第6話『原稿を携えて』

 堕悪魔バルタザールを召喚した数日後、ラウルは打ち切り原稿を簡単に手直しした原稿を携えて、他の出版社に回った。原稿の持ち込みをかけたのである。

 だがその結果は散々なものであった。


「小説原稿の持ち込みは受け付けていないんですよ」

「他社でデビュー済みの方の原稿はちょっと……」

「他で売れなかったからうちに?」

「他に実績のないひとの原稿なんて持ってこられてもね」


 ラウルはことごとく持ち込みを断られた。無理もない話である。小説原稿は絵と違って目を通すのが大変なので、出版社からは敬遠されているのだ。

 何か他の分野で成功を収めた著名人ならまだしも、ラウルの肩書きなんて、〝売れない〟作家だ。とりあってくれる者が、いるはずがなかった。


「無理なのは承知です! でも、面白い話だと自信はあります!」

「確かにデビュー済みですけど、もう契約が切れてしまって」

「せめて冒頭を見るだけでも……!」

「他社デビューの実績じゃあ駄目ですか?」


 四社に売り込んだが四社とも失敗に終わり、ラウルは原稿の入った分厚い封筒を小脇に抱えて、とぼとぼと四社目の出版社をあとにした。ラウルが溜め息をつくと、道路に落ちていた色褪せた広葉樹の葉が、冷たい風に吹かれて飛んでいった。

 ラウルは悲しい気持ちで一杯であった。かつてデビューした実績があれば原稿の持ち込みが迷惑であってもせめて目を通すくらいしてくれるのではと思っていたが、それは甘い考えであった。ラウルの実績なんて、過去にデビューしたことよりも今売れていないということの方がラウルの実績といって正しかった。ラウルに押された売れない作家という烙印はラウルを雁字搦めに縛って、その呪縛から離さない。

 仕方がないので、ラウルは原稿の入った大きな封筒を抱えて家路についた。途中、行きつけの菓子屋に寄ってプリンを一つだけ買う。ラウルは秋風の吹きすさぶ枯れ葉舞い散る大通りを重い足取りで歩いていった。着古して布の薄くなった外套が、冷たい風を透かしていた。


「ただいま……」


 ラウルが帰宅すると、堕悪魔バルタザールは汚い部屋の中で新聞を読んでいた。何も楽しいことがなくても笑っているように見える顔を上げて、ラウルに声をかけてくる。


「お帰り、先生」


 その表情がいつになくラウルにとって不快であった。バルタザールはそんなラウルの気も知らず、新聞をたたんで今日の成果を訊いてくる。


「どうだった、持ち込みは?」

「さっぱりだよ、堕悪魔」


 成果が全くなかったので、ラウルは肩を落としてぼやいた。買ってきたプリンを妹アニエスの遺影の前に置くと、苛々とバルタザールを顧みる。

 ラウルはバルタザールと契約をした。願いを叶える契約だ。なのに契約を持ちかけてきたバルタザールはというと、ラウルが原稿を手直ししていたこの数日、ラウルの本を読んだり、怠惰に過ごしたりしているだけであった。これではラウルの願いを叶えに来たどころか、ただの迷惑な居候だ。

 新聞をとじたバルタザールを指差して、ラウルは眉尻を跳ね上げた。持ち込みの結果がはかばかしくなかったこともあって、バルタザールに唾を飛ばす。


「おれを売れっ子作家にしてくれるんじゃなかったのか!」

「まずは行為ありきだ、はじめからおれさま任せだなんて」


 八つ当たりされたバルタザールは窘めるように言った。


「それじゃあおれさまのすごさとありがたみが分からないじゃあないですか」

「分からなくていいよ、おれは結果がほしいんだ」

「やれやれ、わがままな先生だ」


 へらへら構えているバルタザールから、ラウルは妹の写真の方に向き直った。変わらず寂しげに微笑んでいる妹に、今日の出来事を報告する。


「アニエス、打ち切られた原稿を直して持ち込みをかけてみたんだけど、全然駄目だった……これじゃあお前の喜ぶ顔が見れないな」


 溜め息をついたラウルの背中に、バルタザールが問うた。遺影の少女を怪訝そうに見やって、


「その女は?」

「妹だ」


 ラウルはそっけなく答えた。革の剥げかけたソファーに腰を下ろして、ラウルはバルタザールに妹のことを話した。バルタザールは小さな額縁の中の少女を、黒々とした瞳でじっと見つめている。


「名前はアニエス。おれと五歳歳が離れてる……気立てがよくて綺麗で、優しい子だった。生まれつき病弱で、ずっと入院していたけどな……」


 ラウルが五歳のときに、妹アニエスは生まれた。ラウル十歳、アニエス五歳の冬に相次いで両親を亡くし、ラウルは孤児院に、アニエスは病院の児童施設に入った。

 やがてラウルが成長し、進学せずに働きはじめると、ラウルはアニエスを引き取った。アニエスの病院暮らしは変わらなかったが、ラウルは仕事終わりにまっすぐ病院へ行っては、アニエスを励ますために自作の物語を披露していたのである。


「おれは元々、アニエスのためだけに話を作っていた……アニエスはいつも病気で、他の子と遊べなかったから」

「ふーん」


 ラウルが神妙な表情で呟く中、バルタザールはラウルの話よりもラウルがアニエスに供えたプリンの方に興味を示している。


「先生、この供え物は何です?」

「プリンだ、アニエスの好物だった」


 スプーンが添えてあったので、バルタザールはプリンの器を手にとった。ラウルは荷物を置いて、鞄の中身と脇に抱えていた大きい封筒の中身をテーブルの上に広げている。


「これは美味いな」

「は?」


 ラウルが顔を上げると、供えてからまだ十分もたっていないであろう妹のために買ってきたプリンを、バルタザールが食べていた。ラウルは怒鳴る。


「何勝手に食ってるんだ!」

「どうせあとで先生が食べるんでしょう?」

「そういう問題じゃない」


 ラウルが目くじら立てているうちに、バルタザールは小さいプリンを平らげてしまう。その味をいたく気に入ったのか、バルタザールはにやにやしながらラウルに言った。


「先生、また買ってきてくださいよ」

「お前に食わせる甘味はない! まったく……」


 ラウルはバルタザールの相手などしていられないと言わんばかりに、テーブルに広げた原稿を睨んだ。バルタザールのことは放っておいて、鉛筆を手に悩む。自分の原稿には、一体何が足りていないのか……

 むすっとして黙りながら作業をしていたラウルであったが、追い続ける疑問がつい口をついて出る。


「おれの話には何が足りないんだろう……?」

「外連味(けれんみ)とか?」

「黙れよ」


 バルタザールがプリンの器を置いて、ラウルの近くに座った。ラウルは原稿から顔を上げる。いつものにやにや笑いがなかったので、恐らくバルタザールは本気で言っている。力をこめすぎた手の先で、鉛筆の芯が折れた。

 ラウルは筆圧が強すぎて芯の折れた鉛筆をナイフで削りながら、ぶちぶちと文句を言った。バルタザールを横目で見やって、


「何が外連味だ、だいたい堕悪魔、お前来てから何もしてないだろ。偉そうに言うんじゃない」

「先生は少年少女向けの話を書いているんですよねえ?」

「そうだ、悪いか」

「いや」


 バルタザールは爪の長い指先で、とんとんとラウルの原稿を叩いた。珍しく真面目な面差しで、こんなことを進言する。


「若者向けの話を書くんなら若い発想が必要だ、それには先生は老成しているし、実際齢をとりすぎている」


 急に真剣に話し出したバルタザールの言い分にラウルは妙に納得したものの、だからといってどうすることも出来ないので、口を閉ざした。だが、バルタザールの言ったことは当たっている。


「……じゃあおれはどうしたら」

「そろそろ腹が減りましたな、食事にするとしましょうか」

「はあ?」


 ラウルは頬杖をついて、真面目な発言から一転してまた悪い意味で適当なことを言い出したバルタザールを見た。バルタザールは空になったプリンの容器の中にスプーンを突っ込んで、くるくるさせながら嘯く。


「このプリンとやらは美味だが、これじゃあおれさまの腹はふくれないんで」

「穀潰しの居候め」


 ラウルはそうぼやいて舌を打ったところで、ふと思い返す。この数日間、バルタザールは何も食べものを口にしていないのだ――先程のプリン以外は。

 ラウルは問うた。


「悪魔って何を食べるんだ? 魂か?」

「食べるものには個体差がありますが」


 バルタザールはくしゃくしゃの前髪を掻きあげて答えた。


「おれさまの食事は人間の食いものと同じじゃない、魂を食う同胞もいますがね……おれさまの主食は――時間だ」

「時間?」


 ラウルはよく分からなくて、眉間に皺を寄せたまま首をひねった。するとバルタザールの顔が見る見るうちに変化して、人間を模した状態から悪魔本来の異形頭に戻った。その姿はというと、歪な角が長く伸び、口は怪鳥のくちばしに変わり、開かれたくちばしの中には、細かい牙がびっしりと並んでいた。ラウルはぎょっとして後ずさり、その拍子に椅子からひっくり返る。

 椅子から転げ落ちたラウルがぶつけた頭をさすっていると、異形頭のバルタザールが歪な声で言った。


「先生の時間を頂きますよ」

「おれの、時間を……!?」


 言うなり、バルタザールは怪鳥の大きなくちばしをラウルの胸の中に突っ込んだ。くちばしはラウルの体内に入って、何かを咀嚼している。感覚こそないが、ラウルは気持ちが悪くなって必死でバルタザールを拒絶した。


「や、やめろっ! 時間がなくなったら困る!」


 ラウルは寿命の縮む思いであった。時間をとられては、人生が短くなると思ったからだ。ラウルはバルタザールを突き飛ばした。物だらけの床に転がったバルタザールは、もとの人間を模した頭に戻って、ぺろりと唇を舐めている。

 ラウルは泣きそうになりながら叫んだ。人生を短くされて、新しい絶望の種が増えたといったところである。


「何てことをしてくれたんだ! おれの人生を短くしてくれたな! どうしてくれるんだ」


 するとバルタザールは姿勢を元に戻し、座り込んで、ラウルの顔を見て笑った。


「まあまあ落ち着いて」

「これが落ち着いていられるか! お前の食事のせいで寿命が縮んだんだぞ!」

「いいから鏡を見てくださいよ」

「鏡だって?」


 ラウルはいきり立った状態で、壁に掛けてある鏡を苛々と顧みた。そこに映っていたのは――


「え……!?」


 鏡に映っていたのは、確かにラウルだ。しかし今のラウルではなかった。そしてその鏡は魔法の鏡でも何でもない。ラウル宅に昔からある鏡である。

 ラウルはよろよろと鏡に近づいて、枠を掴み、そこに映る自分を目を見開いて凝視する。


「嘘だろ……?」


 ラウルは若返っていたのである。自分でも十歳近く若くなった印象を受ける顔が、驚きの形に口を開け放って銀色の鏡に映っている。

 一体どういうことなのだ。ラウルはバルタザールに寿命を食われたのではなかったか?

 ラウルは驚きのあまり言葉もなく、バルタザールを振り返った。バルタザールは満腹になった腹をさすりながら、満足げに言った。


「おれさまが食う時間は様々でしてね、人間の寿命を時間に換算して食うこともできますが、先生からは別の時間を頂戴しました」

「じゃあ……時間って何なんだ」


 バルタザールは説明する。胸に手を置いて、忙しなく足先の蹄でかつかつと音を立てる。


「時間は体内に蓄積されることで人間は齢をとる……おれさまのした食事は、先生の体内に積もっていた時間を十年分食べることで先生を十歳若返らせることだったんですよ」

「そうだったのか……」


 鏡に映っている生まれ変わった、否、若返ったラウルは精悍な、水際立って綺麗な顔をした好青年で、精気に満ちていた。見違えるようである。

 未だ若返ってしまったことが信じられなくて鏡を睨むラウルを、バルタザールはからかって笑った。


「先生、ちゃんとしていれば格好いいじゃないですか」


 くたびれた三十歳から二十歳に戻ってしまったラウルは自分を呆然と見つめていたが、すぐにテーブルに戻ってくると万年筆を手にとった。

 若い力と発想力が滾々(こんこん)とあふれ出てくるのだ。ラウルの肉体と精神は、二十歳になっていた。

 デビューしたときの年齢の戻ったラウルは、バルタザールに礼を言って、がりがりと原稿をはじめた。


「ありがとう堕悪魔、何だかやれそうな気がしてきた!」

「それはよかった」


 その夜ラウルは一睡もせずに、打ち切られた連載原稿を一話完結の読みきりに書き換えた。そして少しの時間を置き、推敲を重ねて、つくりかえた長編を別の出版社の新人賞に投稿した。

 それからは選考結果が載る小説雑誌を毎月買って、賞の選考を確認する日々が続いた。

 結果が分かるたびに冷や冷やとしているラウルに対して、バルタザールは相変わらず何もしていなかった。ラウルの中に積もっていた時間を食べて以来、人間の食べものではプリンが好きなのか、結果発表のたびに喜んで胸を撫で下ろしているラウルに特に何か言うでもなく、プリンを食べてばかりいた。


「さて……先生の原稿はどうなりますかね」

「ああ、頼むから通ってくれ!」


 ラウルの祈るような毎日は続いた。

 ラウルが送った原稿は、一次、二次、三次選考を勝ち抜き、最終選考に残った。


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