短編集

音文 晶子

松竹梅長屋

 冬。

 梅は布団から出ると、手早く身支度を整え、厨へ向かった。同居する他二人を含めた分の朝餉を拵えるためである。

「おはよう、梅」

 声をかけたのは松であった。藍色の半纏を羽織り、厨に下りて梅の隣に立った。

 梅は顔を上げて朗らかな笑みを浮かべた。

「おはよう、松さん。昨夜は遅かったわね」

「うん。採点をしていた」

「そうなの。あまり無理をしては駄目よ」

 松は頷き、湯呑から茶を飲んだ。

 白菜を切って鍋に蓋をしたところで、梅は厨から上がり、もう一人を起こすことにした。

 みのむしよろしく頭まで布団にくるまっている長身を見下ろし、梅は袖をたくし上げ、布団の端を両手で掴んで力いっぱい引き上げた。

「竹さん!」

 呼ばれた男は眉根を寄せ、体を抱くようにして縮こまった。

「棟梁にまた叱られますよ。朝餉がもう出来ますから、顔だけでも洗ってきて下さいな」

 逞しい肩を叩いて梅が出ていくと、竹はやおら体を起こし、両腕を天に突き上げて大きくあくびをした。

「では、いだだきます」

「いただきます」

 皆で火鉢を囲み、両手を合わせてから箸をとった。味噌の香りと炊き立ての米から上がる湯気が、突き出し窓から外へ運ばれていく。

 この長屋には、三人の男女が住んでいる。

 年長の松は寺子屋で働いている。口数は少ないが、忍耐強く、真心を尽くす男である。

 竹は大工である。隠し立てのない正直な男だ。

 梅は料理屋で給仕をしている。時に厳しい世にあっても、笑顔を絶やさないしたたかな女である。

 それぞれ善良な人間だが、厄介事に巻き込まれやすい不器用な一面があり、縁あってひとつ屋根の下で暮らすことになった。

 近所からは松竹梅義兄妹と呼ばれているが、呼び名の目出度さとは裏腹に、金は貯まらぬ貧乏暮らしであった。

「そういえば竹さん、また喧嘩したんでしょう」

 梅が目配せをすると、竹は鼻を鳴らして米をかき込んだ。

「俺は悪くねぇからいいんだ」

「必要なら謝って来るから、事情を教えてちょうだいな」

「もう片付いたことだ。梅が心配することじゃねぇ」

 困り顔で苦笑する梅に、松が赤い半纏を広げて肩にかけてやった。

「ありがとう」

 松は頷いて味噌汁を静かに啜った。

 朝餉を済ませると、梅たちは仕事場へ向かった。

 梅が裏口から店に入ると、仕込みをしていた店主の妻が籠を抱えて出迎えた。

「今日も早いね、梅ちゃん」

「いえ。女将さん、私が洗いますよ」

「そう? じゃ、お言葉に甘えて」

 妻から野菜入りの籠を受け取った梅は、水場へ泥を落としにいった。

 店主がのれんを出すと、ほどなくして店は賑やかになった。

「寒いから汁物の注文が多いな」

 厨房に戻った店主が額の汗を拭って息をついた。

「梅ちゃん、出来た料理運んどくれ」

「はい」

 梅は額に零れた髪を軽く撫でつけると、盆に丼を載せて客席に出た。

「はい、おまち」

「よっ、ありがとさん」

 夜の水揚げから戻った漁師三人前の丼を置くと、漁師たちは冷えた両手を擦り合わせて早速箸を割った。

「あぁ、美味い」

「沁みるな」

 笑い合う客を微笑ましく見てから梅が厨房に戻ろうとすると、別の席から笑い声が上がった。梅は何気なく耳を澄ませた。

「そりゃ言い方が悪いぜ」

「俺は喜ぶと思って見せたのに、何も薬缶沸かしたように怒らねぇでもいいのによ」

「『お前ぇ、こういうの好きだろ』って言っただけじゃ、上さんってのは早とちりが多いからよ。噂話が好きな女房に瓦版持ってきたみてぇに思われちまわぁな」

 盛り上がる席に茶を持ってきた梅に、腕組をして顔を顰めている男が問いかけた。

「梅ちゃんなら、どうだい。これを持ってこられたら、嬉しいと思うかい?」

「なんでしょう。あら、美人画の」

 男が差し出したのは、とある絵師が美人画の元になる女性を募集する張り紙だった。特に条件はなく、女性であれば誰でも応募できるとある。

「なるほど。いいわね。でもちゃんと読んであげなきゃ」

「なんでぇ、見りゃ分かるだろう」

「家にいれば女は忙しいんですよ。気づいてあげるのが甲斐性ってもんです」

 男の愚痴を聞いていた男が深く頷いた。

「そういうこった」

「まだ日があるから、もう一回言ってみたらいいわ。『お前なら、きっと選ばれるよ』って加えてね」

「さすが梅ちゃん」

「浅知恵だから怒られても責めないでよ」

 しばし笑い合うと、男はその張り紙を梅にやると言ってきた。

「別の場所で新しいのを剥がしてくっから、梅ちゃんも試しに行ってみたらいい」

「そんな無理よ。それにお上さんはどうするの」

「芯から選ばれるとは思っちゃいねぇの。機嫌とって夜に魚の煮つけでも出りゃいいと思っただけよ」

「あら、罪な男前さんだわね」

 こうして、梅は張り紙を着物の懐に仕舞い、給仕に戻ったのだった。

 その夜、夕餉を三人で食べていると、竹が小声で呟いた。

「梅の言ってたこと思い出して棟梁と話したら、また現場で働けるようになった」

 ありがとよ、という竹に、梅は肩を竦めた。

「困った時はお互い様よ。私に何かあったらお願いね」

「もちろんだ。なぁ松」

「うん」

 食事を終えると、皆は布団に潜り込んだ。

 梅が行燈の油を換えていると、隣に松が静かに座った。

「梅、これに行くのかい」

 何かと見れば、松の手に昼間の張り紙があった。梅は頬を赤らめて眉尻を下げた。

「貰っただけよ。行くだけ時間の損だわ」

 松は眼鏡越しに梅の横顔を眺めた後、目元を綻ばせた。

「着物屋に行きたがっていたときの顔をしている」

 勢いよく顔を向けた梅は瞠目した。

「滅多にない機会だ。行くといい」

「だけど、お昼で……」

「買って食べる。他にも用事があるなら、私がやっておく」

 梅は困った。確かに珍しいことであり、普段は縁の薄い心が浮きたつような女らしい催しである。

「松さんは、なんでも分かってしまうのね」

 松は首を傾げた。

「そんなことはない」

 梅は実直な松を愛らしいと思いながら、試してみることに決めたのだった。

 果たして当日の夕方。梅はいつになく元気のない様子で長屋へ戻ってきた。

 気づいた竹が工具を放り出して駆け寄った。

「梅、どうした」

 梅は微笑しながら力なく首を振った。

「駄目だっただけよ」

「そうか……」

 松も傍に寄り添うと、珍しく眉間に皺を寄せた。

「傷つくことを言われたのか」

 梅は弾かれたように面を上げると、涙を滲ませ顔を両手で覆った。

 絵師は並ぶ娘たちを次々と見定め順々に優しく断っていた。しかし、梅の番になったとき、真面目な顔をしていた絵師が厳しく目を吊り上げて梅を睨んできたかと思うと、別の時に、と低く言って帰したのであった。梅は当惑し、何か絵師の気に障るような顔だったのだろうか、もしや醜いと思われたのではと心を沈ませた。

「なんてやつだ! 文句言ってやる!」

 鼻息を荒くする竹に、梅は肩を叩くと、無言で自身の布団に入ってしまった。

 残された二人は顔を見合わせた。

 それから数日。梅は仕事を休んだ。そればかりか、家事も一切しなくなり、布団から出てこなくなった。

 松が食事を作ったが美味いとは言えず、竹は棟梁と揉めては酒を飲んで帰ってくるようになった。長屋には洗濯ものは溜まり、ごみが散乱するようになった。

 そんなある日、例の絵師が訪ねてきた。

 眉を吊り上げかける竹を抑えて、松が迎えると、絵師は懐から一枚の紙を差し出した。

「これは、先日お会いした梅さんの話を、縁あるご隠居にお話した際に一筆頂いたものです」

「依頼書ですか」

「はい」

 松は座布団を出し、火鉢の近くに絵師と向かい合って座った。

 件の美人画の募集では、儚くも美しい短い春を思わせる桜のような女性を探していたという。

「梅さんを拝見したとき、思わず見つめてしまいました」

 絵師は現れた梅の微笑みに言葉を失った。身に積もった雪を払い花を咲かせたような血色の良い頬に、雪解けの川の水のように澄んだ瞳。まるで春の訪れを感じるような魅力に満ちていた。

「先のご隠居様は奥様を亡くされてから、すっかり元気をなくし、友人として心配していたのです。そんなとき、梅さんの持つ明るさが彼の傍にあれば、どれだけ心温まるだろうと思ったのです」

「けど、梅は睨まれたんだと酷く落ち込んでたんだぜ」

 黙っていた竹が松の後ろから顔を出した。

「それは大変申し訳ないことをしました。あまり愛想の良くない顔で、じっくり見ようとして顔が強張ってしまったのでしょう」

 絵師は呻いた。

「あの」

 奥で休んでいた梅が、着物の前を押さえて恥じらいながら姿を現した。

「梅」

「大丈夫よ、竹さん、松さん」

梅は絵師の隣に腰を下ろして軽く頭を下げた。

「今のお話は本当でございましょうか」

 絵師は真剣な眼差しで梅と向かい合った。

「もちろんです。どうか、あなたの御姿を描かせて下さい」

 この通り、と床に手を突いた絵師を慌てて起こし、梅は満面の笑みで了承したのであった。

 数か月後。梅の姿絵は無事に隠居の書斎に掛けられ、梅に感謝の文が送られた。いくらかの礼金は梅が大切に管理している。

 春になり、いつもと変わらず三人は朝餉を前に両手を合わせて箸をとった。

「梅が元気になってよかった」

「そう?」

「あのままでは、私達は追い出されていた」

 目を見開く梅に竹が深く頷く。

「やっぱり梅がいないとな」

「またまた。家事なんて慣れですよ」

「なぁ。今度三人の絵を描いてもらって何処かに飾ってもらおうや」

「松竹梅、か」

「やめてちょうだい。財が減ったら私達のせいにされちゃうわよ」

 談笑する声は、春の麗らかな空へと響いていった。

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