第一階層 楽園

第1話 ハルトの受難


 カゾエダ岳という名前だが、実態は丘である。


 その丘には果樹が自生する。

 季節になると、香りも酸味も強い紅い実がすずなりとなる。

 そしていまはまさに、その季節の只中だ。


 丘の中腹に突き出た岩に腰をかけているハルトも、だから、初夏の夕方のやや強い日差しを浴びて輝く紅色に包まれている。

 色白の頬に少し赤みが差しているのは、その紅が映ったためでもあり、また別の理由もあった。

 しゃくしゃくと音を立てて実を齧っている。彼のそう大きくない手のひらで包めてしまう程度の大きさではあったが、五つほど平らげると満足した。

 残った芯を行儀わるく放り投げると、濡れた指先をぺろりと舐めて、岩の上にごろんと転がった。


 よく晴れた空を、小さな鳥のつがいが互いに戯れながら飛んでゆく。

 それを目で追って、ハルトはひとつため息をつき、目を閉じた。


 「……帰りたく、ないなあ……」


 慈善院に戻れば、また叱られる。それがわかっていたし、腹も減っていたから、村にはまっすぐ戻らずここに来たのだ。

 叱られる理由も、腹が減っていた理由も、同一である。

 横においた背嚢の上に腕を乗せて、彼はもういちど嘆息した。


 運が悪かったのだ。

 となりの学級、光魔式を専門に学んでいる生徒たちのうちに、ひどく意地の悪い者がいた。入学式の折にハルトはその生徒に目をつけられ、それからことあるごとにちょっかいを出されている。今朝もそうだ。

 その生徒と取り巻き連中の通学時間はわかっていたから、ハルトは少しずらすように慈善院を出発するようにしていたのだが、今朝は院の用事で遅くなり、ちょうど人気のない木立のなかで鉢合わせてしまったのだ。


 意地の悪い生徒はナダヤという。竜祈師団に各種の装備を卸しているナダヤ商会の三男坊である。金持ちだ。上背はハルトよりあたまひとつ分ほども高く、腕力もあり、魔式の力こそそう強くはないが、ハルトよりは成績が良い。

 つまりハルトが持っていないものは、彼がすべて持っているのだ。


 おい、ハルト。賭けようぜ、昼飯。俺が勝ったら弁当、置いていけよ。

 ナダヤはそう言い、ハルトが返事をしないうちから背嚢を下ろした。取り巻きの一人がそれを受け取り、ハルトに向かって、早くしろよ、と声をかけた。


 ハルトは声を出せずに、ただただ、困ったように笑っている。

 慈善院で学んだことだ。

 抵抗するな。争うな。ただただ笑って、受け流せ。

 ハルトと同じように親を失い、家を失って、あるいは道で拾われたたくさんの子供たちのなかで上手に生きていくためには、それは破ってはならないルールだった。


 ナダヤは近くの細い低木を指差して、あれを撃て、なんでもいい、俺は光の矢を使うからな、と宣言した。ハルトの答えを待たずに腕をくるんと回し、指先をその木に向けた。ふん、と鼻をならすと、指先に生じた小さな光がぽんと撃ち出された。宙を飛んで命中する。木は指で弾かれたようにぷるんと震えた。

 

 どうだ、と、ナダヤは片眉を上げてハルトを振り返った。お前も、ほら、早くしろよ。

 ハルトは動けない。

 彼は攻撃の魔式を操れない。風の魔式の学級だから、使えるとすれば風刃か、風槍、というところだが、使えない。

 彼には魔式の力がほとんど発現していないのだ。

 十五歳だから、もう二年以上も竜祈師校に通っていることになる。学校は実技の他に魔物に関する学問の習得も重視し、ハルトはこれにある程度の成績を収めているから、かろうじて在籍を許されているが、実技については教官も匙を投げたかたちになっている。


 取り巻きがハルトの背を小突く。ハルトはしかたなく前に踏み出て、指を持ち上げる。口の中でちいさく詠唱を行う。ほんの少し、腕のまわりの空気が動く。が、その流れは大きくならずに立ち消えた。

 はっはあ、俺の勝ち、と、ナダヤは大きな声をあげた。

 ほらよ、弁当、よこせよ、とハルトの背嚢を奪い取る。ハルトは引っ張られるような形になり、よろめいて尻餅をついた。

 ナダヤは背嚢から木の弁当箱を取り出し、蓋を開けた。なんだこりゃ、と声をあげる。中身は硬く焼いたパンとチーズと木の実で、慈善院の弁当としては上等の部類だったのだが、ナダヤは顔を顰めた。

 いらねえよ、こんなもの。ほらよ。

 投げて返されたが、ハルトは受け取り損ねた。箱は運悪く下草のない地面に落ち、割れた。中身が散乱する。そのひとつがナダヤの足元に転がった。

 彼はそれを、ぐじゅりと音をたてて踏み潰した。


 いくぜ、ほら。

 立ち去るナダヤたちの背後で、ハルトは中身をかき集めた。砂だらけになったパンを、まだ食べられるかじいっと考え込んでいたが、諦めた。

 割れた弁当箱を背嚢に詰め、ハルトは立ち上がり、ひとつため息をついて、歩き出した。

 仕方ない、仕方ない。

 そう呟きながら、彼は唇を歪めて、笑顔をつくった。


 昼は校庭に出て、膝を抱えて過ごした。午後の授業も教練も、まったく頭に入らなかった。夕方には空腹で腹の横が痛み出した。

 だから学校が終わると、まっすぐこの丘に来た。

 地元の者は、酸味が強すぎるとして敬遠する紅い実は、ハルトにとってひんぱんに生じるこうした機会にたいへん役立つ、非常食だった。

 慈善院で失敗をして夕食をとりあげられたときにも、幼いものがスープをひっくり返してしまい、ハルトが自分の分を与えたときにも、ここに来た。


 腹は満ちたが、問題が残っている。

 弁当箱。

 院の寮母せんせいは、激怒するだろう。

 

 「あああ、帰りたくない」


 もう一度声を出し、ハルトは翠を帯びた黒髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。

 きちんとした散髪はほとんど施されない。だから院の子は、みずからナイフで髪を整えることが多い。ハルトは、そして、ナイフも苦手だった。ざくざくと乱雑に散らばった首のあたりまでの髪は、不潔だ、として寮母の不興を買う要因ともなった。


 竜祈師校の群青色の制服を照らす陽光は、彼がごろごろと煩悶しているあいだに、日没の気配を帯びるようになってきた。

 それでも動かずにいたが、木々の向こうに日が隠れ、雲の色が濃くなって、ようやく観念した。うう、とうめきながら岩に手をつき、起き上がる。深く深く息を吐く。今日は当番ではないから夕食の支度をしなくてもよいのだが、門限に遅れれば、叱責が上積みされるだろう。


 背嚢を背負い、ううんと背伸びをして、かくんと腕を落とした。

 首をふって歩き出す。


 と。


 ざざ、と、木々が揺れたような気がした。

 風はない。

 鳥たちが一斉に飛び立つ。

 温度が急速に下がったように思えた。

 ハルトは思わず首をすくめ、あたりを見回し、空を見上げた。


 その視線の先で、雲が動いた。

 いや、雲ではない。

 空が動いた。


 ぎん!


 眩しい金の光。

 耳を刺すような鋭い音とともに、光の線が空に走った。

 見える限りの地平の向こうから、ハルトの背、丘の向こうまで。

 呆然と見上げるハルトの目の前で、その線はゆらりと回転し、収束した。

 収束した一点は、ハルトの頭上。

 そこを中心に、あらゆる方向に再び光が走り、消えた。

 

 さあああ、と、息を吸い込むような、風が吹き抜けるような音。

 木々の葉が、紅い実が、吸い上げられる。

 ハルトの髪が逆立ち、制服がばたばたとはためく。

 

 と、空に、点。

 黒い点が現れた。

 点ははじめゆっくり、そして急速に拡大し、形をとっていった。

 それにつれて轟音が響き、立っていられないほどの風が起こる。


 なにかが、堕ちてくる。


 ハルトがそう判断するとほとんど同時に、それは彼の目の前に落下した。

 凄まじい地響きと弾けるような風がハルトを襲う。彼は叩きつけられるように転倒し、木の根に頭をぶつけ、昏倒した。


 

 


 

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