第7話『動き出す野望』

 ラウルが新人賞に直した原稿を送ってから三ヶ月が過ぎて、花の都は真冬を迎えていた。

 ラウルが不在のラウル宅では、バルタザールがストーブを焚いて暖を取りながら、新聞を読みつつラウルの帰りを待っていた。


「うー、寒い寒い。下界の冬はどうしてこうも寒いのか」


 などと人間界の酷い寒さに文句を垂れながら、新聞に飽きて隙間風に震えていると、玄関が開いて冷たい風が吹き込んでくる。


「ただいまー」


 ラウルが帰ってきた。食糧の買い出しと、本屋に雑誌を買いに行っていたのである。狭く散らかったワンルームに外の吹雪が入ってきて、バルタザールは震え上がった。本に積もった埃だけは動かない。


「先生、早く戸を閉めて! 寒いったらありゃしない!」

「ごめんごめん」


 すっかり若々しくなったラウルは新しく買った若者向けのブランドの外套を脱ぎながら謝った。雪をかぶった頭にパイル地の布を乗せて、買ってきた食糧をしまってから一冊の雑誌をテーブルの上へ投げ置く。

 バルタザールが目を輝かせて言った。


「おっ、最終結果が出ましたか」

「そうなんだよ、堕悪魔」

「もう見ました?」

「怖くてまだ見てない」


 ラウルが寒い思いをして発売日に買ってきたのは、新人賞の最終選考結果が載っている小説雑誌であった。そう、最終選考まで残ったラウルの長編がどうなったのかが、これで分かるのだ。しかしすぐに結果を見る勇気のないラウルは、雑誌をテーブルの上に置いたまま、冷えた身体を温めるのにコーヒーを淹れている。

 ラウルはコーヒーを二杯淹れるとテーブルに運んだ。バルタザールは結果が気になるのか、そわそわとページの端を弄っている。

 ラウルはコーヒーを啜りながら雑誌を睨んだ。結果なんて恐ろしくて見る事が出来ない。もし落ちていたらと思うと、その場で呼吸が止まってしまいそうである。コーヒーに角砂糖を十個も入れて混ぜているバルタザールに何か突っ込む気すら起こらない。飲んでいるコーヒーは、全く味を感じられなかった。

 険しい表情でコーヒーを喉に流し込むラウルに、バルタザールがもはや砂糖の入れすぎでゲル化しそうなコーヒーをちびちび啜りながら言った。


「先生、いつまで結果見ないんです?」

「怖いから堕悪魔、お前が代わりに見てくれ……」

「意気地のない先生だな、まったく……さてさて、結果は……?」


 バルタザールは尖った爪先で雑誌のページをめくった。ラウルは膝の上で手のひらを結んで、俯いている。


「えーっと、先生の原稿は……」

(頼む……!)


 バルタザールが明るい声で言った。


「残念、落選!」

「そっ、そんなー!」

「嘘ですよ」

「嘘かよ! 雑誌よこせ!」


 ラウルは涙目になってバルタザールをぽかりと殴り、雑誌を奪い取ると、結果発表のページを凝視した。

 結果は――


「ラウル・ドルレアク――大賞!」


 気のない拍手をしているバルタザールを顧みて、ラウルは今度は先程とは別の意味で澄んだ瞳を潤ませた。


「やった……やった……!」


 ラウルは雑誌を放り出して、バルタザールを抱きしめた。バルタザールはよろめく。ラウルがあまりにも力をこめて抱きついたので、バルタザールは苦しそうだ。


「ありがとう堕悪魔……これでまた本が出せる!」

「よ、よかったね、先生……それと苦しいんですが」


 ラウルはバルタザールを放してやると、詳しい選評を熟読した。が、読んでも読んでも、嬉しさが勝って頭のなかに入ってこない。ラウルは雑誌を閉じた。

 ラウルは一人静かに歓喜しながら、第二の作家人生が拓けたことへの喜びを噛みしめていた。内なる激情が落ち着いてくると、ラウルはまた妹の写真の前で報告する。


「アニエス、またデビューできたよ」


 そんなラウルを見て、バルタザールは頭の後ろで手を組みながら笑った。


「妹馬鹿だな、先生は」


 するとラウルはむっとした顔をして、バルタザールを見る。


「アニエスはおれが作家を目指すきっかけをくれた、だから作家になってからのことを報告しているんだ」

「そうでしたか」


 電話が鳴った。ラウルはもしやと思い、急いで受話器を持ち上げる。


「はい、ドルレアクです」

「ラウル・ドルレアクさんのお電話で間違いなかったでしょうか?」

「そうです、どなたですか?」

「ルテティウム書房です、このたびは新人賞受賞、おめでとうございます!」


 電話はラウルの予想通り、原稿を送った賞の出版社の、新人賞の運営担当からであった。ラウルは一度デビューしているので、この電話がかかってくる流れは知っている。

 懐かしくも心地いいやりとりをしながら、ラウルは賞の運営担当者としばらく話をした。受賞の知らせの後は、授賞式のことについて伝えられた。


「授賞式は来週の日曜日、場所は公国ホテルで、時間は……」


 ラウルは電話横のメモ帳に式の日時と場所を走り書くと、担当者に礼を言って電話を切った。

 バルタザールは首をかしげて問うた。


「誰からですか?」

「出版社から受賞の連絡だよ、授賞式は来週の日曜日だって……新しいスーツを買ってこないと」

「授賞式って何をするんです?」

「賞状をもらうんだ」

「ふーん……」


 バルタザールは思案げに首を傾けていたが、やがてこんなことを言い出した。


「授賞式とは面白そうだ、おれさまも行ってみたい」

「お前も来るか、堕悪魔? でもその角と馬の脚と蹄を隠さなくちゃだぞ」

「頭には帽子をかぶりましょう、足は長いズボンとブーツで誤魔化しますよ」

「それならいいけど」


 ラウルは今日の結果次第で飲もうと思って買ってきた林檎酒(シードル)の栓を開けて、硝子のカップに二人分注いだ。


「祝杯だ! 堕悪魔、酒は飲めるのか?」

「勿論! いただきますよ」

「あとプリンが二つあるから好きなときに食べてくれ」

「先生、太っ腹ですな」

「まあ乾杯といこう、今日はおれの第二の作家人生が拓けた記念日だ」


 カップを手ににやっと笑ったバルタザールに笑み返して、ラウルは自分のカップをバルタザールのカップの縁にぶつけた。

 ラウルは一気に酒を飲むと、心地よく身体が温まっていくのを感じながら、ほろりとした。


「はあ……こんなに美味い酒は久しぶりだ……」


 バルタザールにアルコールは効かないらしく、バルタザールは林檎ジュースでも飲むようにグラスの中身を飲み干してから、プリンを食べはじめている。

 やけに美味しく感じられる酒を一杯だけ飲むと、ラウルは心地いい酩酊の中でさえ唇を結び、白い原稿用紙や設定やメモ書きにつかう藁紙をテーブルに広げたのであった。


 受賞の連絡が来た日の真夜中のこと。

 暖かい毛布にくるまってソファーの上で眠っていたバルタザールは、何かが削れるかりかりとした音で、ふと目を覚ました。ぼさぼさの派手髪を掻き、起き上がって半開きの目で呆っと室内を見渡すと、まだラウルがテーブルに向かって何かしているのが見えた。何か書いているようである。バルタザールは一心不乱に紙に向き合うラウルにおずおずと声をかける。


「……先生?」


 集中して藁紙にいろいろと書き込んでいたラウルは顔を上げた。バルタザールを顧みる。その表情はしゃきっとしていて、少しも眠たそうではない。


「悪いな堕悪魔、起こしたか?」

「こんな夜更けまで何やってるんです?」


 バルタザールは時計を指差して言った。時刻は夜中の三時である。


「まだ寝ないんで?」


 バルタザールが訊くと、ラウルはすっかりぬるくなったコーヒーを啜って、少し疲れた声で答えた。カップを置いた静かな音が、しんとした室内に響く。カーテンは閉めてあって外は見えないが、寒いのに風がなく静寂としている。こういうときは大粒の雪が舞い降っているのだ。


「……寝たくないんだ」

「受賞の興奮で眠れないんで? 子供じゃあるまいし」

「違う! おれは作業がしたくて起きているんだ」

「作業?」


 起き出したバルタザールはのそのそとラウルの作業テーブル兼食卓に近づいてくる。テーブルの上に広げられていた藁紙に書かれていたのは、こと細かな設定たちだ。他にも簡単な図や、絵が描き添えられているものもあった。

 バルタザールは顎に手を当てて、目を細める。


「これは、設定集ですか?」


 ラウルは頷いた。休憩にナイフで鉛筆を削りながら、バルタザールに応じる。


「受賞作の二巻の構想をはじめているんだ」

「二巻の? まだ受賞作、本になってないのに」

「そうなんだけどさ」


 ラウルは確信していた。今回は受賞作の続きを書かせてもらえると。バルタザールが何をしてくれて原稿が賞を獲ったのかは分からないが、此処からはバルタザールが以前言ったように、行為ありきだ。頼ってばかりはいられない。

 きっと続きの依頼は来るから、それに備えて話の続きを考えていたのである。


「受賞が決まったから、いつ次の依頼が来てもいいように、今から考えておかないと……」


 ラウルはそう呟いてバルタザールに笑みかけると、また鉛筆を持って藁紙に書き込みをはじめた。


「努力家ですねえ、先生は」

「そうだといいんだけどな」


 乾いた笑い声を出したラウルの背中を見て、バルタザールはにいっと口角を上げた。

 十年分も、十歳も若返ったことで十年前の、精力的に投稿活動をしていた頃の気力が戻り、ラウルは自分が努力が嫌いではなかったことを忘れていたのを思い出していた。他力本願であったが、だんだんと、夢を追いかけていた頃の情熱を取り戻していく。

 それからしばらくすると、ラウルは流石に眠くなってきたのか、手には鉛筆を持ったままうつらうつらと舟を漕ぎはじめた。バルタザールはラウルが瞼の落ちかけた顔で鉛筆を握りしめている様子を笑いそうになりながら見ている。


「うーん……」


 やがてラウルはテーブルに突っ伏してすうすうと寝息をたてはじめた。バルタザールは苦笑する。

 バルタザールは冷蔵庫からプリンを取り出して、食べながら少しだけ夜更かしした。ラウルはすっかり爆睡である。

 しっとりとした舌触りのプリンを味わいながら、バルタザールは腕を枕に横を向いて寝ているラウルを見つめた。プリンをぺろっと食べてしまうと、バルタザールは立ち上がった。ラウルを起こさないように、そろそろとした足どりで。

 バルタザールはベッドの上に綺麗にたたまれていた毛布を持ってくると、ラウルの近くで広げた。すやすや眠っているラウルに、そっと毛布をかけてやる。


「仕方ない先生だ」


 バルタザールは手のかかる子供でも相手にするように呟いた。

 眠ってしまったラウルは、哀れっぽい、疲れた横顔を晒して寝息を立てていた。バルタザールはその横顔を見つめて、心の中で言った。


(人間にしては風変わりだな、この先生は)


 他力本願に見えて実は努力家、怠惰に見えて根は真面目ときた。悶え尽くめの人間には哀れを催すが、バルタザールはラウルに対して、他の人間とは違った哀れっぽさを感じていたのである。何だか、この男を応援せねばいけないと思わせる哀れっぽさだ。


(さっさと願いを叶えて魂をとって)


 バルタザールはぼろ布のようなカーテンを少しだけずらした。窓は外の寒さと室内の暖かさでひんやりと結露している。曇った硝子を手で拭くと、見えた外は大雪であった。しんしんと粒状の雪が降っている。


(天界へ帰って翼を手に入れようと思ったけど)


 バルタザールは外の寒々とした景色を眺めるのをやめ、カーテンを閉めた。眠るラウルを深い穴のように真っ黒い瞳で見つめて、口角をくいっと上げる。


(面白い人間だ、もうちょっとだけ様子見でもしようかね)


 バルタザールはラウルという人間に興味を持ちはじめていた。

 この、一見冷めていて他力本願であったラウルが若返ったことでかつての情熱を取り戻し、意欲的に創作に取り組むようになっていったのを目の当たりにして、人間とはやはり分からず、哀れを催す生き物だと思ったのである。


(面白いものが見られそうで、おれさまは楽しみですぜ、先生……)


 バルタザールは焚いていたストーブを消し、消灯した。

 そしてソファーの上に戻ると、毛布をかぶって眠りについた。

 明日ラウルは新しいスーツを買いに行くらしい。


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