第4話 セキニン、とれよな


 蒼い髪を揺らして、少女はハルトに振り向いた。

 手を差し出す。

 ぐい、と引かれ、よろめいた。その身体を、少女は抱きしめるように受け止めた。

 顔が近い。

 鼻が触れるような距離。

 

 ね、ハルト。

 あたし、どう見えてる……?


 囁くように問われ、彼はわずかに息を止めて言葉を選んだ。

 目を伏せ、ためらいながら声に出す。


 ……き、きれい……だよ。


 彼女は嬉しそうに笑い、目を半月に撓めた。口元を大きく歪ませる。


 そう。よかった……じゃあ、こんなあたしでも……。


 目が光る。歪められた口の端が裂けてゆく。牙が覗く。

 肌が変色し、黒く鈍く輝き出した。

 頬に傷が浮き、割れて、鱗となってゆく。

 その指先の鋭い爪が背に食い込むのをハルトは感じ、戦慄した。


 ……受け入れ、て、くれ、る……?


 言葉の最後は、獣の唸り声に変じていた。

 大きく開かれた顎。

 鋭い牙がハルトの白い首筋に突き立てられた。


 「わあああああっ」

 「ひやあああ」


 ばん、と毛布を跳ね除けて、ハルトは絶叫した。

 ちょうど彼を起こしにきた男児はその勢いに仰天し、よろけて尻餅をついた。


 「な、なんだよお、ハルト兄ちゃん……びっくりさせないでよ」


 ハルトは寝台の上で大汗をかき、肩を上下させて荒い息をしている。

 ようやく焦点のあった目を左右にあわてて走らせて、窓から差し込む早朝の日差しと、横で彼を見上げている男児の顔を確認し、おおきく息を吐いた。


 「……夢、かあ……」

 「夢、見てたの。ずいぶんうなされてよ。ね、今日、罰当番でしょ。もう起きないとまた寮長せんせいに怒られるよ」


 その言葉で、ハルトは昨日のできごとが夢ではなかったことを確認し、無意識に頭に手をやり、肩を触った。

 

 感触を覚えている。

 包まれているような、護られているような。

 明滅する光、見知らぬ文字。

 目の前の怪物。

 そして……蒼い髪の。


 「……大丈夫?」


 男児につつかれ、ハルトは我に返った。


 「あ、ごめん……いま起きる」


 ハルトは男児の頭に軽く手を置き、礼を言って起き上がった。毛布をくるくると畳み、寝台の下から服を取り出して着替えて、三階建ての慈善院じぜんいんの階ごとにふたつずつ、つまり六箇所にある手洗いの掃除にとりかかった。

 まださほど気温の高くない季節だが、動くうちに汗ばんでくる。額の汗を手の甲で拭う。怖い寮長にどやされないように細心の注意を払って掃除を続けながら、ハルトは昨日のことを回想している。


 蒼い髪の少女……ミディアは、彼が意識を取り戻した時には姿がなかった。

 まだ燻っている草木のなかで半身を起こして見回したが、ミディアも怪物も、あるいはその痕跡も残っていない。

 しばらく呆然としてから立ち上がったが、ちょうどそのときにがやがやと人影がやってきた。村の男たちだった。ハルトも後から聞いた話だが、丘の向こうで大きな音が立て続けに起き、なにやら山火事のように空が赤くなったから村のものたちは恐れ、ようやく落ち着いてからそっと様子を見に登ってきたということだった。

 見つかるとまずいと判断し、ハルトは彼らと逆の方、つまり村から離れる方へ走って逃げた。結果としてずいぶん遠回りをする羽目となり、加えて森の中で道に迷い、慈善院に帰り着いたときにはもう月が中天だったというわけだ。


 寮母たちに問い詰められたが、なにがあったかは言わなかった。カゾエダ岳での騒ぎとなにか関係があるのかととうぜん訊かれたが、とぼけた。

 もっとも、記憶の内容を正確に説明してもとうてい納得は得られなかっただろう。

 説教は就寝時刻まで続き、最後に懲罰として翌朝のすべての手洗いの掃除を言いつけられてようやく解放されたハルトは、着替える余力もなく、そのまま寝台に倒れ伏して朝を迎えたのだ。


 「……みでぃ、あ……」


 掃除道具を動かしながらハルトは無意識に呟き、頬が熱くなるのを感じて狼狽した。

 左手をじっと見る。

 白い世界で彼女の背に手をまわしたとき、その甲に触れた彼女の髪の感触が鮮明に残っている。

 蒼い瞳で彼を見つめながら言った、彼女の言葉。

 

 来て……ハルト。あたしの、中に。


 道具をぽろりと手から落としてしまい、ハルトは慌てて拾い上げた。ぶんぶんと首を強く振って無心となり、あとは掃除に専念した。

 六箇所の手洗いを磨き上げ、食事のしたくと片付けに参加し、年少の子らの身支度などを手伝って、ようやく自身の学校の準備を整えて出発できたのは、普段より少し遅い時刻だった。

 そうなると昨日のようにナダヤに出くわすことが心配されたが、いなかった。ハルトはほっと息を吐いた。よかった、今日はそう悪くない日になりそうだ。


 ハルトは、竜祈師校に通っている。

 竜祈師校、すなわち竜祈師、魔物に対抗するものを育成する学校。


 長い間、ひとびとが知る限りの有史以来、世界は平和だった。どこにいっても温和な気候と豊かな実りは、争いも病も、生まなかった。

 また、社会の運営に資源を多く要さなかったことも平穏の理由のひとつである。資源は、魔式が代替した。

 魔式。この世界では誰もが持つ力。

 火、風、水、土。四つの属性に対応した小さな異能は、個人の特性と才能にもよるが、いずれも大きい力ではない。炭を熾し、果実を落とし、畑に水を呼び、苗代を造る、そういった力だ。

 人々は天が与える恵みを、天が与えた魔式で整え、天が定めた寿命をごく静かに平穏に送り、閉じてきたのである。


 が、そうしたのどやかな平穏が、破られた。百年ほど前のことだ。

 魔物。

 あるとき唐突に現れ、町で、森で、人々を襲うようになった、異形のもの。獣に似たものもあり、直視に耐えない形のものもある。それを人々は、魔物と呼んだ。どこから現れ、なんのために襲うのか、誰にもわからなかった。

 平穏のうちに暮らしてきた人々の手には、武器と呼べるものがない。薪を割る鉈、調理のための長い刃。初めは通用したそうした備えも、やがて無功となった。魔物は徐々に凶暴となり、大きくなっていった。


 これに対抗するために、魔式の強いものが集まった。生活のためにしか用いなかった魔式を武器とするために研究し、訓練した。やがて特に強いものが放つ魔式は、離れた場所の魔物を両断するほどの威力を発揮するようになった。

 こうして、竜祈師が生まれた。竜に祈るもの、という意味である。

 世界を産み、育て、いまは地の果てに眠るという伝説の大竜。

 魔式はその大竜がもたらすと考えられていたのである。


 竜祈師の誕生から数十年、技術の継承のために竜祈師校が設立された。ハルトが通う学校も、そのうちのひとつである。

 在校生は一校につき五十人ほど。年齢は十三歳から十八歳まで。光、風、土、水の四つの魔式に対応した組に分かれ、魔物に対峙するための理論と実技を学ぶ。

 入学、在学にあたり費用は不要とされている。そして一定以上の成績を残せれば、在学中から給金が支給され、卒業後には竜祈師として採用される。男女や家柄での扱いの差もない。ただ、入学にあたっては一定の読み書きの能力が必要とされたため、しぜんと教育を施す余裕がある家の子が集まることとなっていた。

 

 もっとも、慈善院の場合は事情が少し異なる。

 身寄りのない子どもたちを育成するための慈善院は、公共の費用で運営される施設だが、予算は潤沢ではない。預かる子どもが少ないうちは良いが、多くなるととたんに苦しくなる。そして、ハルトが暮らす院も、予定された人数をとうに超過している。

 だから、寮生が十三歳、すなわち入学できる年齢に近くなると、多少の学問がある寮母たちが寄ってたかって読み書きを叩き込み、竜祈師校に送り込んで、一刻もはやい独り立ちを目指すのだ。

 ハルトもそうやって、学校に放り込まれたくちだった。


 ハルトはいつものとおりなるべく目立たぬように校門をくぐり、質素だがしっかりした作りの石組みの校舎に入った。いじめっ子のいる光魔式の組、光の房の前は早足で通過し、自分の所属する風の房に入った。

 十五人分の机と座席、教壇がある。そしてその教壇には、なぜかすでに担当教官が立っていた。生徒たちも着席している。

 まだ始業時刻には間があるはず、とハルトは首を捻りながら自分の席についた。となりの生徒に、どうしたの、と小声で聞いたが、相手も首を捻ってみせた。

 彼が着席したのを見届けて、教官は咳払いをし、胸をはった。


 「おはよう、諸君。始業前だが、実は急遽、新入生がこの組に加わることとなったので、その紹介だ……入りたまえ」


 教官が声をかけると、廊下とは反対側、教官たちの部屋に通じる扉が開いた。真新しい制服を身につけた生徒が入ってくる。女子だった。

 蒼い髪を揺らし、悠然と教壇のほうへ歩み寄る。教官の横に立ち止まって教室のなかを見渡した。

 ハルトは、硬直していた。

 教室のなかを見渡す彼女の蒼い瞳が、彼の上で止まった。


 「……あは。みいつけ、た!」


 小さく叫んで、彼女は走り出した。教官が止める間もない。すぐにハルトの前に来る。彼は逃げようとしたが、失敗した。彼女の両手が、ハルトの頬を包んでいたからだ。そのまま顔が近づけられる。

 生徒たちのざわめきのなかで、ふたつの唇はゆっくりと離れた。

  

 「……セキニン、とれよな。もう、あたしだけの身体じゃねぇんだ」


 石と化したハルトに潤んだような目を向けながら、ミディアは小さく呟いた。

 

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