「いい香りだね」

「咲きすぎだよ。鼻曲がりそうじゃわ」

 春が来た。

 皆は、とある桜の木の下で夜の花見を行っていた。

 境内から離れた場所にある、太い幹の大桜は丁寧に師走が手入れを行っているため、生命力の衰えを感じさせない迫力がある。

 一目に付きにくい場所にあるため、周りで騒ぐ他人はいない。

 知り合いが集まるのは毎年同じ日である。

 盛りを少し過ぎた桜は降るように花弁を散らし、地面は元より、各々の弁当や着物、髪や顔に落ち着く。

 腰を曲げて茶を飲むお婆の横に寝転がる師走は、猪口を傾けて上機嫌であった。

 普段は小言が多いお婆も、どこか桜に毒気を抜かれたように黙って師走を見遣るに留めた。

 師走は喉の奥で笑った。

 忍び笑いは、やがて意味も無く続く笑い声になっていった。

 さすがにお婆が嘆息する。

「酔っ払いめ」

 師走は脇腹に手をやって、酒と笑いで赤くなった顔を向けた。

「お婆は面白いな。いくつだい。百か二百か」

「だれがつくも者か。人をからかいおって」

 再び笑い出す師走に呆れたお婆は、桜を見上げて不機嫌につぶやいた。

「それにな」

「ん?」

 笑い上戸になっている師走にお婆は続けた。

「つくもさんは、モノだからお前さんと性が合うんじゃろが」

 言われて、師走ははしゃいだ笑い声をやめて、目を細めた。

「そうだねぇ。さすがだねお婆」

「ふん」

「ありがとう」

 湯呑を口に運ぶ手が思わず止まったお婆の後ろから、お爺が顔をのぞかせた。

「おぉ、師走が礼を言ったぞ。いい子じゃ、ほれこれも食え」

「爺は黙っとれ。それにその卵焼きは婆のじゃ」

 多良は少し離れたところに座る凛のところへ避難して、上質の魚の佃煮を食べている。

 凛は滅多に撫でられない多良の黒い艶やかな毛並みを撫でながら、首を伸ばして師走に問うた。

「師走さま。ちゃんとご飯は召し上がりましたか。でないと酒ばかり回ってお体によくありませんよ」

「大丈夫。お爺の卵を貰ったから」

「やらんぞ、馬鹿もん」

 それに凛が笑う。

 お爺は、凛の隣に腰掛けて、卵焼きを載せた取り皿を置いた。

「凛よ。師走はどうじゃ」

「はい。おおむね大丈夫なようですが」

「ふむ」

 お爺は首をすぼめて袖に両手を差し入れて腕を組んだ。

 師走の癖に似ていることに気が付いた凛は胸が温かくなった。

「”奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき”」

「それは?」

「紅葉の美しさの中で鹿の鳴き声を聞くと、その反対に人恋しさを感じられる、というものでな。山とは言わんが、ここも人気がない。それでも、いつもではないが、あぁして、人に甘える事ができるようにもなった」

 凛はお爺が首を向けた同じ方向を見た。

 そこでは、師走が弁当の中身を頬張り、お婆が寝ながら食べる師走を叱っているところであった。

 見たところ、親と子供のじゃれあいのようであった。

 凛とお爺は顔を見合わせ、その輪に混ざるべく立ち上がった。

 多良は伸びをして、耳を震わせながら後に続いた。


 叱咤や笑いはしばらく続いた。

 まるで小さな家族を見守るように、桜はかれらを祝福していた。

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つくもの師 音文 晶子 @Otofumi_Akiko

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