レイトネスとシーグラスとオムライス
綿来乙伽|小説と脚本
レイトネス【lateness】時間的に遅く、またはより遅く来ることの特性。
勢いよくドアが開いた割に、玄関のベルは小さく揺れた。
「遅れた」
「そんな急がなくても良かったのに」
「でも、今何時」
「三時……半かな」
「三十分も遅れた」
「別に気にしてないけど」
「知ってる。桜ならむしろ一人の時間を存分に楽しんでると思ってた」
日葵は息を切らしながら私の正面に座った。
古びた喫茶店は、二軒先に韓国モチーフのカフェが出来るまでは賑わっていた。「知る人ぞ知る伝説のオムライス」と名がついたオムライスは、店主が一つ一つ丁寧に作り上げた傑作だ。だが店主は、流行りのふわふわオムライスブームの前から開発していて、私と日葵は高校の時から口にしていた味なのだ。
「次は何が流行りなの?」
「チーズハットグじゃない?」
「それってもうオワコンなんじゃないの」
「オワコンって言葉がオワコンじゃないの」
路地裏にあるこの喫茶店は、女子高生で賑わうネオン色のカフェをくぐり抜けてようやく見える。日葵も私も、そこでの戦いを終えて、ここまでたどり着いていた。
「オムライス?」
「うん。お腹空いちゃった」
店主は私達のことをよく知っている。友達の父親でも、遠い親戚でも、知り合いの知り合いでもないけれど、なぜか血が繋がっているような、繋がっていないような、生まれた時から知られているような、知られていないような、生きていればいつか出会うはずだったような雰囲気を醸し出していた。もちろん店主は、そんなつもりは無いだろう。ただ、私達が来たら必ずオムライスを頼むことを知っていて、日葵が来てからすぐに準備を始めた様子も見受けられた。アイコンタクトを取るだけで、「いつものオムライスをお願いします」と頼むことが出来るようになった。ああ、店主とは、前世で繋がっていたのかもしれない。
「バスも電車も惨敗だったの」
「惨敗?」
「遅延に遅延が重なった。いつもはバスだけなのに」
「実家にいればここも近いのに」
「配属先決めた上司に言ってよ」
日葵は目の前に置いていた水を一気に飲み干した。さすが、中学高校と陸上部だっただけあって、息を切らす姿は遠い昔のように消え去った。彼女の脚なら、韓国ブームがなければあと十分は早くここにたどり着いただろう。
「婦人会の会合があったらしくて、着物着たマダムがバスに押し寄せたの。下駄を履いた女性達の一歩は、クイズの正解発表くらい溜めて溜めて溜めて……踏み出すのよ」
「……三人くらい?」
「十二」
「十二」
「席も迷ってたみたいだから、譲った。着物の人に席を譲らない自分は、愛国心が無いかもって思っちゃって」
「そんなことはないけど」
「でねここまでは仕方が無い。バスは数分遅れただけ。いつもなら電車で巻き返せるのよ。あのね」
「猫プリン、食べに行かなくていいの?」
店主が水を注ぎに顔を出した。
「猫プリン?」
「流行ってるんですか?」
「あそこのカフェのチラシがうちの前に落ちてたから」
「初めて聞きました」
「美味しかったよ」
「え、食べたんですか?」
「食べたよ」
「ライバルなのに。視察ですか」
「なんなら客足取られてるのに」
「可愛いから食べたかっただけ。理由なんて何でもいいの」
私と日葵が窓からカフェを覗いている間に、店主は知らないうちに厨房に戻っていた。
韓国カフェは、まだまだ客が並んでいて、最後尾がどこに潜んでいるのか確認出来ないほどだった。スマホを覗いて待機している人、友達と喋りながら待機している人、恋人と肩を寄せ合って待機している人。皆同じ目的のもと行列にいるのに、待機の仕方は人それぞれなのかと気になる。
「満員電車みたい」
「……あ、電車がね」
「あ、うん、電車が」
「駆け込み乗車みたいだったの。満員電車、朝の通勤ラッシュの時みたいな」
私の脳内に「危ないですから離れてください!発車します!」と言いながらドアに一番近い乗客の背中を押す職員の様子が思い浮かんだ。
「……こんな午後に?」
「そう。しかもいっぱい。どの車両にも、ぶわって駆け込み乗車してきてドア壊れそうになってた」
朝の通勤ラッシュは効率が悪いと思う。ラッシュと他人事にしているけれど、結局は社会が全ての人間を同じ時間に出動させているから繰り返されるだけで、全員が見直せば誰もが知らない人と背中と背中を合わせたりしなくて良いのに。私はラッシュを見越して早めに駅に着き一番前で電車を待ち、確実に席に座るよう心掛けている。
「それでもドアが閉まって発車しかけたんだけど、私の車両に来た駆け込み乗車犯のバッグと左手が電車の中に収まったままで、それ取るのに」
「時間が掛かったんだ」
「そうなの。全く、おやつの時間に駆け込み乗車するやつがいるか」
私と日葵ともうすぐ手元にある漫画を枕にして眠りそうなおじいさんしかいない店内に、店主の革靴の音が響いた。
オムライスが届いた。
「いただきます」
「いただきます」
私は端から、日葵は真ん中からオムライスを食らう。これも前から変わらない。
「うま」
「美味しい」
理由なんて分からない。最初からその食べ方だったし、お互いに気にすることも、質問することも無かった。「そういう風に食べるんだ」ただそう感じて、肯定も否定もせず、ただ黙々とオムライスを食らっているのだ。
「駆け込み乗車ってなんでするんだろ」
「桜は計画的だからね」
「日葵もしないじゃない、駆け込み」
「しないね。でも私は、遅刻しても全力で謝るからね。あと私と同じくらい時間にルーズな人とか、奢るなら許すって言う桜みたいな人とか」
私はオムライスを見つめた。
「奢ります、もちろん、パフェなんかも、よろしければ」
「あとでメニューを頂こうではないか」
「かしこまりました」
ホワイトソースはまだまだ温かくて、日葵のデミグラスソースも湯気が気持ちいくらいあがっていた。
「駆け込み乗車をする奴は、度胸が足りないなって思うね」
「度胸?」
「遅刻するって確定してるのに足掻いてるわけじゃん。でもどうせ遅刻するんだから、その足掻いている時間に、相手にどう謝るかを考えた方が効率的だと思うの」
「効率を考える所は私と一緒なんだ」
「その焦っている感情がもう、遅刻する理由になってるんだな」
「……私一回だけ遅刻しそうになったことがあって」
「……あったね。珍しく私が先に着いてた。あ、その時もこの席だ」
***
私と日葵が高校二年の時。私は恋人に振られた。
「桜ちゃんは?」
「もうすぐ来ると思います。桜は遅刻しないから。でも……」
「でも?」
「今日は遅刻しても、良い日だと思うんです」
私は家の玄関で靴を履き終えて立ち上がった。靴箱の上に飾ってある、寒色のシーグラスで出来たフォトフレームに触れて、私はシーグラスのようだと思った。こうして作品になったり、浜辺や湖で綺麗だと謳われている間は輝いていられる。でも見つけられなかったら、砂と共に捨てられていたら、同じ綺麗さのはずなのに、それはただのガラス片だ。彼といる時は、私は光を放つシーグラスになれた。フォトフレームにだって、ペンダントにだって、ステンドグラスの仲間入りを果たしたかもしれない。でも私という名のシーグラスは捨てられてしまって、過去の輝きを忘れてしまった、綺麗と言われた、好きだと言われたあの時を思い出して、もうあの時には戻れないのだと思うと、誰もいない玄関で涙を流していた。
「遅くなってごめん」
涙で汚れた白いワンピースを脱いで、腫れそうになった瞼を冷やし、二時間の遅刻をして日葵の前に現れた。彼女はメロンソーダに刺さるストローからひと時も口を離さないようにして私の目を見た。
「通算したらまだ私の方が遅刻してると思うよ。あと三日待たされても私の方が遅刻してるね」
彼女のメロンソーダは、本当はクリームソーダだ。この喫茶店にはスイーツには必ずアイスクリームがつく。彼女のクリームソーダをメロンソーダにしてしまったのは私だ。
「まあまあ座んなよ。オムライス食べよう」
日葵が店主にアイコンタクトを送った。
「私、桜の初めて貰っちゃったよね、へへ」
「初めて?」
「桜が初めて遅刻した」
彼女が吸い込んだ瞬間、白いストローが緑色に光った。
「あいつには見せたことないでしょ。遅刻した桜の顔。私しか見てない、ラッキー」
「……遅刻してごめん」
「今日は遅刻して良いの。いや明日も良いし、明後日も良いよ。私と会う時は、いつでも遅刻して良いんだよ」
彼女は笑った時に目が無くなる。その代わりに口角が上がって、口が占める面積が増える。私は彼女の笑顔が好きだ。私はこの笑顔を見るために、彼女の前で遅刻をするのはやめようと思った。
***
「……やむを得ない時って、あるよね」
「ん?」
「親が倒れたとか、会社でもミスを早急に対処しないといけないとか、何十年ぶりに親友が地元に来てるって聞いたとか。駆け込みたい理由って、たくさんあるよね」
「……あれ見てよ」
日葵が窓の外を見つめる。韓国カフェに並ぶ高校生カップルが最前列に並んでいた。
「つまんなそう」
「え?」
「彼女、本当は韓国のスイーツなんか興味ないと思う。ほら、彼氏の鞄、韓国アイドルのキーホルダーついてる。彼氏についてきてるんだ」
「……そうかもね」
「さっき通ったお姉さん、買ったスイーツずっと眺めてた。写真も撮らずに見つめてるだけ。きっと他のライバル店舗から視察に来てるんだよ」
「……うん」
「あそこはただの人気じゃなくて、人それぞれの理由があって人気に見えてるだけなんだよ。私達は彼らを知らないし、彼らも私達を知らない。他人の行動に、いちいち口出しちゃいけないってことだね」
「駆け込み乗車にも、人それぞれ理由があるから許せるってこと?」
「それは駄目だね!桜とのデートに遅れちゃったもん。他人に迷惑は掛けちゃダメ!」
彼女が店主にメニューを貰った。高校の時からメニューは変わっていないのに、なぜかメニューが書かれた紙に触れたくなる。理由なんてない。ただ私達がここにいるのは、ここにいたいからだ。
レイトネスとシーグラスとオムライス 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21
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