第9話『堕悪魔の力』
やがてラウルの新人賞受賞作が本になり、世の中へ発表されることとなった。再デビュー作は大ヒット、また不人気で打ち切られるのではないかというラウルの心配をよそに次々に重版がかかり、大増刷となった。
二巻に当たる続きの執筆依頼が来るところまでしか予想していなかったラウルは一躍売れっ子作家の仲間入りを果たし、新担当と二巻の打ち合わせをする日々が続いた。
バルタザールは何もせず、プリンばかり食べて怠惰に過ごしていた。ラウルの内側に蓄積していた十年分もの時間を食べたのはもう四ヶ月近く前のことであるが、まだ腹は減っていないようである。ちゃっかりとラウル宅の居候のような態で、担当がラウル宅へ打ち合わせに来たときも居候の振りをしてやりすごしていた。
ラウルは本の印税が多く入るようになって一気に収入が増えたので、十年住んだ市営住宅を引っ越さなくてはならなくなった。市営住宅は所得の低いひとしか入れないからだ。打ち合わせや現行の続きの合間に掃除と引っ越し作業が入った。十年もの間住んでいた家の片付けは一人では大変であったので、プリンで釣ってバルタザールにも手伝わせた。
ラウルが選んだ新居は、小奇麗な小さいアパートであった。収入が増えても、ラウルは決して家賃の高い家に住もうとはしなかった。貧乏が身体に染み付いているのかもしれない。新居はやはりワンルームで、前の家より少しだけ広い。
全ての荷物を運び込み、一息ついたところで、バルタザールが文句を言った。
「疲れた疲れた……それにしてもどんなお城に引っ越すかと思ったら、前の家とさして変わらないじゃあないですか。おれさまてっきり高い印税ででかい家でも買ったのかと」
「お前が高い家に住みたいだけだろ、堕悪魔。それによく考えてみろ、高い家を買ってあとでローンが払えなくなって家を手放すことにでもなってみろよ、それこそみじめだ。おれの同期にはそういう奴もいたんだぞ」
「本っ当、堅実なお方だ……」
そこで誰かが部屋の扉をノックしてきた。引っ越して早々、誰であろうか。ラウルが苛々しながら立ち上がると、訪問者が声を発した。
「こんにちは、ルテティウム書房のシャロレイです!」
ラウルとバルタザールは顔を見合わせる。
「担当だ、そういえばあいつには此処の住所、教えたんだった」
ラウルは頭に巻いていたパイル地の布をほどくと、箱で埋まった床を器用に走った。バルタザールは荷物を運び疲れて、ソファーの上に寝そべっている。
「はあ、プリンでも食べながらゆっくりしようと思ったのに、来客とは」
「お邪魔します……あ、こんにちは、居候のバルタザールさん」
「……どうも、担当サン」
ラウルが担当に席をすすめると、担当は腰を下ろした。ラウルも向かい合って椅子に座る。担当はいつも来るときは必ず電話をくれるので、今回のような訪問は珍しいことであった。
担当はラウルに尋ねた。
「ドルレアク先生、原稿捗ってますか?」
「ああ、此処数日は引っ越しでばたばたしていて書いてなかったけど……今日は突然どうしたんだ?」
「先生に吉報です、編集部で先刻決定して、いてもたってもいられなくて来ちゃいました」
ソファーの上でごろごろしていたバルタザールが、首をかしげたラウルの後ろでむくりと起き上がる。
「吉報だって?」
ラウルは茶髪を掻いて訝しげに眉を寄せた。若返っても疑り深いところは変わっていない。再デビュー作のヒットという幸福に恵まれたラウルに、これ以上何の吉報があるというのか。幸せが過ぎて少し怖くなっていたラウルは、唇を結ぶ。
身構えたラウルに、担当は吉報の内容を告げた。
「二巻発売記念に、サイン会が決定したんですよ!」
「サイン会!?」
ラウルは拍子抜けしてぽかんと口を開け放った。バルタザールはにやっと大きな口を裂く。
担当に詳しい話を聞くところによると、一巻の大増刷に伴って次に出る予定の二巻もすでに初版十万部が決まっているそうであった。わずか二巻刊行でサイン会という運びは珍しいが、少年少女向きレーベルでの異例の大ヒットを祝して、サイン会が決定したのだという。
ラウルは喜びに打ち震えた。言葉はなかった。十年もの作家歴があるラウルであったが、サイン会なんて夢のまた夢であったのだ。
ラウルは今にも泣きそうな顔をして、担当に問い返した。
「本当なのか、その、サイン会」
「……そこ疑いますか、先生」
「はい、勿論。大型書店をもう会場として押さえてあります!」
担当の言葉にようやく、夢のような現実が本当だと確かめたラウルは、椅子の上で脱力してしまう。
ラウルは男の癖に細い指先で顔を覆った。
「おれのサイン会なんて……来るひとがいるかな……?」
顔を隠した指の間から、温かい涙が漏れて、ラウルの手や頬をしとどに濡らした。
「先生が感極まってる」
「黙れ」
からかうように笑ったバルタザールに、ラウルは真っ赤になった目を向けて睨んだ。目をごしごしこすると、乾いた声で笑う。
分かっているのだ。この成功は全てバルタザールの力の上に成り立っていると。それでも今は、自分の力で、自分のしたことが認められたと自惚れるのを許してほしかった。
(……頑張ろう)
まずは行為ありき。バルタザールの受け売りだが、願うにしても自分で動かなければ何もはじまらない。はじまらないのだ。ラウルは額に手を置いて、沈黙した。辞めるのは簡単だが終えるのは難しいこの仕事を全うするために、ラウルはきりりと表情を改めた。やるしかないのだ。バルタザールに何を願おうと、はじめるのは自分、決めるのは自分だ。
「それじゃあまた来ます、原稿頑張ってくださいね」
「ありがとう」
しばらくサイン会と二巻についての打ち合わせをしてから、担当は引っ越し祝いの菓子を置いて帰っていった。ラウルは担当を見送ってからテーブルに戻ってくると、小さく息をついた。
「サイン会か……夢みたいだよ、堕悪魔」
「よかったじゃないですか、先生」
バルタザールは再びソファーに横になると、にやにや笑いながらラウルに言った。
「先生は確実に売れてますぜ、これからどんな大物に化けるのか、おれさまは面白くて仕方がない」
「……おれは幸せすぎて怖いくらいだよ」
「まあ楽しんでくださいよ、この世の幸せというやつを」
ソファーの上でごろごろしているバルタザールに、ラウルは言った。ラウルはテーブルの上に書き溜めた設定集と書きかけの原稿用紙を広げている。
「堕悪魔、箱の中身を出してくれ」
「えー、先生の荷物じゃないですか、おれさまのものなんてなにも」
「おれは続きを書かないといけないんだ、引っ越しの片づけくらいお前がやれ、居候」
「プリン買ってくれるならいいですよ」
「この穀潰し」
「プリン潰し」
「黙れ」
ラウルはバルタザールを無視して原稿に向かった。十年前の投稿時代のときのようにひたすら書いた。アイディアに詰まることもなく、万年筆の先が原稿用紙の上をさらさらと走った。書きたいものを書きたいだけ書かせてもらえるという環境のありがたみを痛感しながら続きを書くラウル。しかしバルタザールが原稿の邪魔をしてくる。集中しているラウルの横から、話しかけてきたり、ちょっかいを出してくるのだ。
「先生、プリン買ってきてくださいよー」
「おれさま甘いものが食べたくて」
ずっと原稿を睨んでいたラウルはバルタザールがあんまり煩いので、うんざりした表情で顔を上げた。万年筆を持った手で担当が置いていった引っ越し祝いの菓子を指す。
「担当が持ってきた菓子でも食ってろよ!」
「……」
バルタザールはラウルに邪険に扱われると、しぶしぶ菓子の包装を破って剥いた。箱の中身を見たバルタザールはがっかりしたようにぼやいた。
「……先生、コーヒーとクッキーの詰め合わせですぜ」
「コーヒーとクッキー? いいじゃないか」
「おれさまはプリンが食べたい」
「煩い奴だな」
バルタザールがあんまり鬱陶しいので、ラウルはとうとう集中が切れてしまった。仕方がないのでもらいもののコーヒーを淹れて、休憩することにする。
「堕悪魔、お前も飲むか?」
「角砂糖は十個入れてくださいよ」
そう意思表示をして、バルタザールはラウルの作業するテーブルに近づく。ラウルは呆れて溜め息をついた。角砂糖を十個数えて掴み、コーヒーにぶち込んで溶かす。
ラウルはバルタザールに砂糖をたっぷり溶かし込んだコーヒーを出してやった。
「ほら飲め」
「……先生最近、おれさまの扱い雑になってません?」
抗議は無視して、ラウルはブラックコーヒーを啜った。クッキーを食べ食べ、一息つく。
見るだけで吐き気がするような甘いコーヒー、もはや砂糖水を飲んでいるバルタザールを目の端に置く。バルタザールはコーヒーを飲みながら、担当から以前献本として渡されたラウルの再デビュー作一巻をぱらぱらとめくって眺めている。
「んー、何が受けるか分からない世の中で」
「……堕悪魔」
「? なんです」
ラウルは怠惰に甘味を貪ってばかりいるバルタザールを咎めるように言った。
「またお前は何もしていないじゃないか、今は命令することはないからいいけど、堕悪魔、お前ただの居候じゃないか」
「いいじゃないですか、願いを叶えてやっているんですぜ? おれさまのおかげで先生はすっかり売れっ子作家だ」
「何がおれさまのおかげだよ、この穀潰しめ」
「プリン買ってきてくださいよ先生。このクッキーよりもプリンのほうが断然美味い」
「分かったよ、買いに行けばいいんだろ、おれが……」
ラウルはぶつくさ言いながら立ち上がって、外套を着た。財布と鍵を掴んで、玄関へ向かう。
「何処行くんです?」
「お前のプリンを買いに行くんだよ! その代わり箱の中身を本棚に移しておけよ、おれが戻るまでに終わってなかったらプリンはなしだからな!」
「そんなご無体な」
ラウルは出かけていった。バルタザールは山のように積まれた箱を見て嘆息する。
窓から、外へ出て行ったラウルを見下ろして、バルタザールは溜め息と共に呟いた。腕を組んで、
「やれやれ、悪魔を手玉に取れるとでも思っているのかな、あの作家先生は」
バルタザールはだるそうに、箱の中にぎっしりと詰まった本を本棚へせっせと運びはじめたのであった。
仕方なく行きつけの菓子屋に向かったラウルは雪がちらつく中首をすぼめて通りを歩いていた。急ぐ必要もなかったのに急いで出てきたので、マフラーを忘れてしまった。首がすうすうと冷える。
引っ越しをしたせいで以前住んでいた市営住宅に近かった菓子屋は少し遠くなってしまい、歩く距離が増えてしまった。それでもラウルは行きつけの菓子店に向かった。その店のプリンは妹アニエスの好物で、ラウルは働きながら投稿していたころ、仕事場の近くでもあったので、その菓子屋に足しげく通っていた。
アニエスが病院にいた頃は、いつ病気が治ってアニエスが帰ってきてもいいように、ラウルは部屋がいくつかあるアパートに住んで、アニエスの帰りを待っていた。だがアニエスは帰宅することなく亡くなってしまった。それが今から十年前、妹を失ったラウルは荷物をまとめて広い家からワンルームの市営住宅へと引っ越したのである。アニエスを待っていた頃、アニエスの病院代や広い家の家賃はアルバイト生活をしていた当時のラウルにはきついものがあったが、アニエスのためを思うと、全くつらくはなかったことが、今となっては美しい思い出に変わってしまっていた。
(寒いな……)
ラウルは白い息を吐いて、外套のポケットに冷えた手を突っ込んだ。大通りに出て、旧宅のある方へ歩く。寒さのせいか、心なしか足早になる。
バルタザールに買ってやるプリンだ、別に何処で買ったって構わないのだ。それなのにわざわざいつもの菓子屋に向かっている自分が可笑しかった。あんな悪魔風情に甘味を供給してやっているのも馬鹿みたいな話だが、供え物のつもりでもあったので、阿呆らしいと思いつつ、買ってやることにしていた。
作家としての成功の、その場の対価として考えれば安いものである。
亀のように首をすぼめて大通りを歩いていると、大通りのラウルの進行方向とは反対から十代の少年とおぼしき学生服の子供が本をめくりながら歩いているのを見た。買ったばかりなのか、書店の紙袋を脇に挟んでいる。
(あの子の本……!)
少年が持っていたのはラウルの再デビュー作であった。ラウルはその少年に声をかけたくてたまらなかったが、やめておいた。立ち止まって、少年が去っていくのを、ただ見送った。
少年のほくほくとした笑顔を見て、ラウルの頬が緩む。
(これも堕悪魔のおかげか……)
ラウルは再び歩き出した。いつしか雪はやんでいた。
菓子屋に着くと、ラウルはいつもよりちょっと高いプリンを買った。
バルタザールは言いつけたとおりにちゃんと本を本棚にしまっているであろうか。
ラウルは店を後にすると、また首をすぼめて通りを引き返していった。
サイン会までに格好いいサインを考えなければならない。
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