E1 25歳__利害関係




 とある、西洋風の洋館。

甘いムスクの香りは、何処か儚い。

静寂な風が佇む、ひんやりとした部屋は無情に見えた。












 ピアノの鍵盤を、指先で手探りで鳴らした。

音色が弾んでは後腐れなく消えていく、

その様に私は嘲笑う。


 


 ピアノは、まるで私と母の関係を表している。



 濃い記憶を遺しながらも、

何処となく後腐れなくその存在は宙を舞うのだ。










 けれども、母が奏でていた、

音色を再現する器量を私は全く持ち合わせいなかった。










 あの頃、毎日、聞いていた筈なのに。








 今度は、

不協和音が佇ませるように、私は鍵盤を、押した。

鼓膜が拒絶する程の不協和音が、部屋に佇む。








 こつこつ、とピンヒールの音が迫る。

物憂げに振り向くと同時に現れたのは

ワンレングスの巻き髪をした、深紅のドレス姿。








 彼女は不穏そうな面持ちし、壁に寄りかかるその姿は

その姿は妖艶で、魅力的な華やかな雰囲気を

醸し出している。








「物騒な音ね」

「………それでいいの、それが………」










 似合っているの。






 その言葉は喉に詰まったまま、声にならなかった。








「……………世界は広いようで狭いね」

「……………あんた程の変わり者はいないと思うけど?」






「それでも感謝してるわ、アンナ」






 そう言って視線を伏せる様に顔を落とす。

私に記憶という軸というものも性格の芯というものもない。




 ただこの置かれた現実を

呑み込まないといけないのは、誰よりも知っていた。






「いつ、帰ってきたの?」

「3分前。たまには顔と姿と出さないと怪しまれるでしょう」

「元気そうで何より、でも高尚になったわね。

貴女に投資して


まともな人間になったのも、誰のおかげ?」






 高飛車と高圧さ。

私は乾いた笑い方をする事しか出来ない。






 アンナは、

音楽界でも無論、世界的な著名なピアニストだ。

その演奏は曲と自らが憑依したかの様に、

人の心を震わせ響かせる。




 加えて

その妖艶さを纏う雰囲気や

華やかな容貌は、人を惹き付けた。


そんな世界的にセンセーショナルな存在と

関係があるとは世の中は分からない。




 


 この人は

私と、9つ離れているきょうだいだというのだから。






 あの日、17歳だった、

私を中国で買い上げたのは、この人だった。

それはきょうだいだから、ずっと探していたから、


そういう情が関係していると言えば、完全にNOだ。








 私が買われた理由は



「行方不明だった娘の身代わりを演じること」。












 アンナに娘はいない。

話題を集めるという事はリスクを伴うという事だ。






 センセーショナルで

センシティブなそんなリスクを考慮しても

踏み出したのは、ある“彼女の秘密”が関係している。






「うん、分かってる___誠市異父兄さん」






 これは、わざと。






 相手は目を見開いていた。








 彼は私の、兄だった。


 否、正式的には異父兄。






 アンナは、誠市は……性同一性障害を抱えている。

戸籍の変更や適合手術を受けたくても、それを出来ないのは


 代々、政治家を輩出してきた、

厳格な家庭と家柄が認めず許さないのだ。






 家からは勘当されているらしいけれども

微妙なラインにいるのは、昔ながらの考えが残響し

残り香を残しているから。










 けれども、もとい私は、

この人が朋花の子供で、

きょうだいというのも信用出来ずにいる。






 






 元々、朋花の娘、自分自身ですら信用出来ないのだから。






 私の記憶が、最も胡散臭い。






 政治家の子孫である事を隠して

ピアニストとしてデビューした。

そして有名なスポットライト向けられるにつれ、


世間は、好奇心からその人の素性を暴きたがるのだ。






 自身のセクシャリティ、

センシティブでデリケートな内容を隠すには、




 実は娘がいるシングルマザーで睦まじく暮らしている__

そんな絵空事を創り出すのが必要だった。








 私は、この人の必要なパーツ。

関心もないけれども、人生では切り捨ても出来ない。












 


















 ストレートの霞が、かかった黒髪。




 端正で儚げな容貌は、

その何処か薄情めいた壮絶さを顔立ちに映している。

何処か諦観と達観を備えた雰囲気は、庇護欲を思い出せた。




 か弱い、華奢な少女。




 けれどもアンナは、少女だった彼女に

数の痣と切り傷に包まれた身体に絶句していた。








 好き勝手にコントロールするつもりだった。

けれども人は人を操れないと腹を括っていたアンナが

自身の孕む利害を伝えた時、香澄はこう呟いた。




『………そう、演じればいいいのですね』




 その一言。

彼女はある意味、女優体質だと思う。

娘を演じていた時にミステイクをした事など、

一度もないのだから。






 でもたまに、

彼女は計算なのか、天然なのか分からない事を言い出す。




「火に油を注ぐ気?」

「ごめんなさい、ママ?」






 私は、口角を持ち上げ、首を傾げた。

教えて貰った建前と本音、

たまに人の感情に横槍を刺す事を。












 


「貴女の方が変わってる。

こんな曰く付きの人間を拾おうなんて………」




 






 分かっている、これは利害関係に過ぎない。

でも空白で何の取り柄もない私を、

誰が好き好んで拾うだろう。


 それに曰く付きなのだから、

殊更、人は遠ざけたがるだろうに。






 朋花の娘、とあの日、私に言った。


















 引き取られてからの私は、

ピアノは嫌いだった事を思い知る事になった。






 この人はピアニスト。

だからこそ常にピアノが傍に居る必要と存在意義がある。 

 娘を演じる以上、

避ける事は出来ないから見詰めるしかなかった。 






 けれども

嫌でも思い出してしまうのは、朋花……母だった。






 母はピアノ、

その世界観ともに己の幻想に引き籠もった。

そして、その音色以外は呑み込まない。環境も娘も。




 そんな存在は幻想には要らない。

なんの意味も成さない。

被害妄想でしかないけれども




 ピアノがあるからこそ、

『母親を奪われた』という念に気付かされた。




 母は、その視覚野にピアノと音色しか映らせない。

私から母を奪い取ったものは、ピアノだと思った時に

どうしようもない拒絶反応に襲われてしまう。




 本当は

幼少期の心の片隅で思っていたのかも知れない。


それを分からずにはいたのはあまりにも

自分自身が無知過ぎたからだ。






 だからまた、


母親と呼ぶ存在を見る度にまるであの日に戻されたようで

やっぱり母親譲りなのだと言い聞かせて、

私は閉じ籠もった。






 日本に帰国出来た以上は

知らなければいけないことがあるから。

…………私にしか成せない事があるから。














 1月31日。あの日の事だ。






 帰国して暫く経った頃に、

私は取り憑かれた様に1月31日の事を調べ始める事だった。






 其処で知ったのは、

私と母の心中が事件化されていて

未解決事件なっている事、

犯人とされる佐々木裕也は未だに逃亡中。




 出向いた警察署の掲示板には、

指名手配犯の看板欄に佐々木裕也はいて、1月31日が近付くと

『佐々木 景』のポスターや報道があった。






 佐々木景、彼は行方不明のままだ

生死すら判らず、様々な考察が飛び交う中で

やはり逃亡中の父親が起こした母子の事件と

何かしら関係があるのではないか、と断定されていた。




 本当は、そんなもの、どこにもない。

彼はただ濡れ衣を着せられて、景行が方不明になったのは

なにか隠された理由が知れないのだ。






 そう思いにふけていると、








「私にはないものを持っているあんたが、


羨ましくて、妬ましくて仕方がないのよ」






 オハコの台詞が飛んできた。

何十回、何千回と聞いていた言葉は右から左へ通り過ぎる。






 あの日、私の異父姉と名乗り、

私を買い上げた人は、また目の前でそう言った。

この人にとっての私は『一人娘』というパーツしか

必要ないと思うのだけれど。








 加えてこの人が

私の本当の異父きょうだいなのかは、知る余地もない。




 ただ私は

この人のキャリアやブランドに必要な娘というパーツ。


 其処に嫉妬心はあろうとも、情はない。

道具でしかないのだから。




 


 私はそもそも自身を信用していないのだ。

記憶も人格も。ただ「朋花の娘」という名前で

息をしている無意味な人間。










 異父姉の方が、よっぽど価値のある人。




 多様性。認められるべき人権。

人権、人格、望む幸福……人として原動力となる欲望。


  


 それらを決めるのは自分自身であり

他人が固定概念で決める事ではないのだ。

それらは全て、最終的なその人の人間味も醸し出すもの。 




 それを否定し見ないのは

それこそ、人の人権というものを無視していないか。




 元々の生まれ持った性と、

心に佇む性の乖離に、あの人は苦しんできた。

その上での葛藤も傍観者には計り知れないと思う。












 誰かを理解し、受け入れる器によって、人は試される。






 その成り立つ感情と、

激情は、酷く人間味を感じるもの。

私には粗探ししてもどこにもない、欠落している。

それだけで輝かしいとすら思えてしまったのは、否めない。








 ちゃんと自分自身の芯を持っている人。

 私は地に足が付いていない、無価値で無意味な人間。






 利害関係なら、後腐れなく終わりたい。

だから感情を持ち込まないのは救いなのをいい事にして

私はこの人に、ある条件を持ちかけたのは、

20歳になった日の事だ。














 








 その年の国際的な演奏会の機材事故で

アンナは致命的な大怪我を負い、ピアニストを

引退せざるを得ない状況下となった。






 世界的な著名なピアニストの大怪我は

センセーショナルに騒がれ、

連日、マスコミが この館から離れなかったのを覚えている。






 ピアニストとしての生命を絶たれ、

精神的にも追い詰められていた。










 その矢先だった。






『500万をあげるから、今すぐ出て行って!!』




 






 罵声は、悲哀を表している。

ピアニスト生命を絶たれた、悲観と絶望は計り知れない。








 娘として  

利害関係を結び、その為だけに息をしていた。

表舞台を引退したならば、もう娘の存在意義は要らない。








 そして彼女自身、

私を見ても辛くなるだけだろう。








 その台詞に納得していた。

寧ろ、私は逃げてしまいたかったのかも知れない。

存在価値のない無価値な罪人がぬくぬくとした、

温室で育っている事に後ろめたさを感じていたから。












 消えるべきだと思った。


 






 ただ500万という大金は私には釣り合わない。






『____なら』






『私を、元にいた場所に連れ戻して下さい』








 私は其処で、告げたのは、

あの世界に戻して欲しいという旨だった。


 その旨を告げると

あの人は何かに打ち砕かれたように驚愕していた。








 劣悪な元の世界に

買い戻しをして欲しいと懇願する人間なんていない。






 けれどもあの世界は

闇ルートで人身取引が横行していた。

まともな道では決して知らない場所。




 疑えばキリがない。

この人も何かを知っているのではないか。








『何を言うの!? 静かに消えてよ!!』

『____恩を仇で返す様な真似をしてごめんなさい、

けれども私を売り飛ばして頂けたら、

貴女の治療費に宛てられませんか。




最後くらい、役立たずですが、

それくらい、させて下さい。お願いします』










 そう告げたのは、後ろめたさと

私が『桜木香澄』という人格に

戻らなければならない、と感じたからだ。






 あの人に叩きつけられた、

500万という価値は私には無いに決まっている。


 






 それらを元手に

売り飛ばして貰えれば、彼女の治療費にはならないか。

恩を仇で返すのは変わりないけれども、私に出来る事は

それくらいしか浮かばない。






















『あいつ、飼い主にまた売り飛ばされたらしい』

『器量は良くとも、あの痣と傷痕は見るに

耐えないからな………無理もないよ』








 数年ぶりに戻った、あの場所は何も変わらなかった。


私の境遇も、扱いも。新たに付いたのは、

買い手に売り飛ばされた、というくらい。






 何を言われても心に響かなかった。

華やかなぬくぬくとした温室で過ごすのは赦されない。


泥水をすすって奴隷のような

環境にいるべきだと想っていた。








 それが、それこそが相応しい。


 欲張って、何かを望む等、

 誰かに赦されても、私が赦せなかったのだ。








 4年後。

劣悪な生活に慣れ切っていた。

あの偽装の娘として暮らしていた頃も忘れる程。


その反面、何処かで焦燥感に駆られていたのも否めない。








 常に頭の片隅にあるのは、佐々木親子の行方。

 何故、ああいった結論を招いてしまったのか。






 私が警察署に行っても

門前払いを食らうだけで、どうしようもない。

どうしたら信じて貰えるか、どうしたらあれは事件ではなく


心中と認められるか。






 自ら有無を言わせない、そんな能力と権力が欲しい。

そう思っていた頃だった。………記憶が蒸し返されたのは。














『あの子を買い戻したいんだけど』






 




 


 アンナが、其処にいた。










 けれども私は、アンナの元に戻る事はなかった。

日本の空港に降り立った時に、迷子のふりをして

行方を眩ました。




 そして、今に至る。

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