第10話『サイン会の悪夢』

 とうとうサイン会の日はやって来た。花の都で一番大きな書店を会場に、多くのひとが集まった。この日のために書店に用意されたラウルの再デビュー作の二巻は五十冊であったが、あっという間に売れてしまって急遽本を追加する運びとなったくらいの人気振りであった。本を買った人々は、列を作って、著者のラウルが現れるのを待っている。

 一方で、今日の主役のラウルはと言うと、人生初のサイン会ということもあって控え室でそわそわしていた。落ち着かなくて椅子にも座らず、部屋のなかを右往左往している様子を、バルタザールと担当に笑われていた。


「先生、座ったらどうです? うそうそしてないで」

「そうですよ、お茶でも飲んでください」


 ラウルは鏡の前でもう何回目になるかも分からないネクタイの調節をして、額の汗をハンカチで拭った。


「落ち着いていられるか! サイン会なんて初めてだし……綺麗にサインが書けるか、来てくれたひととちゃんと話せるか心配なんだ」

「先生、字は上手いから会話に集中すればいいかと思いますぜ」


 バルタザールがそう言って唇をにまりとさせると、担当が、暢気にお茶を啜っているバルタザールを見てラウルに訊いた。


「ドルレアク先生、何で居候のバルタザールさんが来ているんですか?」


 バルタザールは角と脚を隠した外出仕様でラウルについてきていた。ラウルは金魚の糞でも見るような目でバルタザールの方を見て、小さく息をつく。


「来たい見たいって煩くて。連れてきてしまったよ」

「ドルレアク先生も大変ですね……」

「そうなんだよ、この暇人の相手も……」


 勿論担当はバルタザールの正体を知らないので、ラウルはバルタザールの正体が知れないように注意しながら話している。

 すると担当がラウルの再デビュー作シリーズの二巻をそっとラウルに差し出した。ラウルはきょとんとして、


「あれ? 買ってくれたのか」

「はい。サインくださいドルレアク先生、記念に」


 ラウルは苦笑して、快くサインをしてやった。ラウルのサインは飾り気はないが、綺麗な字で書かれた筆記体のサインであった。考えに考えた末、結局無難なデザインに落ち着いたことは否めないが、今ではその方が変に凝っていなくて作家らしいとも思っていた。

 担当は嬉しそうにサイン本をめくっている。

 ラウルの再デビュー作シリーズは〝沈んだ世界〟という題名であった。

 物語の内容は、大災厄で山々の頂を除いた全ての土地が海に沈み、かつて山であったが島と化した場所を歴史学者の少女が仲間と共に旅するというものだ。少女たちの旅は何故大災厄が起こったのか、沈んだこの世界とは何たるかを究明することを目的としている。大長編の海洋冒険譚だ。


「三巻、出せるかな」


 ラウルが消え入りそうに弱気な声で言うと、担当が笑いとばした。


「何を弱気になっているんです、二巻がもうこれだけ売れているんですよ? 一巻もまだまだ重版されていますし、サイン会だってするんですから。ドルレアク先生、どんどん続きを書いてくださいね!」

「そうだな……」


 ラウルは口元だけで小さく笑って、また鏡の前に立った。そのとき、バルタザールが壁に掛かった時計を見て言った。


「先生、そろそろ時間ですぜ、先生のファンがお待ちかねですよ」

「よし……じゃあ行ってくるか」


 ラウルがまたスーツの襟を直していると、何故かバルタザールも行くつもりなのか曲がった帽子を整えている。

 担当が先頭に、ラウル、バルタザールと続いて、控え室から会場に入った。


「ドルレアク先生、入ります!」


 拍手が起こった。ラウルは席につく前に胸の上に一度手を置いてから、座った。

 サイン会がはじまった。

 ラウルは集まってくれたひと一人一人と握手を交わし、短いながらも言葉をかけて、買ってもらった二巻にさらさらとサインを書いていった。中には打ち切られっぱなしであった時代の、ラウル不遇の頃からのファンだと名乗る青年もいて、ラウルは嬉しくなったのであった。その青年に〝意外と若い先生だったんですね〟と言われて、ラウルは苦笑いしたものであった。ラウルは十歳若返ったことを秘密にしていたからである。


「はじめまして、著者のドルレアクです」

「今日は何処からいらしたんですか?」

「えっ、そんなに以前からおれの本を?」

「これからも応援よろしくお願いします」

 読者と二言三言言葉を交わしているうちに、ラウルは二十人分くらいのサインを書いた。

「ありがとう」

「次の方、どうぞ」


 きい、と車輪の回る音がした。ラウルは目をしばたたく。


(アニエス……?)


 次に並んでいたのは車椅子に乗った美しい少女であった。白髪の美女に椅子を押してもらっている。

 金髪のセミロングを横で三つ編みにして、暖かそうな赤色の外套を着ていた。青白い小さな顔の中で、透き通った茶色い瞳がくりくりとしている。

 ラウルはその少女に妹アニエスを幻視してしばらく硬直した。見た目が似ていたわけではない。しかし少女が纏う病的に優しく儚げな空気が、アニエスに酷似していたのである。アニエスとは全く系統の違う少女にラウルは既視感を覚えて、妹がよみがえってきたのではないかとさえ思ってしまった。

 一方で、出版者の関係者みたいな顔をしてラウルの後ろに立っていたバルタザールは、少女の車椅子を押していた無彩色の美女を見てぎょっとして後ずさっていた。わなわなと表情を引きつらせていたが、ラウルはバルタザールなんて見ていない。目の前の少女に釘付けであった。

 ラウルは驚きが顔に出ないように努めて落ち着いた表情を拵えて少女に言った。


「はじめまして、ラウル・ドルレアクです……今日は来てくれてありがとう。名前は?」


 少女はラウルに本を渡しながら可憐な声で言った。


「アメリー・エマールといいます。ラウル先生、二巻の発売、おめでとうございます」

「ありがとう、そう言ってもらえると嬉しいよ」


 ラウルは平常心でいるのに必死であった。アメリーさんへと名前を入れてから、サインを書き込む。顔はまったく似ていないというのに、アメリーから妹アニエスのような懐かしい雰囲気をひしひしと感じていた。もっとアメリーの顔を見ていたいと思ったが、一人に割ける時間は残念なことにあまりない。


「あの、ラウル先生」

「? どうしたの?」


 アメリーは〝ラウル先生へ〟と書かれた白い封筒をおずおずとラウルに差し出した。ラウルはそれを受け取ると、また灰色の目をしばたいた。


「これは?」

「わたしからラウル先生にお手紙です……ラウル先生、作家さんになってくれて、ありがとう」

「い、いや、此方こそ……嬉しい言葉をありがとう、作家冥利に尽きるよ」


 ラウルは照れてしまいそうなのをこらえて、アメリーにサインをした本を渡した。最後に握手をして、別れる。


「来てくれてありがとう、身体を大事にね」

「はい……ラウル先生も執筆頑張ってくださいね」


 ラウルはアメリーに微笑みかけて、愛用の万年筆を握りなおした。

 白い外套を着た白髪の美女に車椅子を押されて去っていくアメリーの姿を、ほうっと見守る。眉をひそめ、しかし瞳は寂しげに、アメリーの頼りない背中を見送る。もらった手紙に視線を落とし、ラウルはしばらく沈黙してしまう。


(アニエスかと、思った……)

「ドルレアク先生? どうしました?」

「あ、いや、何でもないんだ!」


 呆っとしていたところを担当に声をかけられて、ラウルははっとして手紙をスーツの胸ポケットにしまいこんだ。

 バルタザールがいなくなっていることなんて、ラウルは気づかなかった。


 バルタザールは書店の外にいた。アメリーを、否、正確に言えばアメリーの車椅子を押していた白い美女を追いかけていたのだ。


「さあ、帰りましょうか、アメリーちゃん」

「はい、天使さま」

「待て、ラモール!」

「!」


 アメリーと白い女に追いついたバルタザールは叫んだ。アメリーは飛んできた大声にびっくりして肩を震わせる。対照的に、白い女はゆるりと顔を上げた。氷のように冷たい美貌が、息を上げて走ってきたバルタザールの黒い瞳を射抜く。

 白い女はアメリーに、


「ちょっと待ってて、アメリーちゃん」


 と言って、バルタザールに近づいていった。優雅な足どりでバルタザールの前に立ち、高慢な視線を向けてくる。

 バルタザールは唾を飛ばしそうな勢いでわめいた。


「ラモール、どうしてお前が地上にいる!? どういうことなんだ!?」

「作家先生と上手く契約を結んだようね、バルタザール……お前にしては首尾よく動いているじゃないの」

「質問に答えろ!」


 バルタザールがぎりぎりと牙を噛みしめると、白い女、ラモールはようやくバルタザールの問いに応じた。


「私(わたくし)は神の意思で地上に来た」

「神の意思だって?」


 バルタザールはオレンジ色の眉をぴくりと持ち上げた。

 バルタザールは神と賭けをしていた。信心深いラウルの魂を奪えるか奪えないかという簡単な賭けであった。

 だが勝負の行方は明白であった。ラウルは神への信仰を捨て、バルタザールを召喚し、バルタザールはラウルの死後の自由を奪う契約まで交わしたのだ。見せろと言われればラウルの血の署名つきの契約書だってある。

 バルタザールはこの勝敗の見えきった賭けに対して、バルタザールがいい思いをしないように神が邪魔をしてきたものだと悟った。

 バルタザールは眉間に青筋立てて、ラモールを爪の長い指先で指した。


「あの老いぼれに言っておけ、ラモール! 先生の魂は必ずおれさまがものにしてみせると!」


 だがラモールがバルタザールの宣戦布告に対して言った言葉は、


「……神も歳をとったのでしょうね、また会いましょうバルタザール。近々また会うことになるでしょうから」


 ラモールは離れたところで待っていたアメリーの元へ戻ると、車椅子を押して去っていった。


「うぐぐ……なんてことだ、あの老いぼれめ……!」


 バルタザールはぎりぎりと奥歯を噛んだ。

 ラモールはバルタザールにとって、強敵であったのである。


(あの老いぼれ、自分の娘を、しかもあいつはただの娘じゃないときた……!)


 とことこ去っていくアメリーとラモールを口惜しげに睨んでから、バルタザールは困り顔で、顎に手を添えた。


「面倒なことになってきたぞ……!」


 バルタザールがサイン会会場の書店内に戻ると、ちょうど全ての二巻購入者へのサイン会が終わっていた。拍手の中、控え室の中へと下がっていくラウルの姿が見える。バルタザールは急いでラウルの元へ戻った。


 サイン会は大盛況、控え室にはラウルへのファンからの贈りものが山となっていた。一巻のプロフィール欄にコーヒーが好きだと書いておいたらコーヒーをたくさんもらった。中にはワインをはじめとする酒を贈ってくれた、ごく少数の昔からのファンもいた。勿論、アメリーのように普通に手紙をくれた者も多くいた。

 贈りものの山を見て、ラウルは苦笑をこぼす。


「すごい量だな、何処から手をつけていいやら」

「流石ドルレアク先生、人気が窺えますね……」

「持っていけないからあとでうちに郵送してくれないか?」

「分かりました、手配しておきます」


 他のもらいものは全て郵送に回したが、アメリーからの手紙はラウルのスーツのポケットにあった。ラウルはアメリーのことが忘れられなかった。

 出版社の関係者が動きはじめると、ラウルはようやくバルタザールがいないことに気がついた。


(堕悪魔の奴、何処行った?)

「先生ーっ!」

「! あ、いた」


 走って控え室に戻ってきたバルタザールに、ラウルは溜め息と共に尋ねた。


「何処行ってたんだ堕悪魔……サイン会終わったぞ」

「いや、先生、ちょっとおれさまとしてはまずいことになっちまいまして」

「何だよ、歯にものが挟まったような言い方して」

「先生、白い女が来てたの覚えてます? ほら、車椅子の女の子と一緒にいた」

「車椅子の女の子のことしか覚えてない」

「そうですか……まあ先生には関係ないか」


 ラウルは怪訝そうにバルタザールを見たが、すぐに万年筆をスーツの胸ポケットに差し込んで言った。


「帰ろう、堕悪魔。プリンでも買って」

「はい……」


 プリンに喜ばないバルタザールをラウルは不思議そうに見ていたが、ラウルは担当や出版社の関係者に挨拶をした。


「お疲れさま、今日はありがとう」

「「お疲れさまでした」」


 ラウルとバルタザールは裏口から大型書店を出た。雪がちらちら舞っている。

 ラウルは外套のポケットに手を入れてしっかり巻いたマフラーで首を暖めながら歩いていった。

 バルタザールは面白くなさそうに、足元にあった雪の塊を蹴ったのであった。

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