木の地図
冬。
礼子は、懐中電灯を持って蔵に入っていた。
「これかな」
埃を被った葛篭の蓋を開け中を覗くと、煎餅の商品名が貼られた缶を見つけた。軍手を嵌め、丁寧に取り出し蓋を開けた。
「あった。綺麗に残ってる」
礼子は微笑んだ。探し物は、木で彫った日本地図だった。
礼子の祖父は、戦後、大工として働き、退職後は、彫刻刀で彫り物を作る趣味を持った。幼かった礼子は、木と工具の香りがする作業場でよく祖父の細工を眺めて過ごした。
「おばちゃん、見つかった?」
「うん。でも、ちょっと状態みないとね」
蔵の重い扉を押して顔だけ覗かせた礼子の姪は、薄暗い蔵から戻ってくる礼子を認めると、赤くなった鼻を啜った。
礼子は家に入り、こたつの上に新聞紙を敷いて缶を置いた。中身を見せると、身を乗り出した姪の菊子が、小さな一片を摘み感嘆の声を上げた。
「これ! 北海道だ!」
「そうだね。缶に入ってたし、ニスが塗ってあるから大丈夫だとは思うけど、水が滲みて腐ってるのもあるかもね」
「全部見てみる」
「じゃあ、私はちょっと煙草」
「あいよ」
居間を出た礼子は、冷えた台所へ行き換気扇を回した。灰皿の横に置かれた紙パックから一本取り出し、マッチを擦って火を付け煙を吸い込むと、引き寄せた椅子にため息を漏らしながら座り込んだ。
礼子は祖父が建てた家に一人で暮らしている。がむしゃらに勉強しプログラマーとして深夜まで働いていたが、五年前に体を壊してからは在宅の仕事を受け、毎月生活できる分だけ稼ぐようにしていた。元来ものぐさな性の礼子を、妹の娘である菊子は度々訪れていた。
「この寒いのに体操服だけって、若いねぇ。どてら何処だっけ」
煙草を消すと、礼子は重い腰を持ち上げた。
「どうだった」
「全部大丈夫だったよ。並べてみてるんだけど、これ何県?」
どてらを着こみ居間に戻ると、一片ずつ木で彫った都道府県が紙上に散らばっており、菊子は腕を組んでそれらとにらめっこをしていた。
眼前に摘み示された一片を礼子はしばらく眺め、小首をかしげた。
「菊、地図帳貸して」
「おばちゃんも分かんないの? じゃあ一緒に見よう」
学生カバンから地図帳を取り出し、ふたりは日本列島の載ったページと一片を交互に見た。先に気が付いたのは菊子だった。
「愛媛県! 見覚えあると思ったんだよね」
「地図、詳しいね」
「そうじゃなくて、ほら、虎が走ってるみたいで可愛いでしょ」
満面の笑みを浮かべる菊子に礼子は感心する。改めて卓上に目を遣れば、日本列島らしき並びが既にできていた。
「さすが現役」
「やめてよ。おばちゃんは外国のこと凄く詳しいじゃんか」
礼子は肩をすくめて蜜柑を一つ菊子に手渡した。
「映画観るのが好きだからねぇ。その時々で気になった俳優の国に詳しくなっちゃったりしてね。でも友達と話は合わない」
「ちょっと分かる。戦国武将が好きだった時、国とか歴史とか詳しくなったもん」
「好きこそ物の上手なれ、ってか」
皮をむき終えた礼子は、蜜柑を半分に割り大きく口を開けて放り込んだ。
改めて一片を摘み、矯めつ眇めつしてみる。均等の厚さにくり抜き、角を丸くし、ニスは二度塗りされていた。卓上に並べても雑誌を広げた大きさほどに小さいが、地図と比べると凹凸も忠実に再現されている。新聞紙の端にまとめられた細かいものは、島々だろう。出来上がった時に祖父がどんな顔をしていたか想像すると、不意に柔らかな笑みが零れた。作ったものを自慢する人ではなかったが、ねだれば嬉しそうに見せてくれた。
数十年前に思いをはせていると、不意に、菊子の獣のようなうめき声に、礼子は我に返った。
「なんで日本は四十七個で、世界は二百個くらいあるの……、世界に武将いないじゃん、いても二百人は覚えられないってぇ」
突っ伏す菊子に聞けば、中学校の期末テスト前に、地理の授業で小テストがあり、世界地図を見て国名を回答欄に全て書き合格しなければならないという。しかも、全問正解するまで毎日居残りがあり、その間は部活に行けず、成績にも影響するとまで言われているらしく、礼子は蜜柑を飲み込んで目を見開いた。
「大変だ」
「そうだよ、大変だよ……」
菊子は興味がない科目の成績が悪い。横文字の羅列とパズルのように組み合わさった各国の名を覚えるのは、気が滅入る事だろう。何か菊子自身に関連することがあればいいのだが。
二人で黙り込んでいると、菊子が再び喜びの声を上げ、礼子は尻が数センチ浮く思いをした。
「おばちゃんて、物作るの好きだよね」
「まぁ、そうね」
「これの世界地図版、作ってくれない?」
「へ」
菊子が言うには、礼子が祖父のように世界地図も木で一片ずつ作れば、愛着が湧き、出来る数も少しずつのため覚えられるのではないか、というものだった。
礼子は腕を組んで唸った。
「出来ないことはないだろうけど……」
「お願い、お願い、ねぇ」
両手を合わせて姪が懇願するので、礼子は依頼を受けることにした。
翌日、礼子は早速作業に取り掛かった。完成は早い方が良さそうであり、礼子自身も久々の物づくりに高揚していたためだった。まずは世界地図を新聞紙片面の大きさで印刷し、国ごとに番号を記して、番号と国名をリストにする。次は国ごとに紙を鋏とカッターで丁寧に切り分け、買ってきたベニヤ板に置いて鉛筆で輪郭をなぞる。そして紙と同じ番号を木の上にも鉛筆で書く。百九十六ヶ国を書き終えたところで、今度は一ヶ国ずつ作業を行う。なぞった線より大きめにくり抜き、彫刻刀とやすりで丁寧に形を削りだしていく。最後にニスを両面に塗り、乾いたところでもう一度重ね塗りを行う。こうして、一日に数個出来上がったものを、ほぼ毎日菊子に郵送した。
菊子は届いた日の夜に必ず電話を寄こした。礼を述べ、それぞれの形を動物や物に見立てて覚えていると語り、度々奇想天外な発想に声を上げて笑う礼子であった。
自分のために仕事をし、生活を送る日々の中で、好きなことで誰かを喜ばせることが出来ることは、思いのほか礼子の乾いた心の潤いとなった。
菊子は、無事に小テストに合格し、期末テストの成績もよく、教師を驚かせたという。
数年後。高校生になった菊子が冬休みに礼子を訪ね、挨拶もそこそこに泣きついてきた。
「世界史無理……」
「あれまぁ」
居間に招き、お汁粉を振る舞った。
「なんでまた世界史を専攻したの。武将とか妖怪が好きなんだから日本史選ぶと思ってたのに」
「だって、希望書く時に、あの木の地図思い出して押し入れから出したら、なんか盛り上がっちゃって」
なるほど、と礼子は苦笑した。
「どの国も同じに思えるから、まったく覚えられない……」
「気持ちは分かる」
「でも、おばちゃん色々知ってるじゃん」
「それは」
言いかけて、礼子はひらめいた。
「今、あの地図持ってる?」
「ん?あるよ。ほい」
遊園地の土産に買ったのであろうクッキー缶におさめられた木の地図を菊子は差し出した。
礼子は指先で目当ての国を見つけると、卓上に置き、自室から一本のDVDを取って戻った。
「菊が好きだったやつ。覚えてる?」
「あ、うん。凄腕タクシー運転手のでしょ。タクシー頑丈だなぁって。あと、コメディっぽいとこも好きだった」
「これは、この国の映画」
礼子はイタリアの地図とDVDを並べてみせた。
「そうなんだ!」
「アメリカ映画っぽいからね」
礼子の青春は、ほとんどが映画鑑賞に費やされた。当時レンタルショップが一作百円で貸し出していた時代、近所の店に通っては勉強の合間に貪るように観た。気になることは親のパソコンを借り、インターネットで調べ、関連する作品を探しては店を回る日々。興味が尽きず貪欲な気持ちが、時間のある今こそあってくれればとふと思った。
パッケージの裏を読んでいる菊子に、礼子はおかきを渡した。
「これ、いけるかも。おばちゃん、お勧めの映画教えて!」
礼子はおかきを噛み砕き、ピースサインを示した。
「よし、任せなさい」
こうして、地図と映画を結び付けて覚えるという計画は始まった。
菊子の好みのジャンルから、その国に関連する映画を数作品紹介し、菊子が興味を持ったものを動画配信サイトや礼子の私物のDVDで鑑賞した。そのうち、菊子が見つけてきた作品を礼子の家で一緒に観ることも増えた。十年間近く新作映画を観ていなかった礼子は、鑑賞中に驚きの声を上げたり、菊子に解説を求めたりして、その時ばかりは菊子が得意げになって礼子にあれこれと教えたのだった。
かつて作った記号と国のリストに観た作品を加え、感想や裏話なども載せた。データが増える度に、礼子は達成感のようなものを感じていた。それは、消費だけでなく、形に残るという喜びでもあった。
こうして、菊子は高校生活三年間の中で世界史を最も得意とし、無事に卒業を果たした。
そして、数年が過ぎた。
正月番組を何気なく見ていた礼子に菊子から電話がかかった。
「おばちゃん、元気?」
「ぼちぼちね。そっちこそどう? 都会は大変でしょう」
「こちらもぼちぼちです」
しばらく談笑していると、ふと菊子が例の地図について触れた。
「今ね、雑誌で旅行の特集考えてるんだけど、実家帰った時にまた思い出してさ」
「あったねぇ。あの時は楽しかった」
「うん。それでさ、あのときのデータって残ってる?」
「あると思うけど」
菊子が電話の向こうで、よし! と小声で言うのが聞こえ、微笑ましさに礼子は肩をすくめた。
「ねぇ、おばちゃん」
「なに?」
「いいこと思いついたんだけど、のる?」
すっかり大人になった菊子の提案に、礼子はまた頷くことにした。
翌年、雑誌の連載で人気を博し、とある出版社から一冊の本が世に出ることになった。
タイトルは「木製地図、映画と出会う」。一ページ目には、礼子の祖父が作った日本地図と「とある職人による始まりの地図」と記載された。
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