第一章【不協和音の旋律(過去編)】

E1 12歳__心中




 

 



 それは私が、12歳の頃の時だったと思う。

私の記憶は酷く曖昧そのもので

まるでホッチキスで留めただけの様な継ぎ接ぎだらけの酷いものだ。


 記憶とは不確かな証拠である。






 私が生まれたのは福岡の、とある小さな町だった。




 西洋式の淡い煉瓦のカラーの平屋の戸建て。

言葉に出来ない、独特の無垢な花の香り。




 その家に想い出の記憶は皆無なのに、

夕陽に照らされたグランドピアノだけは酷く焼き付いている。

そして、その椅子に座る女性を、母の姿を。




 母の視線と指先は、常に鍵盤にあって、

部屋にはいつも穏やかな音色が響いていた。



 優しい横顔は、穏やかな微笑みを浮かべたままだ。

桜を体現したその人の穏やかな横顔だけが

脳裏に酷く焼き付いた。


 柔らかな暖かな光り、優しく穏やかな音色。

 優しい母。


 母とピアノ。

二人にしか居させない世界。

まるでその世界には結界が張ってある様に見えた。



 ただ結界といえば、

透明なものを思い浮かべがちだけれども

母の場合は違っていた。



 その結界は、

まるで蔦が蜘蛛の巣を張ったように渦巻いている。

何かの鎖に繋がれている様は、その風景によっては美麗で、

時に残酷に見えるものだと、今なら言える。



 

 子供心に何処か異様に、

思ってしまったのは、何故だろう。



 母の眸(ひとみ)にはピアノの鍵盤だけが、映る。

それ以外、母はきっと何も要らない。


 理想や現実も、娘でさえも。

だから私はいつも待ちぼうけを食らっていた様な気がする。

窓の外から見える世界は何処か隔離された世界に見えて、

私には、酷く非現実的だった。




 













 











 あの日も変わらなかった。

ただ憶えていたのは、外は凍える様に冷たいのに、

喉が焼け付く程の暑さがひっそりと近付いて締縄の様に感じ、 

思わず、喉を当てた。



『………』



 私は、母をなんと呼んでいたのかな。

お母さん? ママ? それとも………。



 急な頭痛とともに、

喉元を抑えて、膝を崩した私に、

初めてあの人は娘という存在に関心を寄せた。



 何故か母のロングスカートの裾には

見覚えのない深紅のシミが広がっていた。

白い床が同じ様に鮮明に白を赤に染め上げられていくのが

夜闇の光りが無慈悲に照らす。

 


 まるで濃厚な赤ワインを零して、それらが広がるみたいに。



 猛暑の蒸し暑さの様な、違和感は喉に酷く焼き付き

ヒリヒリと熱帯夜の存在感が酷くなっていく。

私は声が出す事もままならない程に。




 彼女は膝を崩すと、そのまま、私を抱き締めてくれた。



 母は、何処か、鉄錆のような香りがした。



 その時に見上げても、

普段と変わらない桜のような微笑み。

けれども私は息を呑んだのだ。





『______』



 その微笑みは、いつもと違って、

桜が散る様な儚くも、切ない悲哀の微笑みだった。







 これは間違いかは分からないままだ。


 私の記憶が

そう思い込もうとしているのかも知れないし、

意識が朦朧としたいたからそう思い込んだだけかも知れない。





 

 

 いつだって、私は不確実な人間だ。







 


 




 次の、私の最初の記憶は、病院の天井だった。





 白衣を来たお医者様が、心配そうに見下ろしていた。



 私の体には沢山の管が付いていて、


 頭には包帯が巻かれ、

あちこちにはガーゼの上にテープで止められていた。

それをめくると生々しい傷跡が、、絶え間なく存在する。

これは何故だろうと思った。



 冬には聞こえなかった蝉の鳴き声が、響く。







 

『あなたの、お名前は?』

『……………?』



『何歳か、分かる?』

『……………?』



『じゃあ、誕生日は分かるかな?』

『……………?』



 私は何度も首を横に振る。

質問が重なる度に、私が頭が首を横に振る度に

お医者さん眉を潜め顔色は悪くなり、

何処か気不味いものだった。





 名前も、誕生日も、何歳かも分からない。





 ピアノと一緒に世界観に入り込んでいた母は、


 娘の私を見た事も一度もなかった。

そして何かを教えて貰った事もなかったものだから、

私は本当に空っぽの状態だった。




 私には関するものは、

全て焼き消えて、手掛かりなんて何処にもなかった。

そして___私の事を知っていた母は、無情にも

もう帰らぬ人となっていたのだから。



 唯一の手掛かりは、

「“サクラギ カスミ”」という名前だけ。





 けれども漢字はどう書くのかは分からない。




 「___“澄んだ香り”」





 そう呟いた看護師さんが

名前の漢字、誕生日、年齢を推定で決め貰った。

そしてお医者さんは私に『記憶喪失』になったのだと

教えてくれた。






 そうするしかなかったのだ。

私は何も教えて貰っていなかった空白の娘。

全てを知っていた母親は物言わず、消えてしまった。



 記憶喪失という盾に守られて私は『桜木香澄』になった。



 そんな入院生活を送っていると時折に、

黒尽くめの大人の人がぞろぞろと、病室に訪れたが


 その度にその人達の前に立ち塞がり、

大勢のお医者さんと看護師さんが止めていた。




 あの黒尽くめの知らない人達。どうして来たのだろう。

私は別の恰幅の良い看護師さんに抱えられ、

病室から密かに抜け出していた。



 その時のすれ違いざまに、不意に聴こえた声。





『目が覚めたのでしょう?

あの子の言葉から、聞きたいんです、事件性があるので』

『止めて下さい、あの子はまだ………』





 その意味は分からなかった。 



 それから身寄りのない私は、ある修道院に預けられた。

其処での生活は規律して祈りを捧げ

とても穏やかなものだった、




 けれど。

この世界は、人を追い込みたがるらしい。



 ある日、若い女の人が修道院にやってきた。

この人との出会いが、私を変えた事は最早、

言うまでもないのかも知れない。




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