第6話 コピーが本物を超える時



 古き洋館のたたずまいは、あたかも挑戦者の来訪を待ち侘びている様子だった。

 雷鳴とどろく中、アンドレアス達が玄関の広間に入ると たちまち蝋燭に火が灯されて琥珀色の光が闇夜のトバリを退けていった。燭台の炎に照らされしは、フクロウの覆面を被った畏怖すべき怪人の姿であった。

 揺れる光源が生んだ陰影と周囲の暗がりが怪人の不気味さをより際立たせていた。


 階段の踊り場に立つソウルレスは、慇懃いんぎんに一礼を済ませた。



「ようこそ、学芸員の諸君。私の裏展覧会へ」



 怪人の被り物を見て、アンドレアスの取るべき行動は一つしかなかった。

 驚き、後ずさることではない。チート使いの発想は凡人とは違った。

 そこに暴くべき素顔があるのだから、とりあえずは拝むのみ。



「透視機能、オン。……ああ、クソ」

「おいおい、それはマナー違反ってモンだよ、アンドレアス君。こっちは被り物をしているんだ。マスクの下にはそうそう触れる物じゃない。たとえ、チートで何かが見えていたとしてもね」

「お前なぁ! なんでこんな!」

「言いたい事は勝負の後だ。プライベートな語らいがしたいのなら、まず仮面を脱がせてからにしたまえよ。この仮面は長年かけて作り上げた私のプライドその物だ」

「詐欺師のプライドだぁ? そんなモン、お望み通り粉砕してやるぜ」


「熱くなりすぎないで。まずは相手の話を聞いてみましょう」



 主任の仲裁が入り、その場はひとまず収まった。

 四隅の暗がりには秘密結社の団員たちが控え、こちらの出方をうかがっていた。

 多勢に無勢。ここは穏便に事を進めなければいけなかった。

 アンドレアスが眼鏡で何を見たかは自ずと明らかになるだろう。


 政治家めいた身振り手振りを交えながら、怪人ソウルレスは語りだした。



「いいかな? この洋館全体が展覧会の会場である。飾られた絵画は全てが私、もしくは先人の偽物屋が手がけた贋作なのだ」

「ふざけた趣向だな」

「そうでもないさ。本物になりたくて、一流だけを夢見て命を削った連中だよ。そう邪険に扱わないでくれ。己の作品を歴史に残す為なら手段など選んではおれぬ。ここに並んだのは、托卵を願ったホトトギスたち……その遺産と言うワケだね」


「ちょっと待って? 全部が偽物とバラシてしまったら勝負にならなくない? これは鑑定眼を競う対決なんでしょう?」



 ビルギットの質問に怪人は快く応じた。



「無論そうだね。だから、ここに一枚だけ巨匠の名作を混ぜてある。少なくとも、そう呼ばれ、異国の美術館に飾られていた絵だ。私に言わせれば他の作品と大差はないのだが」

「何だか奥歯に物の引っかかったような言い草ですこと」

「どれも命をかけて描いた作品に変わりはないということですよ、お嬢さん」

「アタシ達からすれば、真作か、贋作かは死活問題なのだけれど?」

「ククク……金金金、欲深いのは果たしてどちらかな?」

「詐欺師の犯罪者に言われたくないわ」

「まぁ、良いでしょう。つまりは、君たちがその一枚を見つけられるかという勝負なのですよ、これは。某国の窃盗団が美術館から盗み出し、その絵をブラックマーケットに流した。罪なき我々は単に名画を買い取っただけなのだが」



 主任は真面目ぶって実に学芸員らしい返答をした。



「たとえ善意の第三者でも返却の義務はありますよ、ソウルレスさん」

「どうぞ、どうぞ、その絵を持っていって下さい。君たちに見分ける事が出来るのならね。因みに、盗まれた美術館は大事になるのを恐れて事実を公表していない」

「どんなに外国のニュースをチェックしていようが、盗まれた絵のタイトルや作者は判らないと? そういう事なのね?」

「その通りでございますよ。頼りになるのは、己の鑑識眼とチートのみ」

「OK! じゃあ、その絵が見つかったら遠慮なく持っていくからね」

「間違えたら大恥では済みませんよ。私が何かをせずとも、世間とかいう残酷な奴らが貴方を切り刻んで臓物を引きずり出し、きっと再起不能にしてしまう。どうかお忘れなく」


「だってさ。行こうよ、アンドレアス」

「ええ、年代測定機能、オォンだ」



 こうして勝負は厳かに始まった。

 まずは広間に飾られた絵画、階段の踊り場に飾られた絵、廊下の絵を順番に回っていく。ダリ、ルノアール、ダヴインチ、ルーベンス。どれも巨匠の名に恥じない名作ばかりだ。


 しかし、恐れ知らずのアンドレアスはそれらの絵を少し眺めただけで首を横に振り、五分と作品の前に留まりもしないのだった。



「絵の具や、画布が最近の物ばかり。鑑定不要、偽物です。前回の失敗から何も学んでいないのかな? これでは勝負にならないでしょうに」

「さて、どうだろうね? まずは小手調べといった所さ」



 ソウルレスは余裕綽々しゃくしゃく。むしろ眼鏡の性能が前情報通りの代物であるか、確かめているような素振りさえあった。つまり本命はまだ先に控えているのだ。


 そして五分後にそれは姿を現した。

 ちょうど寂れた庭園がうかがえる渡り廊下の出窓の近く。

 ほどよく目に付く場所に、本命の絵は展示されていた。


 クロード・モネの作品、睡蓮の浮かぶ池。

 絵のキャプションには確かにそう描かれていた。


 モネと言えば印象派の代表格。光の表現に誰よりもこだわり(光の差し具合で世界は豹変すると彼は信じていた)晩年は睡蓮の魅力にとりつかれてひたすらに池の花を描き続けた画家であった。フランス北部の美しい自然に魅せられた彼は、衝動的に農村の邸宅を購入。私財をはたいてジヴェルニー村の屋敷に自分好みの自然庭園を幾つも作り上げた。

 日本庭園を模した「モネの庭」にはなんと睡蓮を育てる為の溜め池があったという。自宅の池で描かれた睡蓮シリーズの総数は全部で二百点。

 これもその内の一つだというのだろうか?


 杉、柳、藤の花。

 絵に描かれているのは、水辺の様々な植物が映り込んだ水面だ。そこにはハスの葉と白い花が浮かんでいた。降り注ぐ陽光を浴びて、睡蓮の花弁は宝石のように輝いて見えた。

 確かに光の描写に並々ならぬこだわりを感じるが、アンドレアスを驚嘆せしめたのはそこだけではなかった。


 ―― この絵は? 探していた当時の作品じゃないか、絵の具も画布も一九〇〇年代の物。最近作られた贋作では断じてない。ドンピシャ、この絵こそ真作では?



「ビンゴかもね。この絵は匂うぞ」

「ほほう、随分と簡単に決めるんだね? まるで家電でも買うみたいだ」



 ソウルレスの声にはどこか侮りの調子があった。

 舐めるな、若造。

 公園で聞いた脅し文句がアンドレアスの脳内でフラッシュバックした。


 ―― いや! 何の仕掛けもなしにゴールなんて、そうもラクチンなワケがない。必ずや何かがある。だがしかし、いったいどんなトリックで俺の年代測定を誤魔化しているんだ?


 皆目見当もつかない、とうとう新人らしい経験不足を露呈してしまった。

 これまでチートに頼ってきたツケがついに回って来たとも言えた。

 当然それは、傍らに立つカリスマ令嬢も同じかと思われたのだが。



「オホン、オホン、おほほ~~ん! うっ、ゲホゲホッ!」

「どうしたんです? そんなにワザとらしく咳ばらいなんかして。風邪ですか?」

「アホォ! アタシの存在を忘れるなって主張してるのよ」

「へぇ?」


「アンタ、ヤスミンに眼鏡の付属品で終わりたくないと言ったそうね」

「え、ええ」

「アタシも同じ気持ちよ。男の添え物で人生を終えるつもりなんて毛頭ないの。いつかはアンタのチートに頼らずとも活躍できるよう日々努力を重ねてきた。どうやら、その成果を見せる時が来たようね」



 ビルギットの表情はかつてない自信に満ちあふれていた。

 正直、真顔になった主任は普段のドジっ娘とは別人のようであった。



「よくお聞きなさい、アンドレアス。いつかは言わなくてはならないと思っていたわ、アンタの眼鏡鑑定には大きな見落としがあるって」

「見落とし?」

「そう、ごく最近作られた贋作に対しては年代測定で何とでもなる。そこは間違っていないのだけれど」

「けれど?」

「そもそも一番厄介で見抜き難い贋作というものは、最近作られた物ではないのよ」

「なんですって? それはつまり、作者が現役で活躍していた頃には、もうどこかで贋作が作られていたと? 確かに生前から評価が高い画家ならそれも有り得るか。複製画とかそういう」

「いいえ、一番厄介なのは悪意から作られたコピーじゃないの。最も学芸員を苦しめ、鑑識眼を見誤らせてきたのは『弟子』の作品。巨匠から直に教えを授かった弟子こそが、最強にしてとても厄介な贋作の作り手。何と言っても本人はオリジナルのつもりで作っているから」

「なんですって!?」



 まるで後頭部を鈍器で強打されたような衝撃があった。

 まったくの寝耳に水、心理的な死角を突かれた格好だった。

 確かにそれなら年代測定で見分けられないのも当たり前だ。

 弟子の作品なら、作風や技術が似通っているのも納得がいく。


 アンドレアスは慌てて、モネの絵を顧みた。



「まさか、この絵も?」

「恐らく。モネには三百人もの弟子が居たと言われているから。弟子の作品まで全部把握するなんて不可能よ」


「ホウ、してその証拠は? 多分そう……では鑑定になりませんよ、お嬢さん」



 ソウルレスが意地悪く茶々を入れた。

 悔しいが正論であった。相手を論破するには理屈が必要なのだ。

 しかし、今日のビルギットは動じなかった。



「アタシがなんでこんなに自信満々か、まだ判っていないのね、フクロウさん」

「ほうほう?」

「その絵は良く出来ているけど、アタシは騙されないから。水面に杉や藤の花が映り込んでいるようだけど。どこか おかしいと思わない?」

「む?」

「杉の木も藤も、日本の固有種でしょ。フランスにある『モネの庭』で描かれた作品なのに、そんな物が映り込んでいるはずもないの」

「うっ!」

「アタシ、一度だけ現地に行ったことがありますから! 睡蓮の庭にこんな風景はありませ――ん。これはきっとモネの弟子が日本の睡蓮を描いた作品なのでしょう? 違う?」



 渡り廊下に乾いた拍手が鳴り響いた。

 ソウルレスが素直に負けを認めた瞬間だった。

 少なくとも この絵に関しては。



「お見事、正解」

「ほーら、ごらん」

「正確には、弟子の絵に私が加筆した物だね。そのままだと巨匠を名乗るには力不足すぎた。哀しいかな、多くの弟子は模倣者に過ぎず、師匠超えなど不可能なのだ」


「か、加筆? なぜ年代測定に引っかからないんだ? 絵の具は確かに当時の物だ」

「アンドレアス、それもトリックよ。名画の修復作業ではよくやる裏技ね。同時代の油絵から絵の具を削り取って火で温める。すると古い絵の具が再利用できて、作品の雰囲気を崩さずに済む」

「な、成程」


「納得頂けたかね、アンドレアス君。神のチートと言えども絶対ではないのだ。神を欺くことなど そう難しくはない。神話の登場人物だって、難なくやってのける事さ」



 勝ち誇るソウルレスに向け、次いで言い放ったのは、ビルギットであった。



「もしも、貴方にモネのような自然を愛する心があったのなら」

「ぬ?」

「水面に映る植物を抜け目なく修正していたでしょうに」

「……かもな」

「貴方は巨匠の技術を上手く盗んではいるけど、ただそれだけ。その魂まで盗めたわけではない。さて、貴方は本当の芸術家かしら?」

「これは一本とられたようだ」



 微笑んだ上司の横顔は勝利の女神を連想させた。

 アンドレアスは込み上げてくる言葉を、どうしても口にせずにはいられなかった。



「今、初めて心の底から思いましたよ、貴方は私の上司に相応しい人だと」

「……なーにそれ? まさか、今まで思ってなかったの!?」



 ビルギットが軽口を返すまで一瞬の間があった。

 思いがけぬ告白に胸が震えたのは、彼女も同様であったから。

 見つめ合う二人へ、ソウルレスが遠慮がちに声をかけた。



「だが、まだ持ち帰るべき絵が見つかったわけではない。そうであろう?」



 ソウルレスに促され、二人は屋敷の探索を続行した。

 屋根裏から地下室まで。別館と本館を一通り回ったけれど、学芸員のお眼鏡にかなうような作品は結局見つからないのであった。



「おい、どういう事なんだ? 盗まれた本物が在るはずだろう?」

「慌てなさんな。裏展覧会の絵はまだ一枚残っている」



 言いながら、ソウルレスは壁のボタンを押した。

 途端に書斎の本棚が横にスライドし、隠し部屋の入口が現れた。



「この奥に絵が? 随分と暗いけど」



 暗中へ先に足を踏み入れたのはビルギットだった。

 だが その直後!



「なっ、ひゃああ――!」



 可愛らしい悲鳴だけを残して主任の姿がフッと消えた。

 眼鏡の暗視機能を使って室内を探った所、床にあったのは落とし穴だった。

 この非道な仕打ちにはアンドレアスも激怒せずにいられなかった。



「ソウルレス、テメェ! 何をしやがる!」

「安心したまえ、彼女は無事だ。下にマットが敷いてあるからな、ただし」

「ただし、なんだ!?」

「彼女の周囲には武装した部下たちが待ち構えている」

「どういうつもりだ?」

「その隠し部屋に最後の絵があるのは真実。ただし、君一人の力で その絵の真贋を見極めるのだ。もう助言など認めない。ここからは一対一。嘘か、真か? もし君がシンプルな二択を外したら、ビルギットの片目を頂くことになるだろう」

「なっ!」

「アンドレアス、君はチートでどんな絵でも真贋を見抜けると笑ったな。男なら自分の言葉に責任を持ちたまえ。この勝負、受けてもらうぞ」

「チッ、お前の卑劣さより、自分の迂闊さが許せねぇ。上等だ!」



 アンドレアスは勇んで部屋へと入っていった。

 レンガの壁に囲まれた無骨な隠し部屋には、一枚の絵画がかけられていた。


 フランシスコ・デ・ゴヤ作 『巨人』

 絵の主題は肩越しにこっちを振り返った巨人だ。

 雲を衝くような裸身の大男、それを見て逃げ惑う人々。

 あたかも映画のワンシーンを思わせるファンタジックで凄みのある絵だった。


 ―― ゴヤか。たしかスペインの画家で活動時期は十八世紀~十九世紀。まったく知らない相手じゃなくて助かったぜ。


 安堵した所へ、隠し部屋の戸口に立つソウルレスが問うた。



「さぁ、その絵は本物かな?」

「最後の絵なんだから、これが盗まれた巨匠の作品じゃなければ困るだろう」

「ククク、確かにそうだがねぇ。しかし、上司の目玉がかかっているんだ。慎重に決めたまえ。その絵はゴヤの代表作と呼ばれ、世界中でもてはやされた名作だ。もっと敬意を払うべき相手だよ」



 ―― そうだったっけ? ゴヤの代表作と言えば『我が子を喰らうサトゥルヌス』のハズでは? 俺の勘違いだったか?


 奇妙な違和感を覚えながら、アンドレアスは絵の鑑定を始めた。

 当然ながら年代測定は問題なし。ゴヤが没する前に描かれた絵だ。

 巨人の迫力と壮大なスケールも、巨匠の名に恥じない出来だった。


 だが、逃げ惑う群衆に目をやれば、少々タッチが荒いように思えるのだった。

 特に走る馬の姿がどこか切り絵みたいだ。目が肥えてきたのか、アンドレアスは微かなゴマカシのような印象をこの絵から感じ取った。

 アンドレアスは、物は試しとカマをかけてみる事にした。



「おかしいぞ? これならば、まださっきのモネの方が……」

「はは、嬉しい事を言ってくれるねぇ! おっと……」



 嬉しいとは? つまりこの絵には加筆が施されていないという事だろうか。

 首をひねって絵を眺めていると、ある事実に気が付いた。


 左下に作者のサインがなかった。この時代なら有り得ない話だ。

 眼鏡の拡大機能を用いてよく観察すると、その部位には塗り潰されたような跡が確認できた。更にそこへ透視機能を用いてみた。

 アンドレアスは重々しくうなずくと、深呼吸してから振り向いた。



「全機能オフ ――。判った。鑑定終了だ」

「して結論は?」

「この絵こそ美術館から盗まれた展示物。それはお前の言動からも明らかだ。だが、それでも、この絵はゴヤの作品ではない」

「ほうほう!」

「塗り潰された作者のサインがハッキリ見えた。AJと書かれているじゃないか。とてもゴヤのイニシャルとは思えないが。恐らく この絵も弟子が描いた作品だ、そうなんだろう?」



 アンドレアスが一人きりで完遂した初めての鑑定。

 棒立ちのソウルレスを前に、彼の心臓は早鐘のように脈打っていた。

 まさか、まさか外したのか? 主任の目はえぐられてしまうのか?


 そう思った矢先、ソウルレスは静かに親指を立ててみせた。



「お見事、私の負けだよ」

「ふぅ~~やれやれ、まったく心臓に悪い」

「この絵がゴヤの作品ではないと判ったのは二〇〇九年の事でね。それまで長年に渡り世界を欺き続け、巨匠の代表作とまで賛美され続けた……言わば贋作界のスーパーエリートさ。もっとも学芸員が騙されたというよりは、内乱の最中にあるスペインの政治的混乱が原因らしいが。要は関わった者全員が、ゴヤの作品だと信じて誰も疑わなかったのさ」

「学芸員だって人間だもの、たまにはミスぐらいあるだろう」

「そりゃそうだ。だがね、私は悔しいのさ。仮にもゴヤの代表作と呼ばれた力作だぞ? 作者が別人だと判っただけで、掌を返すとは……それが名画に対する態度か?」

「……」

「一度下された評価を簡単に覆す、お前らは何なんだ? 名作とはいったいどんな作品を指す言葉なのかね? 名の知れた巨匠の作品だけが名作なのか? 卑しい贋作屋である私が言いたいのはそれだけさ。迷惑をかけたね、アンドレアス君」



 仮面越しにも滲み出る、ソウルレスの悔しそうな発言。

 それを耳にしたアンドレアスは、思わず相手の名前を呼んでいた。



「おい、ソウルレス……いや、カミル」

「仮面は別に脱ぐ必要もないか、このままで失礼させてもらうよ。生き恥を隠すのにも被り物は重宝するね」

「カミル、お前なんでこんな事を、贋作屋なんて」

「金だよ。訊く程のことかい? 売れない画家に他のどんな道がある? 私はとうの昔に芸術家の魂を悪魔に売り渡した。ソウルレスなんだよ、私は」



 スラム育ちのアンドレアスだからこそ判る真実があった。

 世間の冷たさと金の必要性。それは痛い程に良く知っていた。

 下唇をたっぷり噛み締めてから、それでもアンドレアスは顔を上げた。



「買い戻せよ、その魂」

「なんだって?」

「秘密結社の幹部まで昇りつめたんだ。もう充分じゃないのか? 子どもに囲まれて絵を描いている時のアンタは、あんなにも楽しそうだったじゃないか」

「うるさいな」

「巨匠が、世間の評価が何だって言うんだよ! 贋作屋なんて止めちまえ。好奇心や創作欲が赴くまま、好きなように絵を描けよ! 昔みたいにさ」

「……ハァ」

「そうすれば、もう君はソウルレスじゃないから。仮面を捨てる時だぞ、カミル」



 フクロウの怪人はソッポを向いたまま押し黙っていた。

 長い時がそのまま流れて、遂にカミルはボソリと呟いた、


「もしかすると、その叱責をずっと待っていたのかもしれないな、私は」



 仮面を脱ぎ去り、一呼吸。

 触覚みたいな前髪を揺らしながら、カミルは笑ってみせた。

 どこか寂しそうに。



「約束通り、その絵は持ち帰ると良い。例えゴヤの直筆ではないにしても、名作はあるべき所に帰るべきだ。そうだな?」

「ああ、そうだ。誰もが帰らないとな、故郷に」



 泣きべそをかいた主任に抱きつかれ、それを慰めるのに少し時を要したが。

 チート使いとカリスマ令嬢の一夜は、ひとまずここに幕引きとなった。











 ―― たとえチート眼鏡があっても、案外わからないものだな。人の心って奴は。


 決戦の夜から一か月ほど。

 中庭の芝生に寝転んで、今日もアンドレアスはお昼の休憩時間を満喫していた。

 思い返せば早半年。ビルギット主任と組んで色々な出来事を乗り越えてきた。

 中でもショッキングで忘れ難いのはやはり、清貧会との対決だ。


 友人だと思っていたカミルが実は秘密結社の大幹部。

 てんで頼りにならない口だけの上司かと思いきや、最後にアンドレアスを救ったのはその主任がくれた助言であった。

 最も手強い贋作の作り手は弟子。あの教えを授かっていなければゴヤの真贋を見極められたか怪しいものだ。


 他者を上っ面だけで軽々しく判断してはいけない、本当に。

 見えない所でその人が何をしているのかは、本人以外の誰にも判らないのだから。

 シスター・クラリッサの言った通りだった。

 今は格言の重みを噛み締める日々だ。

 人の心は海よりも深く、その秘めた爆発力を断じて侮るべきではなかった。


 巨人の絵は先日空送され、無事に故郷へと旅立っていった。

 向こうの美術館に大きな貸しを作った形だが、こちらで企画展をやる折に巨匠の絵を借りると約束を取り付けたあたりは流石の抜け目のなさだ。


 しかし、ウチで行われる直近の企画展は「発掘! 地元の名作展」というテーマなので、誓いが果たされるのは相当先になるはずであった。

 国内で頑張る芸術家の卵たちに、もっと機会を与えよう。そんな名目で大々的にコンテストが開かれ、参加作品を募集中なのだ。今、主任はその審査に追われる日々であった。

 全ての入賞作品が決まったわけではないが、一つだけ別格で予選免除の決まった絵があった。そう、カミルの作品だ。


 友達だからって、特別扱いは不要。どうかフェアな審査を頼む。


 そんな手紙が付けられていたが、公平に見て巨匠の技術を身につけた画家に勝てる奴が居るわけもなく。彼の作品は企画展でひと際目立つ場所に飾られるはずだ。

 ゴッホやゴーギャンが日本の浮世絵から影響を受けたように、カミルは水墨画をリスペクトして、一色の絵の具だけで水彩画を完成させていた。色の濃淡と筆使いだけで表現されたガリア火山の絵は、見ているだけで涙腺が崩壊しそうな美しさだった。

 単なる身内贔屓かもしれないけれど。


 作者の名前は伏せて欲しいとあったので、アンドレアスが勝手に決める事にした。


 魂を取り戻した者。それが彼に贈れる最高の名だと感じていた。


 人は誰しも変わるのだ。

 罪びとも、社会の脱落者も、うな垂れたままで人生を終えるとは限らない。


 アンドレアスだってそうだ。

 まだ未熟で使いこなせないチート眼鏡かもしれないが、シスターから習った正義と、主任より学んだ知識を活かせれば、いつかは正しい使い方を発見できるかもしれなかった。犯罪でも、セクハラでもない、皆を幸せにする使い道がきっとある。

 そうすれば使い手が誰に恐れられる事も、軽蔑される事もなく……。

 いつか成し遂げてみせる。彼はそう決心していた。


 ―― あるいは正式に学芸員の資格をとる……とか。それも面白いかもな。


 物思いにふけるアンドレアスの所へ、壺を抱えた女性が小走りでやってきた。



「あ――、やっぱりココだった。アンドレアスさん、主任が探していましたよ? 午後イチでまた怪しげな鑑定の依頼が入ったって」

「判ったよ、すぐ行く」



 貧乏暇なしだ。

 アンドレアスが起き上がると、心地よい風が中庭を吹き抜けていった。

 チート眼鏡をもってしても人の心と不確定な未来だけは見通せない。

 しかし、それはむしろ幸運な事なのだ。


 まだ人類には、判り合い、努力するだけの余地が残されているのだから。











 シスターに言われた事が、ようやく心から理解できました。その想いを伝えたくて、アンドレアスが荒れ果てた教会を訪ねたのは三日後のこと。

 しかし、そこで彼を出迎えたのは一枚の置手紙だけだった。


 さようなら、アンドレアス。今の貴方にとって私は重荷となるだけでしょう。

 どうやら巣立ちの季節が到来したようです。貴方にも、私にも。


 手紙の書き出しは、彼にとって酷く受け入れ難い内容であった。


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