かっぱ童女

 囲炉裏を囲んで、三人が座っている。

 主人の女は寝起き姿のまま、向かいの年老いた河童たちを見ていた。

 二人は肩を落として背を丸め小さくなっていた。男の方は白髪眉を八の字にした困り顔、女の方は目元を抑えて延々泣いている。

「それで、相談というのはなんでしょう」

 男河童は溜息混じりに、すみません、と答えて口を開いた。

「実は、この春に拾った人間の子供が何をしても元気にならず、このままでは死んでしまうのではと困っておるのです」

 言うと、傍らにある桶から湯のみで水を掬い、囲炉裏の熱で乾いた頭の皿に慎重に注いだ。

 広く古い屋敷の冬は、風が吹き込み底冷えする。

 女は申し訳なさを覚えながら、羽織を肩に掛けなおした。

「病気か怪我の可能性はないのですか」

 問うた瞬間に女河童が面をあげて声を上げた。

「もう診てもらったのに分からんのです。だからこうしてここに来ておるし、必要なら死なせてやろうかと」

「馬鹿を言うな。落ち着きなさい」

 振り返って諫める男河童を見て、女は二人は夫婦だろうかと思った。

 女は続けた。

「人間の医者が診たのですか」

「いいえ、我々を見ることが出来る人は、あなた様以外に存じません。仲間内で昔から病などに詳しい者が診たのです」

「なるほど。しかし、人間の子供では水の中では暮らせますまい。どこで寝起きしているのですか」

「見つけた水車小屋です。食べ物や諸々の世話は川姫がしております。拾ったのも姫殿なのです」

「そうだったのですね」

 女は腕を組んで思案した。健康で衣食住に困っていないのであれば、憶測するだけ無駄である。ここは直接会うしかないだろう。

 心を決めると、女は煙管をとりあげて葉を詰め、火を点けた。

「その子供に会いにいけば何か策が浮かぶかと思います。どうですか」

「あぁ、それはいい。是非ともお願いします」

 身を乗り出した男河童に笑み返して、女は煙管を吸った。

 首を横にして煙を吐きながら、横目で盗み見た女河童は再び泣きに泣いている。

 妖怪が拾った人間の子供は、たいそう彼らに愛されているらしい。

 厄介な問題だ、と女は内心溜息をついた。


 女は、琴という。幼い頃から妖怪が見え、話もできるため、親や近所から気味悪がられ、やがて身売りされた。縁あって同じく妖怪が見える老婆に養われ、亡くなったあと二人で住んでいた大きな屋敷で暮らしている。

 物知りの養い親であった老婆から薬の知識を得た琴は、銭が減ると山を下りて街で薬を売っていた。ただし、男に限った薬で、主に夜を営むに必要なときのための薬であった。

 街の女は陰口を言い、子供は通りで目を親に覆われる琴ではあったが、人は好かないので気にしていない。

 屋敷は後ろが青い山、右手が鬱蒼と茂る竹林、左手が澄んだ河である。

 人から疎まれはしたが、妖怪からの相談はおかっぱ頭の頃から受けていた。

 助けを求める妖怪を無下にもできず、今日も河童が戸を叩くことになったのである。


 陽が高くなったころ、琴は傘を差して河童の住処へ向かうと、今朝の男河童が琴をみとめて駆け寄ってきた。

「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

 河には数人の河童が集まり、近づいて来る琴に顔を向けていた。

 川べりにしゃがみこんだ琴は一同を見渡して頭を下げ、口を開いた。

「事情は聞きました。件の童女に会いに来たのですが、今は何処に」

 すると、河童たちの向こうから若く美しい娘が川面を滑りながら琴の前までやってきた。

「ご無沙汰しております」

「姫、あなたでしたか。あれから不足ないですか」

「はい。お陰様で」

 婀娜っぽく微笑んだ娘は、かつて琴が助けた妖怪であった。

 当時住処にしていた近くの村が大火事となり、精気を吸い取れなくなってしまった川姫は、河をのぼり遠く琴の屋敷まで息も絶え絶えに助けを求めた。琴は山を下りた先の街の遊郭へ赴き、困った男をひとつの場所に呼び出すよう頼んだ。そこに行くよう川姫に言うと餌場は確保され、今では遊女にも礼を言われるようになった。

 恩ある琴に、川姫は挨拶もそこそこに困り顔で顎に指先を添えた。

「裏の水車小屋におります。ずっと元気にしていたのに、菓子も玩具も無駄になる有様です」

「それは苦労したでしょう。とにかく、話を聞きにいきましょう」

 河童たちの見送りを受けながら川姫の後ろをついていき、琴は古びた小屋の中へ入った。

 狭い土間のような場所で、小さい囲炉裏を前に敷物を被った大きな膨らみが琴を出迎えた。

「あれまぁ。これ、、鈴。お客さんだよ」

 川姫は琴を横切り膨らみに寄り添った。

 膨らみは少し萎んだ。会いたくないらしい。

「私は琴。人間だよ」

 戸口に立ったまま言うと、膨らみが縦に伸び、布切れの隙間から肌色が現れた。

 多めな二つの目玉が琴を見つめている。

 琴は囲炉裏の前まで進み、ゆっくり腰掛けた。

「お前さんが困っていると聞いて、ここまで来てみたんだ。寒くはないかい」

 首まで出した童女は真っすぐ琴を見据えて首を振る。

「名を呼べると話がしやすい。教えてくれないかい」

 途端に訝し気な顔になったので、琴は先ほど川姫が童女の名を呼んだことを思い出した。賢いのだな、と一つ胸に留める。

「姫がつけたあだ名かもしれないからね。本当の名前が知りたいんだ」

 童女はしばし悩んだ後、口を小さく開いた。

「すず」

「鈴か。凛としていい名だね。それにとても賢いようだ」

 むず痒そうに頬を染めた童女に、琴は微笑みかけながら観察を行った。

 童女の頬は丸く健康な様子で、髪も河童に倣って洗っているのか汚れてはいない。着物は見えないが、川姫の溺愛具合をみるに綺麗に洗濯していることだろう。言葉も話せる。歳は九つか八つに見えた。

 河童の言う通り、問題は体ではないらしい。同じ人間だと言っただけで頑なな態度を崩した様子から、やはり優しい妖怪に世話されているとはいえ心細かったのだろう。

 甲斐甲斐しく童女の背を撫でている川姫に、琴は手招きした。

「なんでしょう」

「人間だけで話がしたいのです。よろしいか」

「大丈夫なのでしょうか」

「さて、聞いてみませんと」

 川姫は振り向いて童女を見遣ると、向き直って渋々頷き、戸をすり抜けていった。

「鈴、私は彼らをいくらか知っている。安心しておくれ」

 蹲りながら、童女は体に巻いていた布を握り直した。

「何か困っているそうだね。愚痴を言うでもなんでもいい。話してみないかい」

 童女は目を瞠ってから俯くと、ひとつ頷き、涙声で切れ切れに話し始めた。

 夜中に両親が賊に襲われ、逃がされた童女はひたすらに走り川姫の餌場である川辺で力尽きた。川姫は男でないことに気を落としながらも珍しい童女を助けてやることにした。雨風を凌げる水車小屋まで連れていくと、河童たちも関心を持ち、愛らしいと言って世話するようになった。食べ物や玩具は川姫が紙に書き、餌場に置いて遊女に用意してもらった。春に拾われ夏が過ぎ、秋になった頃、童女は両親が気になり街まで一人で下りて行った。家のあった場所はもぬけの殻となり、近所を訪ねるうちに、近くで遊んでいた男児たちから身なりが汚い乞食と馬鹿にされ、童女は泣きながら小屋へと戻った。

「そうだったのかい。辛かったね」

「ここにずっと居ても、私は人間だから、いつか飽きて食べられてしまうかもしれない。だけど、街にも住めない」

「どうして」

「みんなとても冷たかったもの。きっと妖怪みたいに見えたんだわ」

 男児たちの揶揄だけでなく、近所の大人が冷たくあしらったのだろうことも想像に難くない。琴は己の人嫌いの理由を思い出して眉間を揉んだ。

「私は人間だが、ものぐさで格好もだらしない。髪もこの通りだ」

 束ねていた髪を前に持ってきて振ると、掠れた毛先が使い古した筆先のように弱々しく揺れた。

「仕事で街には行くが、他人は避けていく。でも生きてはいけるのさ」

 それに、と琴は腕を伸ばして童女の頭を撫でた。

「お前さんは愛らしい上しっかり者のようだし、銭が稼げるようになればいくらでも人と暮らしていくことができるさ」

「本当?」

 琴が頷くと、童女は濡れた面をあげて琴に駆け寄り抱き着いた。

 琴は河童たちが童女を可愛がった理由が分かった気がした。野良猫が懐く様に似ている。

 童女を一人短い間養うなら特に問題はなかろうと、琴は天井を見上げながら心を決めた。

 小屋から出ると、河にいた河童たちが寄り集まり頭の皿を凍らせながら縋るように琴を見つめていた。

 童女の肩を片腕に抱きながら、しばらく世話をすることにしたと説明すると、今朝訪ねてきた老いた女河童が膝をついて童女の小さな両手を摩った。

「何か欲しいものがあれば持っていくから、いつでも連絡をおくれ」

 男河童も後ろから顔を出す。

「皆、お前の味方だからな」

 童女は深く頷き老婆に抱き着いた。

 琴の屋敷に戻る間も、河童たちや川姫はずっと二人を後ろから見送っていた。

 童女の手を引きながら、琴は笑みを漏らした。

「鈴は妖怪に好かれる才能があるな」

「良いこと?」

「嫌われるよりはいい。好かれ過ぎて災難に見舞われそうになれば策を考えればいいのさ」

 童女は難しい顔をして一つ頷いた。

 屋敷へ着くと、まず体を湯で隅々まで洗い、着物は洗って乾くまで肌着と半纏を着させると囲炉裏の前に座らせた。余る布を指でもてあそぶ鈴に、琴は傷薬を持ってきて、手の指と足の裏に丹念に塗った。足には布を巻き、薬がとれないようにすると、琴は一息ついた。

「今日は粥を食べて、そのまま布団でお休み」

 生まれたての赤子のように清潔になり頬も桃色になった童女は、口を真一文字に結ぶと正座をして床に指をつき頭を下げた。

「ありがとうございます」

 琴は目を丸くし、慌てて肩を押して体を起こさせた。

「そんなことはしなくてもいい。たいしたことではない」

「けれど、銭も払わず、湯や薬を使わせていただきました。あっ、そうだ」

 童女は勢いよく首を起こすと、辺りを見渡し身に着けてきた巾着を見つけると、飛んで掴んで戻り、琴を見上げて中身を見せた。

「これは、砂金じゃないか」

「はい。夏に魚獲りをしたときに、砂利に混ざっていたのを集めておいたものです」

「これが砂金だと教えたのは河童たちかい」

「人は生きるために銭がいるから大事にしなさい、と何度も言われました」

 琴は両手で差し出される巾着いっぱいの砂金を見つめ、瞬きすると手のひらから引き取った。

「分かった。これだけあれば数年は生活できる。だから、頭は下げなくてもいいからね」

「承知しました」

「あと、あまり他人行儀にしなくていい。むず痒いんだ」

「肌に病でもあるのですか」

「いや、居心地が悪いという意味だ。まぁ徐々に慣れてくれればいい。私もお前を鈴と呼ぶし、礼は貰ったが世話は適当になろうしな」

「大丈夫です」

 たどたどしさが薄れ、鈴はすっかり元気になった。先の賢さや礼儀正しい様子から、読み書きも多少できることだろう。鈴は、おそらく良家の娘だったと思われた。

 翌日、琴は街まで鈴の衣一式を買って戻り、鈴の傷が癒えた数日後に街へ仕事道具を担いで二人で出向いた。

 琴の裾を掴んで後ろに隠れていた鈴だったが、琴の馴染みの遊郭に着くころには猫かわいがりされ、帰路は足で地面を跳ね歩いていた。

 琴は様子を見て鈴を奉公に出すことにした。

 以来、鈴は琴によく懐くようになった。春になると、面倒くさがりの琴を決まった時間に起こし、飯を用意し、洗濯まで行うようになった。ただし、下女を思い出した真似事だったため、しばしば炊事場からは煙があがり、洗濯を干そうとして足場にした木箱から転がり落ちたりして、琴を慌てさせた。

 元からまともな生活を送っていなかった琴にとって、世話を失敗して落ち込む鈴を責める気など欠片も起こらなかった。

「出来ない、分からないことは私に聞くといい。ただし、私もお手上げの時は一緒に考えておくれ」

 そういうと鈴は笑みを吹き零した。

 特に笑わせるつもりもなく本心から出た真面目な言葉であったが、鈴には響いたらしく、それからやたらと謝りはしなくなった。

 好奇心旺盛な鈴は、昼間に暇ができると琴がこれまで相談を受けてきた妖怪たちの話を聞きたがった。初めて屋敷に連れてきた日に用心のための策が必要だと聞いたことも頭にあったらしい。最初は覚えている限りの相談話を語っていたが、数日で底をついた。そこで、押し入れに仕舞いこまれていた老婆の書き物を渡し、読むよう言った。

 両手に積み上がる古い冊子に瞳を輝かせ礼を言った鈴は、ものの半刻で琴を質問攻めにした。

「この内容は本当ですか? 一年河童さんたちと一緒にいましたが、割れた皿の代わりに木の葉っぱを乗せていたところは見たことがありません」

 眉間に皺を寄せ唸る鈴に、琴は己の額を叩いた。

 老婆の冊子は創作なのである。

 妖怪が見えた老婆が琴を引き取ったのは仲間が出来て嬉しかったからだが、事実を面白おかしく捏ねまわし書いた冊子が、街で売れないかと試しに琴に読ませることもあった。しかし、生前売れた話は一つもない。

「鈴の言う通りだ。これは物語でね。待ってておくれ、今直そう」

 硯を出して赤い墨を作ると、筆で文章を訂正した。

 納得した鈴ではあったが、他の妖怪も同じく気になりだし、結局は琴が事実を話し、鈴が新しい紙に書き出す日々が過ぎていった。

 夏になると、鈴はキュウリを作りたいと言い出した。

 団扇で着物の合わせの隙間へ風を送っていた琴は首をかしげた。

「河童の皆さんにお礼がしたいのです」

「なるほど。別に構わないが、畑から作らねばならんぞ」

「裏に小さな畑の跡のような場所を見つけました。そこをお借りできれば」

「確か婆さんが少しのあいだ凝って作っていたな。しかし、作り方はどうするんだい」

「ここに」

 鈴は、古く分厚い冊子を目の前に差し出した。文字や装丁がしっかりとしているため、街で買ったものと思われた。

「婆さんのものだな」

 琴は呆れながら、好きにするよう言い渡した。今度、鈴に押し入れの整頓をさせようと琴は思った。物が多いと家が傷む。

 キュウリは立派に育ち、河童たちは鈴を撫で、褒め、獲れた砂金を渡し、他愛ない話をして帰っていった。

 日々の買い出しは二人で行った。ある日、遠巻きに琴の陰口を言い合う女たちを見た鈴は憤怒して駆け寄り彼女らを見上げて語気荒く言い放った。

「私は琴様の御屋敷でお世話になっている者です。何かご不満があるようなのでお伝えします。お名前を教えてください」

 ひるむ女たちに負けず、鈴はついに全員の名前を聞き出し琴のもとへ戻って名を告げた。一連の流れを見届けた琴は往来で声をあげて腹から笑ったのだった。それから鈴は一人で街を歩いても何も言われなくなり、秋が訪れる頃には、人に好かれる魅力が勝ってたちまち人気者となっていた。

 こうして、冬がやってきた。雪深くなると食料を買いに下りる回数は減る。その日、腹が減っていた鈴は囲炉裏の傍に置かれた半紙の上の丸い飴のようなものを食べ、夜になって高熱を出して倒れた。

「申し訳ありません……」

「量が少なかったから大丈夫だ。今夜辛抱すれば楽になる」

 言いながら、琴は濡れ布巾を鈴の額に載せてやった。

 鈴が口にしたのは琴手製の精力丸であった。苦みを抑えるために砂糖を加えた試作品だったため、子供の舌にも受け入れらるものとなっていたらしい。

 布巾は乾きがはやく、琴はつききりで布を取替え、水や氷を口に含ませた。

 そんな琴に、鈴は熱に潤んだ瞳を向けた。

「琴さん、母様みたい」

 琴は苦笑した。

「こんな感じなのかい」

「琴さんのお母さまだって、お世話してくれたでしょう?」

「どうだったろう、もう覚えていないな。鈴の母君は良い方だね」

 鈴は瞬きをして口を結び、何かを察したように、それ以上話しかけなかった。

 回復した鈴は、薬の処方を習いたがった。老婆も薬を売って生計を立てていたため、処方を記した書物は幾つもある。

 しかし、春には奉公に出そうと思い始めていた琴は断った。

「知って損はありません」

「奉公先には近くに薬屋くらいあるよ」

「毒を盛られるかもしれません」

「どこからそんなこと思いつくんだい」

 なかなか折れようとしない琴に、鈴は肩を落とした。

「奉公には行かないといけませんか」

「人と暮らすためだよ。必要だ」

 俯き、正座の上で両手の拳を強く握って鈴は懇願した。

「私がいないと琴さんは朝ごはんを抜くし、着物も同じものを何日も着るではないですか。私が居ればお役に立てます。だから、ここに置いてください」

 しかし、琴の決意は固かった。

「鈴、私がなぜここに住んでいるか、知っているかい」

「人が嫌いだからです」

「そうだ。それも筋金入りの人嫌いだ」

「けれど私、琴さんに疎まれたことは一度もありません」

 琴は顔を綻ばせた。

「お前は恐ろしくないからね」

 鈴は面を上げて解せないと視線で問うた。

「私は妖怪が見えるからと昔から化け物扱いされてきた。陰口を言われ、叩かれもしたよ。そうして、いつしか私を見る人を見つける度に、彼らから何か言われているのではないかと怖くなってしまった」

 琴は目を閉じ息を長く吐いた。

 瞼を上げれば、窓の向こうで雪が音もなく降り落ちている。

「ここは滅多に人が来ないから安心できる。けれど、他では暮らしていけないのさ。でも、鈴は違うだろう?」

 丸い頭を撫でてやりながら、琴は続けた。

「私を好いてくれたように、遊郭や街の人々と仲良くできる。相手も鈴をすぐに好きになる。お前には自由があるんだ」

 鈴は俯き、小さく呟いた。

「私は琴さんと一緒に居たいのです」

 琴は頭を撫でていた手のひらを鈴の肩に置いた。

「戻って来るなと言っているんじゃない。いつでもここへ帰って来ていい。だから、まずは人の中で暮らしてみるんだ」

 その日、鈴は一日中琴の傍を離れなかった。

 春が来て、馴染の問屋へ鈴を奉公に出すことが決まった。

 鈴の身の上を知った主人に、琴が懇々と彼女の有能さを語って聞かせたところ、ぜひ来てほしいという話になったのである。

 送り出す日、餞別にと琴は真新しい巾着に大金を詰めて渡した。

 仰天する鈴に琴はしてやったりと声を立てて笑った。

「世話をしてもらったのに、何も礼をしないんじゃ申し訳ないからね」

「でも、こんなにたくさん、一体どうやって」

 琴は小首を傾げて片目をつぶった。

「砂金は小さいが、銭にすると大きいだろう?」

 鈴は瞳を潤ませながら笑み零し、巾着を大事にしまってから屋敷をあとにしたのだった。


 それから数年後。

 屋敷の裏にあった畑はもとの土山になり、琴の生活もものぐさでのんびりとしたものとなっていた。

 昼間、静かな屋敷の戸を叩く音を聞いた琴は、吸っていた煙管の灰を落とし、戸口へ向かった。

 客人は見覚えのある顔の上品な女性であった。

「ご無沙汰しております」

「鈴か」

 驚く琴は、送り出してから一度も帰ってこなかったかつての同居人を、頭からつま先まで眺めた。

 口元に手を置いて笑みを隠しながら、鈴は続けた。

「琴さんは変わりませんね」

「よく言われるよ。お前さんは口も達者なままのようだ」

 中へ招き入れ、茶を出し、二人は向かい合って縁側に腰を下ろした。

 春から夏に移りかけの竹林は、青く深く生茂っている。

「今日こうして伺ったのは、琴さんに紹介したい人を見つけたからです」

「鈴の旦那かい」

「違いますよ。まだ奉公中で忙しいのに」

 求婚は絶えないだろうな、と蜜柑を口に含みながら琴は思った。

「じゃあ、私とどんな縁がある方なんだい」

 鈴は喜々として頬を紅潮させた。

「琴さんのご両親です」

 聞いて、琴は蜜柑を手のひらにおさめ微笑んだ。

「探したのかい」

「もっとはやく分かると思ったのですが、住まいを別の街へ変えられていて、見つけてもご案内する時間が取れませんでした。けれど、今週は骨休みに宿に泊まると聞いたものですから」

 身を乗り出す鈴の頭に手を置いて、琴はゆっくり撫でてやった。

「ありがとう。よく覚えていたね」

「熱を出したあの日の琴さんは、格別に優しくて嬉しかったから」

「熱のせいで幻を見たようだ」

 いなす琴に鈴は頬を膨らませた。

「大切な思い出なのに、茶化さないで下さい」

「分かったよ。さて、では案内してもらおうか」

「はい」

 屋敷から街へと久しぶりに二人で向かいながら、鈴は次々とこれまでの話を琴に聞かせた。

 奉公は順調でいつか主人の息子の嫁になってほしいと言われていること、祭りに出かけて買った髪飾り、近所の人々との他愛ない話。

 琴は相槌を打ちながら、静かにそれらを聞いていた。

 街に着き宿屋に案内した鈴は、自分は茶屋で待っているから終わったらそこで落ち合おうと言って琴と別れた。

 宿屋の前に一人立った琴は空を見上げて目を細めた。

「いやはや、眩しいねぇ」

 目を閉じ深く息を吸って吐くと、琴は宿の暖簾をくぐった。

 番頭が案内した部屋の前に腰を下ろし、琴は障子越しに声をかけた。

「もし、鈴という者から案内を受けた者です」

 しばしの沈黙のあと、人の気配がして障子が開かれた。

 現れた女は微笑んで琴を招き入れた。見覚えはあるが随分小さく見えた。

「誠に残念ながら、琴殿は病で臥せっておりまして、替わりに友の私が遣わされたのです。どうぞご無礼をお許しください」

 開口一番、琴は流暢に語って頭を下げた。

 慌てた夫人ではあったが、安堵から体の緊張が解けたように見えた。

 夫はいないようで、聞けば街を散策しているという。

 今日の天気や道中の話を夫人から聞いて、琴は茶を飲み菓子を食べて過ごした。

 鈴が琴について伝えていた内容は、薬を売って生活している、というごく簡単なものだった。賢い鈴は、他のことを話すか否かは琴に託すことにしたのだろう。

 話も終わりの気配をみせると、夫人は少し黙ってから琴に向き直った。

「琴の病は、大事ないですか」

「はい。病みがちなのですが、普段は元気にしておりますよ」

「そう。ならよかった」

 琴について夫人が問うたのは、この一度のみであった。

 夫人に別れを告げ、夫にもよろしくと伝えると、琴は宿屋をあとにした。

 茶屋で貸本を読み耽っていた鈴の頬を指先でつつくと、飛び跳ねた鈴が興奮した様子で問いかけた。

「いかがでしたか」

 琴は茶を啜った。

「とても久しぶりだったから、やはりあまり覚えていないけど、いい人たちのようだ。礼を言うよ」

「では、またお会いになりたい時はご連絡くださいね」

「それはいいよ。自分で気軽に会いに行くから、鈴は自分のことだけ考えていなさい」

「つれないですねぇ」

 膨れ面をする鈴を笑ったところで甘味が運ばれてきた。

「さて、まだ話し足りないだろう。問屋の旦那が許す時間まで聞こうじゃないか」

「私はおしゃべりではありません」

 琴は朗らかに笑った。

 その後、琴は両親を訪ねることはなかった。

 情ある縁とは言い難くなった相手と無理をして会うことはない。

 琴は奉公を続けながら、暇がある日は語りに、そして相談のある妖怪を連れて屋敷へ戻ってくるようになった。

 以前より少し騒がしくなった屋敷も悪くないと、琴は今日も戸を叩く音に腰を上げたのだった。

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短編集 音文 晶子 @Otofumi_Akiko

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