第3話 あたしの中に
ぬらぬらと光沢をもつ無数の鞭、あるいは触手。
そのうちの一本が振り上げられた。
ゆらり、と揺れる。尖った先端がわずかに赤く発光している。
その先端は、ハルトに向けられている。
距離、わずか身長の五つ分ほど。
「……ば、か……に、げろ……」
少女の声は掠れている。
それを背に受け、横たわる彼女を庇うように立ちながら、ハルトは左の手のひらを右の手の甲あたりに添えた。そうして腕をまっすぐ前に伸ばす。そのまま薬指と小指をゆっくり畳み、人差し指と中指を、相手に向ける。
その指は、震えている。
詠唱の声も同様だ。
「……おおかぜ、そらをつらぬきて、ほしをのみこみて、ちをさきて……」
授業で覚え、教練でなんども試した、風刃。風の刃で相手を貫く。風の力を有する竜祈師が使用する、もっとも基礎的で簡易な、しかし効果的な魔式だった。
自宅である慈善院に戻ってからも、部屋でなんどもなんども、何千回も練習した。だからハルトにとって、詠唱を誤ることなどありえない。
膝が揺れ、足首ががくがくとなり、前に伸ばす腕が視認できるほどにおおきく震えている現在でも、だ。
「わがいにそいて、てきをさき、てきをなぎ、てきをくらえ……」
自分がなにをしようとしているのか、本人もわかっていない。
怪物は見上げるような大きさとなっている。不快な唸り声をあげ、ごりごりと地面をこすりながら移動してくる。
逃げるべきだ。危険だ。勝てない。この人の言うとおり、戦ってはならない。
五感すべてが退避を告げている。
だが、うっすらと涙すら浮かべた彼は、詠唱を止めない。
伸ばした指先の周囲の空気が動く。
ぱち、と、小さくなにかが弾ける。凝集した空気が帯電したのだ。やがて空気は小さな渦となり、腕の周囲で回転しはじめる。渦が前方へ移動する。指先に収斂する。
が、そこまでだった。
渦が消える。
風刃は射出されることなく、散逸した。
いつものとおり、何千回もの練習で経験したとおり、彼は、失敗した。
「……あ……」
呆然と指先を見つめるハルト。
と、黒い怪物の触手の先端、光を帯びていた部分の色が変わった。
暗い赤が薄い桃色となり、やがて白となる。
と同時に、じじじ、と、何かを焦がすような音。
「……まず、い……はや、く、はやく、に、げ……」
少女は身を起こそうとするかのようにわずかに動き、がくりと再び伏せた。腕を動かすこともできないようだった。
ハルトは動けない。
腕を前に突き出したまま、その姿勢で、涙をこぼした。
触手がいちだん高く振り上げられる。
周囲の空気が歪む。
凍りついたようにそれを見つめるハルトの口が、再び動いた。
「……れいぜり、おん……」
詠唱ではない。
意識してのものでもない。
「……れいぜりおん、うぃじおす、れじりおす……」
小さい頃からそうだった。
遊んでいて怪我をして、あるいは森で道に迷い、あるいは風邪をこじらせて苦しかったとき。慈善院でひどく叱られた夜。学校でいじめられた、帰り道。
いつでもその歌は、彼の口を突いて出た。
教えてくれたのは、母。
もう顔もほとんど覚えていない、彼が四歳の時に空に昇っていった母。
「らでぃおす、じお、らでぃあ、でぃすたりおん……」
ただ、ただ、暖かかった膝の上。
髪を撫でる柔らかな手の感触。
この歌はね、あなたを護る。
あなたを、導く。
大事になさい。
彼がゆいいつ覚えている母の言葉は、歌とともに贈られたものだった。
その、とき。
「……あぁっ……!」
少女が背を丸め、声をあげた。悶えるように手を震わせ、だん、と仰向けになる。目を見開いている。銀を帯びた蒼い瞳に光が宿っている。表情は、驚愕、あるいは恍惚。
「ん……あぁ……う」
うめきながら背を仰け反らせ、なにかを掴もうとするように指を撓めている。激しく首を左右に振る。
その全身が薄く光を帯びる。
白い光沢のある素材の装束を覆うように光があふれる。
ハルトはわずかに彼女の方を振り返って、刹那に、呑まれた。
その光に、その白に、包まれた。
あまりの眩しさに目を閉じている。
が、頬を柔らかく撫でる感触に、ゆっくりと瞼を上げた。
光に包まれていると感じていた。しかし、それは誤りだった。
彼自身が光であり、彼の頬に手を差し伸べている存在が光であり、あらゆるものが光であった。
音はない。
絶対の静寂のなかで、無限の白のなかで、しかしハルトは、怯えていない。
目の前の蒼い髪の少女を見つめている。そして彼女も、気の強そうな切れ長の大きな目を、彼に向けている。ハルトの頬にあてていた手のひらをゆっくりと下ろしながら、夢を見ているような表情を崩さぬまま、彼女は小さく囁いた。
あなたは、だれ。
ハルトも同じ問いを返す。
きみは、だれ。
あたしは……あたしは。
彼女は胸に手のひらをあて、わずかに俯いた。
あたしは……ミディア。
彼女の答えを理解できぬまま、今度はハルトがミディアの頬に手を伸ばした。なぜそうするのかもわからない。それでもそうすべきと思えたし、自然だと信じた。
ミディアは、逃げなかった。彼に頬を包まれたまま、再び目を閉じる。
……あなたの名は、ハルト。いま、わかった。感じた。
そうだよ。僕は、ハルト。ハルト・ラディシア。竜祈師校、風の房。
ハルト……ハルト。あなたが……連れていって、くれる、の……?
問いを投げられ、彼はわずかに迷った。が、回答がすでに自身の胸に置いてあったことを思い出し、それを取り出した。
そうだよ。君は、僕と……。
ミディアはぴくりと動いて、小さく唇をあけ、すうと息を吸った。目を開ける。両手を上げ、ハルトの背にゆっくりと回した。
来て。ハルト。あたしの中に。
彼も同じ所作をもって応えた。彼女の背に回した手の甲に、柔らかな髪がさらりと触れた。その感触は、先ほどのミディアの
ざあっ、と、風が吹きとおるような音。
同時に光が失せた。
白が消え、情景が戻る。
怪物の触手の射出は、まさにそのときだった。
音の速度の概念をハルトは持たないが、射出速度はその倍に至った。焼灼の攻撃が通らないと判断した怪物は、直接に対象を貫く選択をとったのだ。
触手は大気との摩擦により瞬時に高温を生じ、爆ぜた。
次の瞬間にそれは対象を貫くか、あるいは破砕し、地に刺さるはずだった。
が、そうならない。
竜が、それを受け止めていたからだ。
遅れて到着した凄まじい風が周囲の木々を薙ぐ。
その暴風に長い尾を揺られながら、黒い竜はふたつの足で立っている。
全身を覆う黒鉄色の鱗。その隙間からわずかに蒼い燐光が漏れ出ている。獣というよりは甲冑をまとった戦士にちかい姿のそれは、ハルトが立っていた位置に、その倍ほどの体躯を示し、鋭い眼光で怪物をまっすぐ見据えていた。
右腕が、怪物の触手を掴んでいる。
竜が力を込めると、触手は握りつぶされ、ちぎれて落ちた。
怪物は悲鳴のような声をあげ、しかしすぐに無数の触手を振り上げた。竜は低く構えたまま動かない。触手の先端が発光し、やがて一斉に射出された。竜の正面、あらゆる方向から斬撃が飛来する。
きん。
竜がわずかに動いた、かに見えた。
次の瞬間、触手はすべて切断され、どどっと音を立てて地に転がった。
竜の両腕の背に、鋭い刃が生じている。
優れた観察者がもしここにあったとすれば、竜が触手の速度を超える速さで半身を回転させ、あらゆる斬撃を無効化したことを捉えたはずである。
怪物はいちど触手を引き、身体を丸めた。球にちかい形状となる。
……来るよ、ハルト。
ハルトは、薄く目を開けている。複雑に組み合わされた装置が彼を覆っている。目の端で小さな灯りが明滅し、そして彼の正面には多数の文字と記号が浮いている。どれも読み取ることができない。見知らぬ表記だった。
それでも、いまの彼にはわかっていた。
自分がすべてを操ることができることを、ミディアとひとつになったいま、二人に恐れるべきものはなにもないということを。
うん、わかってる。じゃあ、いくよ。
頭のなかに直接届いたミディアの呼びかけに応え、ハルトは思念を集中した。
詠唱に似たミディアの静かな声がそこに添わされる。
外郭相対座標入力、三十五面コンマ七六五、補正マイナス三六六。
ハルトの視野のなかで、怪物がちいさく震え出した。同時にぴぴっという音。怪物の映像の周囲に複数の記号が浮かぶ。ミディアが彼に警告を送ったのだ。
ハルトは、すう、と息を吸い、
彼とミディア、すなわち黒い竜は、姿勢を低くし、右足をぐっと引いた。
怪物は一瞬、縮小し、ばん、と弾けるように裂けた。膨大な熱量が竜に向けて射出される。竜は、そこに向けて踏み切った。姿が消える。
次の瞬間、怪物の背で、竜は片膝をついていた。
と、炎と怪物とが、割れた。
割れて、小さな穴に向けて吸い込まれるように渦を作りながら形象を失い、やがて消滅した。
と同時に、竜が淡い光に包まれる。
輝きが失せると、その姿も消えていた。
代わりに、ふたり。
意識を失って倒れているハルトとミディアの手は、互いに重ねられていた。
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