第2話 邂逅
ずずん、という重い音。
地面が揺れ、木々がざわめく。
その振動で、木の根に乗り上げるかたちになっていたハルトの頭ががくんと落ちる。ううん、と唸って、彼はうっすらと目を開けた。
肘をついて身体を起こす。
風景が霞んでいた。
巻き上げられた土埃がまだ収まっていないのだ。
それでも彼の視界は、扇のようなかたちに木々が薙ぎ倒されていること、その中心になにか黒い塊があることを捉えていた。
塊は、大きかった。
どろりと濡れたように見える表面。いくつもの隆起が見える。黒い粘土を地面に叩きつけたような、あるいは器を伏せたような形になっている。その中心は、彼の身長の倍ほどもあるように思えた。
その塊が、ときおり動く。震えるように動くたびに地面が揺れ、その質量が膨大であることを雄弁に説明している。
「……なんだ、これ……」
ハルトはひとりごちた。逃げようという気は起こらない。彼ののんびりとした性格もあるし、危険を感じるには状況があまりに突飛すぎた。
彼は立ち上がり、あまつさえ、塊に向けて足を踏み出したのである。
膝まである下草を漕ぎながら、わずかな傾斜を塊に向けて降りてゆく。
と、なにかが足先に当たった。
「……あ」
思わず声を上げる。
人間、だった。
手で草を払い、かがみ込む。
人影は動かない。うつ伏せに倒れていた。片腕を頭のほうに伸ばし、もう一方を身体の下に巻き込んでいる。
蒼い長髪が背に乱れている。茜を帯びはじめた空の下でも、その蒼がわずかな銀色を含んでいることが見てとれた。
ハルトはそばに膝をつき、その首筋に手のひらを当てた。
「わあっ」
叫んで、尻餅をつく。
首筋はひどく冷たかったのだ。
「……しし、し、死んでる……?」
ハルトは人間の死に立ち会ったことはなく、遺骸に触れたこともない。が、生きている人間とそうでないものを判別することは可能だった。
「……ど、どうしよう……あの黒いやつにぶつかって、死んじゃったのかな……む、村に、連れてってあげなきゃ……」
このあたりの丘に出入りするのは地元の人間、特に彼の住む慈善院がある村の者が多かったから、見覚えのない姿ではあるが、おそらく果実を採取に来た村人が巻き込まれたのだろうとハルトは判断したのだ。
しばらくためらっていたが、やがて腰を上げ、ふたたび人影の横に膝を立てた。手を肩の下に差し入れる。冷たい感触が彼の手を震えさせたが、勇気を振り絞って力を入れ、仰向けにさせようとした。
が、ひどく重い。
「……あれ、よいしょっ……え、動かない……あれ、うぅ……」
顔を真っ赤にし、両手を使って、膝を相手の下に入れて、なんとかごろりと上を向かせた。
髪がさらりと落ち、土埃をつけた白い顔が現れた。
女性だった。
年齢はハルトよりいくつか上だろうか。それでも、少女と呼んで差し支えない年頃と思えた。
血の気のない唇を薄く開けているが、呼吸している様子はない。髪と同じ蒼い眉を顰めるように寄せたまま動かない。閉じた瞼も震えることすらしない。
「……やっぱり、亡くなってる……」
ハルトは息を吐き、手のひらを組み合わせ、額をつけた。慈善院の朝礼で行う礼拝のやり方だが、この他に死者への礼儀を示す方法を思いつかなかったのだ。
しばらくそうしてから、もう一度、首の下に腕を入れた。
なんとか背負うことができないかと試行錯誤していたが、頭を持ち上げることすらできなかった。非力なハルトではあるが、さすがに同じほどの背格好の少女の首くらいは持ち上がりそうなものである。
彼は大汗をかいたのちに、ふええ、と声を出してふたたび座り込んだ。
と。
ときおり震えるように動いていた黒い塊が、大きく動いた。
伏せた器のようなかたちのそれが、徐々に中央の隆起を持ち上げてゆく。
ごりごり、と地面を擦る音とともに、なにか唸るような音も聴こえた。
ハルトが呆然と眺めているうちに、塊は、先端が流線型に膨らんだいびつな柱のような形をとった。その姿はちょうど、巨大な黒い花の蕾、というところだった。
蕾の部分がゆらり、ゆらりと左右に揺れている。
まるでなにかを探しているようだと、ハルトはぼんやり考えた。
そうしているうち、蕾の先端がこちらを向いた。
ぎぃ、という耳障りな音。
その音とともに、蕾の先端がゆっくりと割れてゆく。
何枚かの花弁のように先端が捲れ上がり、どろりと黒を帯びた桃色が覗いた。表面とおなじくぬらぬらと光っている。開いた花弁の中心は黒い穴。
その穴に、小さな光の点が浮いた。
点は徐々に大きくなり、揺れはじめた。
それでも、ハルトは動かない。
動けなかった。
彼の弱々しい本能がようやく危険を告げたときには、すでに射すくめられたように全身がこわばっていたのである。
「……あ……あ」
目を見開き、震え、それでも花弁の光から視線を逸せない。
強まった光がやがて回転し、渦を形成する。
輝きが彼の青白い頬を照らしだした。
光が矢となって射出される瞬間、ハルトは自分の時間が今日で停止するであろうことを理解した。
強い衝撃。
目を閉じる。
意識が消えるのを待つ。
が、消えない。
ゆっくり瞼を開けた彼が捉えたのは、空。
茜色の空が目の前にある。
びゅおう、と、風が顔に叩きつける。
視野がぐるりと回転し、地平線と濃い緑、そして赫い炎。
地面を見ている。
先ほどの巨大な黒い花が眼下にある。
ハルトは、空にいた。
さらさらと彼の顔に当たるのは、蒼い髪。
彼の身体を抱えて、先ほどの少女が跳躍していた。
「……堕ちるぞ。備えろ」
彼の耳の横で、彼女は声を出した。
苦しげに聞こえたその声とともに、彼らは落下を開始した。
ぶわりと浮き上がる髪。内臓が空においていかれるような感覚に、ハルトは叫び声を出した。
地面に激突すると思われた直前、彼らは下から噴き上げる風にあおられるかのように急停止し、そこでもういちど回転してから、どすんと落ちた。抱き合うように転がる二人。
ようやく停止し、ハルトは目をあけ、慌てて身体を離した。
相手は起き上がらない。仰向けに転がっている。が、目を開け、胸を上下させている。先ほどはたしかに生命を失っていると思われた彼女は、顔を動かさないまま、髪と同じ蒼い瞳をハルトに向けた。
「……逃げろ」
「……え」
「振り返るな。全力で走れ。そして告げろ。皆に……
「な、なに……」
「あの野郎、
そう言い、彼女はうめきながら肘をついて身を起こした。
身体にぴったり沿った光沢のある素材の服を着ている。だが、落下の衝撃によるものか、右腕の部分が破れて落ちてしまっている。
そこから覗く腕。ひどく傷ついている。皮が裂けている。
が、血が流れていない。
代わりに溢れてくるのは……銀色の、液体。
ハルトの視線が釘付けになる。
「……え……あの、それ……」
「見てんじゃねえ。いいから早く行け。次のがすぐに……」
しかし、言い終えられない。
ぎゃあ、という悲鳴のような音をたて、黒の花弁が大きく開いた。その縁が燐光を帯びる。光がゆっくりと明滅し、やがてその速度が増し、周囲の空気が歪んだ。音が止む。
瞬時、彼女はハルトに覆い被さった。
静寂ののちに、眩むような光芒。
彼女とハルトは凄まじい勢いで吹き飛ばされ、木立に激突した。
頭部を彼女の腕により覆われていたハルトは、傷を負っていない。それでも強い衝撃を背に受け、がはっと肺の空気をすべて吐いた。
爆ぜるような音。草木が炎上している。
ハルトは覆い被さっている少女の下から這いずり出た。
彼女の背は焼けただれていた。衣服は焼失し、首元に至るまで黒く変色した皮膚がめくれあがっている。その下に覗いているものは、だが、肉ではない。
銀の液体に満たされた、黒鉄色の、複雑に組み合わされたなにものか。
「……に……げ、ろ……」
彼女は軋ませるように首を動かし、ハルトを睨んだ。
「……も、う……防御、張れ、ねえ……はし、れ……」
そのとき、黒い花がふたたび動き出した。
花弁をゆっくりと閉じ、代わりに茎にあたる部分からいくつもの突起を生じる。突起は徐々に伸び、無数の鞭のようになった。
その鞭を手足のように用いて、ずるり、ずるりと、彼らのほうに移動してくる。
ハルトは本能的に、喰われる、と考えた。
倒れ伏している少女を見下ろし、自分の手のひらを見る。指先がわずかに震えている。その震えを潰そうとするかのように、ぐっと拳を握る。
「……お、い……なに、して……」
ハルトは、立ち上がった。
少女の足元に、黒い怪物に対峙するように。
風刃を呼ぶ詠唱をちいさく口のなかで呟いている。
その声もまた、彼の全身と同じように震えていた。
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