第11話『妹に似ている女の子』
帰宅後、ラウルはバルタザールがずっと浮かない顔をしているので、心配になったわけではないが声をかけた。
「おい堕悪魔、先刻からどうしたんだよ」
「……」
「腹でも減ったのか?」
ラウルは手早く夕食の支度をはじめながらバルタザールに言った。
「すぐ夕飯にするから、それまでプリンでも食べてろよ」
「……」
バルタザールは何か考える顔はしつつもちゃっかり台所に行ってプリンを取ってきて食べはじめた。
ラウルはその間、珍しくにこにこ顔で料理をしていた。鼻歌まで歌っている。こんなに楽しそうなラウルを未だかつて見たことがないバルタザールは、一人暗然としてラウルに言った。
「……ご機嫌ですね、先生」
「今日は楽しかったからな、直接読者に会えて、声が聞けて」
「それはよかった」
バルタザールは懐から契約書を出すと、それをつまんでひらひらさせながらラウルに見せる。
「先生、忘れられちゃあ困りますぜ。おれさまは先生と、先生の死後の自由をもらう契約をしているんですぜ」
「契約? 何を悪魔みたいなことを言ってるんだ」
「いや、おれさま、悪魔なんですけど……」
「ごちゃごちゃ煩い奴だな、大人しくプリンでも食ってろって」
「はーい……」
バルタザールは日々自分の扱いが雑になっているラウルに何か言おうとも思ったようであるが、結局プリンをスプーンですくって大きな口に放った。
難しい顔をして、プリンを貪っている。
そのうちに台所から別の美味しそうな匂いがふわふわと漂ってくる。プリンを食べ終えたバルタザールは、ふらふらと台所へ行った。
「先生、今日の晩飯はなんです?」
「今日はビーフシチューだ、サイン会祝い」
「またささやかな……ぱーっと塊肉でも買えばいいものを」
「そんなの無駄遣いだろ、そもそも二人じゃ食いきれない」
「もう聞き飽きましたよ、先生の堅実な台詞」
バルタザールは勝って知った我が家のように――悪魔に〝我が家〟というものがあるのかはさておき――カップを出して冷えたお茶を注いで飲んだ。
ささやかな晩餐が済むと、ラウルはスーツの内ポケットから手紙を出した。あの、妹アニエスに雰囲気の似た、アメリーという少女がくれた手紙だ。
ラウルは糊でしっかりと封がされた手紙をペーパーナイフで切って開封する。中にはレースのような白い便箋が一枚入っていた。広げてみると、綺麗な字が、文章となって並んでいた。
ラウルは手紙を黙読した。内容はこうだ。
〝はじめまして、ラウル先生。わたしはアメリー・エマールといいます。先生が初めて出された本からのファンです。私のいる病院の先生が買ってくれたのがラウル先生の本を読むきっかけでした。わたしはラウル先生が書かれる冒険の話が大好きです。わたしはずっと病気で入院しているのですが、病気で何処へも行けないわたしを、いろいろな世界へ連れて行ってくれるラウル先生の物語を心の支えにしています。今回初めて二巻が出版されたこと、およろこび申し上げます、次のお話も楽しみです――アメリー・エマール〟
(アメリー、か……)
もらった手紙を読むうちに、ラウルは胸が熱くなるのと同時に灰色の目を細めていた。
手紙をくれた車椅子の少女、アメリーから感じた希薄な生命感を思い出してしまう。アメリーが病院暮らしだと知り、ますます妹と重ね見てしまう。
一方のバルタザールは浮かない顔のまま食事を済ませてからずっと、アメリーと一緒にいた白い女ラモールを天界へ追い返す方法を考えていたが、何も思いつかずに嘆息していた。
ラウルはバルタザールの変化に気付くことなく、自分の原稿と考えごとに集中していた。早くも三巻分の原稿の執筆にとりかかっていたラウルであったが、アメリーのことを考えながら書いていると筆が止まってしまう。
思い出していたのだ。何もしてやれることなく、妹の死を見届けてしまったことを。勿論妹の死は寿命で天命で、ラウルには何の落ち度もない。ラウルは医者ではないし、兄としてできることを精一杯してやったつもりであったが、未だに自責の念に駆られることがある。
もしも、なんてことがないのは分かっているが、それでも思わずにはいられないのだ。もしアニエスが生きていたら、今、二十五歳になっているはずであった。きっとすこぶるつきの美女になっていたことであろう。
そう思うと切なかった。アニエスにしてやれなかったことを、おこがましいとは思いつつ、あの車椅子の少女アメリーに何かして、励ましたいと、ラウルは思いはじめていた。
「……堕悪魔」
「……何です?」
バルタザールが考えごとの最中みたいな顔でラウルの方を向いた。ラウルはさりげなく、バルタザールに言った。
「堕悪魔、車椅子に乗ってた金髪の女の子、覚えてるか?」
「白い女と一緒にいた子でしょう?」
「そっちの女の方は覚えてないけど」
ラウルはことりと万年筆をテーブルに置いて片肘をつき、頬杖をついた。物憂げな表情になって、呟く。
「おれはあの子を……アメリーを励ましたいんだ」
「は?」
バルタザールの目が点になった。溜め息をついて、
「また妙な気を起こしましたね、先生」
「あの子のために何かしたいんだよ、あの子は妹に……アニエスに似てる」
バルタザールは呆れ顔で、オレンジ色の癖毛を掻いた。
「いいけど、会ってどうするつもりで?」
「とにかく励ましたいんだ、病気の身でサイン会に来てくれたことへの礼も言いたいし」
「高尚なことを……」
バルタザールは鼻で笑った。ラウルはむっとした顔をして、再び万年筆を握る。
「とにかく! 病院を突き止めろよ、明日の昼頃病院に行くからな。おれはそれまで原稿してるから」
「はいはい……やりますよ、やればいいんでしょ」
バルタザールは一度目を閉じると、かっと黒い目を開いた。その一瞬のうちにバルタザールはアメリーが帰った病院を突き止める。
バルタザールは答えた。
「あの子は市内のパリ大学病院に入院してますぜ」
「パリ大学病院か、ありがとう、堕悪魔」
それからラウルとバルタザールの間に言葉はなかった。ラウルは原稿に集中し、バルタザールはまたプリンを食べながら自分の考えごとをして、各々過ごしていた。
それから数時間、バルタザールがちょっとだけ眠って目を覚ますと、ラウルがまたテーブルに突っ伏して眠っていた。万年筆を持ったままぐうぐう言っているラウルに、バルタザールは苦笑する。
「全くこのお人好しは……」
呆れ半分、感心半分で、バルタザールはラウルに毛布をかけてやった。
「お前が毛布かけておいてくれたのか、堕悪魔?」
「……他に誰がいるんです」
翌朝、簡素な朝食をとりながらラウルが言った。バルタザールはそっけなく肯定して、砂糖たっぷりのコーヒーを啜っている。
「先生は……なんていうかな、応援したくなる哀れっぽさがあるんですよ、毛布くらいかけてやりますぜ」
「哀れっぽさかよ……まあいいか、ありがとう」
「どういたしまして」
ラウルは原稿をしながら昨日のサイン会の会場から郵送してもらった読者からの贈りものが届くのを待ってから、バルタザールを連れて外出した。
この日は風が冷たかったが、雪は降っていなかった。住宅街から大通りに出て、てくてく歩いていく。
「花屋に寄っていいか?」
「どうぞ……あの子に買っていくんで?」
「ああ……手紙のお礼に」
「ふーん、手紙ねえ」
ラウルは大通りに面した花屋に寄ると、少し考えてからガーベラとかすみ草で花束をつくってもらった。薔薇だと気障ったらしく思えたので、ガーベラにしておいた。ラウルは花束を大事に抱えて、病院へ向かった。
パリ大学病院は国立の大きな病院であった。この国で一番の最高学府であるパリ大学の付属病院で、多くの権威ある医師が勤務しており、この時代の最先端医療が受けられる場所であった。広い病院の前庭には雪が降っていないからか散歩をしている入院患者の姿や、講義へ向かう途中の大学生、白衣を着た医師が歩いている。
ラウルがぽつりと呟いた。
「変わらないな、此処も……」
「?」
首をかしげたバルタザールに、ラウルは教えた。
「おれの妹……アニエスも此処に入院してたんだよ」
花束を抱えたラウルは病院の受付でアメリーの部屋の場所を訊いた。
「行くぞ堕悪魔、二階の奥だって」
階段を上がりながらバルタザールが頭の後ろで手を組みながら言った。
「あの子、アメリーちゃんでしたっけ? さぞ驚くことでしょうな」
「ははは、サイン会は昨日あったばかりだからな」
アメリーの病室は個室の一人部屋であった。ラウルは病室前の名札を確かめると、一度深呼吸して扉をノックした。
「どうぞ」
中からアメリーの声が聞こえた。ラウルはそっと扉を開ける。
「こんにちは、アメリーちゃん」
「ラ、ラウル先生!?」
アメリーは病院着の上に金髪が映える赤いカーディガンを着て、昨日買ったばかりのラウルの新刊〝沈んだ世界〟の二巻サイン本をめくっているところであった。アメリーの側には、車椅子を押していた白い美女ラモールが、椅子に座って林檎の皮を剥いている。ラモールも顔を上げる、ラウルの訪問を予期していたかのように。
ベッドの上で座っていたアメリーが立ち上がろうとしたので、ラウルは慌てて制した。
「いいよ、座ってて」
「すみません」
アメリーが恥ずかしそうに俯いている間に、ラウルは予備の椅子を引っ張ってきて、ベッドの側に座った。バルタザールは林檎を剥いているラモールを険しい表情で見つめている。
アメリーがバルタザールを見て問うた。
「あの、此方の方は? 昨日もいらっしゃいましたよね」
「こいつはうちの居候、ついて来ただけだから気にしないで、アメリーちゃん」
「あ、名前……呼び捨てでいいです、ラウル先生」
「じゃあアメリー、おれからプレゼント……手紙のお礼、嬉しかったよ」
「わあ、これをわたしに?」
ラウルは背中に隠していたガーベラとかすみ草の花束を照れくさそうにアメリーに手渡した。アメリーは青白い顔をぱっと明るくさせる。花の匂いを吸いこんで、ラウルの方を見てにっこりとする。
「わたし、こんなに大きな花束初めてもらいました……うれしい」
「……私(わたくし)が飾っておきましょう、貸して、アメリーちゃん」
「そうして、天使さま」
(天使?)
ラウルが白い女ラモールを見やると、ラモールは艶然と微笑んだ。部屋の水道の蛇口をひねって、花瓶に水をため、花を飾ってアメリーのそばに置いてくれる。
バルタザールが〝何が天使だ〟と小声で毒づいている。
「でもラウル先生、よくわたしの入院している病院が分かりましたね?」
不思議そうに首を傾けたアメリーに、ラウルは答えた。とはいえ、バルタザールが悪魔であって、その力をつかって病院を探し当てたとは言えないので、適当に誤魔化す。
「大きな病院から当たっていったらすぐ見つかったんだよ」
「まあ、そうでしたの」
「アメリーは外出のときはいつも車椅子なのか?」
「はい、体力が落ち込んでいるから車椅子なんです……本当はあんまり出かけちゃいけないんですけど、昨日はどうしてもラウル先生に会いたくて」
うっかり泣きそうになって、ラウルは目をこすった。
「ラウル先生?」
「ごめん、なんでもないんだ」
それからラウルとアメリーは楽しく雑談した。好きな小説の話や、冒険小説について話した。
「病院の先生にすすめられてラウル先生の本を読んでいたんですけれど、最初再デビューって知ったときは驚きました」
「はは……ちょっと出版社で揉めちゃってね、再デビューして今のところ、ルテティウム書房に移籍したんだ」
「でも再デビューのおかげでラウル先生が有名になって、わたし、嬉しいです。ラウル先生はもっと評価されるべきだと思ってましたから……」
ラウルは図らずも口元を綻ばせていた。ラウルの成功を我がことのように思ってくれているアメリーの存在が嬉しくてありがたくて、熱いものが胸にこみ上げる。
「おれ……作家になってくれてありがとうだなんて、初めて言ってもらったよ。すごく、嬉しかったし、また頑張ろうって、思えた」
「本当に? そう思えてもらえたなら、わたしも嬉しいです」
ラウルとアメリーは気恥ずかしげに小さく俯いて、笑いあった。ラウルは何となしにアメリーに問うた。
「アメリーは歳いくつ?」
「十五です」
「十五か……」
ちょうどラウルの妹アニエスが亡くなったのが、十五の歳、ラウルが初めてデビューした頃であった。そぞろに昔が偲ばれて、ラウルは懐かしくなった。
「……おれにはアメリーと同じ歳の妹がいるんだ」
「まあ、どちらに?」
ラウルは口走って少し後悔して、言葉を濁した。図らずも目を細めていたことに気づき、はっとして笑顔をつくる。
「今は結婚して、よその町で暮らしているんだ……」
「ラウル先生、わたしね」
ラウルの表情がわずかに翳ったのを見て、アメリーがさっと話を変えてきた。アメリーは昨日買ってサインをしてもらった本を大事そうに持って、ラウルを見つめた。
「ラウル先生の書かれるお話って、読むひと一人一人に語りかけるような優しさを感じます……そういうところも、好きです」
「ありがとう……!」
ラウルは勝手に病気のアメリーを励まそうと思い立って来たのはいいが、何だかラウルの方が励まされ、勇気付けられ、自信をもらってしまった気がして、頭が下がる思いであった。
「エマールさん、点滴を替えますよー」
「あ、はーい」
看護師が病室に入ってきたので、ラウルは初めて来たのに長居するのもよくないと思って立ち上がった。椅子を片付けて、
「おれ、そろそろ行くよ……また来てもいいかな?」
アメリーはにっこり笑って、快くラウルの再訪を許可する。
「是非来てください……わたしもまたラウル先生とお話がしたいです」
「ありがとう……それじゃあ、また」
バルタザールを連れて病室を出ると、バルタザールが口先を尖らせて言った。
「どうしてあの子を気にするんで? サイン会のときから先生、何かおかしいですぜ?」
ラウルはつかつかと歩きながら答えた。ラウルは完全に、アメリーの中に死んだ妹の面影をみていたのである。
「前にも言ったけど……あの子、アメリーはアニエスに似てる」
「そうですかね? 写真見たけどそんなに似てますか?」
「見た目じゃない、雰囲気がだ」
ラウルはまたアメリーの元へ行くつもりでいた。しかしバルタザールは浮かない顔だ。ラウルはアメリーの側にいた白い女ラモールの正体を知らないのだ。アメリーを励ましたくて病院に通うことを決めていたラウルに、ラモールの正体はあまりにも酷(こく)すぎた。バルタザールはラウルの気持ちを考えると、ラウルにラモールの正体を軽々しく教えることなんて出来なかったのである。
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