集め、ゆっくりと実体化しつつある魔物は、すでにハルトたちを支配下においているというように、悠揚に近づいてくる。
ナダヤは振り返り、わずか五歩ほどの距離のそれを見て、昏倒した。
ハルトはその横で、震える腕を上げる。
右手の指二本を、赤く血走る眼球に向ける。左手を添える。
「……おおかぜ……さうぇい……らじりおす」
詠唱を開始した。風刃だ。先ほどミディアから教わった文言を、ハルトは記憶している。風が集まる。指先が発光する。
しかし、射出には至らなかった。
『……ハルトぉっ!』
ハルトのすべての身体情報は、ミディアに共有されている。心臓の鼓動も、血圧の上昇も捉えている。ミディアに備わる機能は、それを可能とする。
それゆえに、彼が目撃したものの意味が伝わり、追い縋る魔物の群れをミディアは振り切ったのだ。
が、跳躍の途上で、その信号が途切れたことをミディアは感知した。
胸を触手に貫かれ、背から赤黒い鮮血を迸らせたハルトの姿を視認し、ミディアは絶叫した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます