第5話『白い女』

 その日は爽やかな秋晴れであった。窓硝子が冷たい風を遮断し、暖かな日差しだけが注ぐ病院の一室に、少女の姿はあった。

 金髪のセミロングを下ろし、白い病院着を着た、線の細い美少女であった。整った金の眉の下で、茶色くつぶらな瞳が憂いを湛えて手元の文庫本を見つめている。文字を追うと、長い睫毛がその都度瞬いた。


「エマールさん、お薬の時間ですよ」


 看護師がやってきて、読書中の少女に薬を置いて、点滴を代えている。少女に出された薬の量は、十錠近くあった。この薬がないと、少女は身体を保てないのである。少女は水で、錠剤を一つずつ飲んでいく。

 少女の名はアメリー・エマールといった。難治性の持病を幼い頃から抱えていて、ずっと病院で暮らしている。病状は芳しくなく、現代の医学では治らない病気なので、対症療法を受けている。

 学校にはいっていない。勉強は院内の学級で講師から教わっている。

 そんなアメリーの限られた趣味は読書であった。読書なら体力がなくてもできるからだ。アメリーの愛読書、好きな本は、冒険小説家ラウル・ドルレアクの著作であった。生まれたときから病院にいる時間が長いアメリーを、ラウルの冒険小説はいつだって読み手のアメリーの手を取って、旅へ連れて行ってくれるからであった。

 アメリーがラウルの本を読んでいると、窓硝子が外の風で軋む音がした。もう何度読み返したか分からないくらいページの端がぼろぼろの文庫本をめくる手を止めると、アメリーは何か綺麗な気配を感じて、紙面から顔を上げた。

 アメリーが顔を上げるとそこには、見知らぬ美しい、無彩色の女が一人立っていた。白髪をマーガレットに結わいていて、睫毛の先まで白いそのひとは酷く安らかで、綺麗であった。そのひとはアメリーの身近に常にある何かに似ていたが、それが何なのかは分からなかった。

 女がゆるりと白い唇で笑ったので、アメリーは問うた。


「誰……?」


 本に栞を挟んで、閉じる。アメリーが白い女の方に身体を向けると、白い美女はアメリーのベッドに近づいてくる。白い女は白い、色素のない手を伸ばして、しなやかな指先でアメリーの顎を撫でた。不思議と触れられている感覚はなかった。

 白い女が何も言わないので、アメリーは女を天使ではなかろうかと思った。


「わたしを……迎えにきたの?」

「いいえ――あなたを祝福に」

「祝福? あなた天使さまなの?」


 白い女は微笑んだだけで、答えなかった。

 白い女は音もなくベッドに腰かけた。体重のない者のように、スプリングは軋らない。アメリーは小首を傾げて、その様子を見つめている。

 白い女はアメリーが膝の上に乗せていた文庫本を指差して問うてきた。


「何の本を読んでいるの、アメリーちゃん」

「〝地上の天使〟っていう本よ、天使さま」

「誰が書いた本?」

「わたしの好きな作家さん……ラウル・ドルレアクっていう作家の先生」

「ラウル・ドルレアク……」


 白い女は低く呟いた。


「どんなお話?」


 アメリーは胸に手を当てて、嬉々として白い女に話の内容を説明した。


「このお話はね、天界にいた一人の天使の女の子が人間の世界を冒険して、たくさんのひとに幸せをふりまくお話なのよ」


 アメリーは枕もとに並ぶ本を白い女に見せた。そこにあるのは全て、ラウル・ドルレアクの著作である。


「見て、天使さま……他にもいっぱいあるの、わたし、ラウル先生のファンで、ラウル先生の作品が大好きなの」


 白い女は何度も頷いてアメリーの話を聞いてくれるので、普段話し相手がいないアメリーはよく喋った。すっかり嬉しくなったアメリーは、愛読書への思いを、黙って話を聞いてくれる白い女に語った。


「わたし、冒険小説が好きなの。いろいろ本を読んだけど、やっぱりラウル先生のお話が一番好き……」

「その作家さんが知ったら、きっと喜ぶわね」

「ラウル先生のお話は楽しくて面白くて、読むひと一人一人に向けて書いてくれている気がするの……それに病気で何処へも行けないわたしをいつもお話を通じていろいろな場所に連れて行ってくれるから」


 アメリーはベッドにごろんと横になって、本を抱きしめる。


「ラウル先生はもっと評価されるべきだわ」

「どうして?」

「だってこんなに素敵なお話を書いているのに、いつも続きが出ないの……きっと打ち切られちゃっているんだわ。わたし、続きが楽しみなのに」


 アメリーは憧れの作家に思いを馳せて、呟いた。


「ラウル先生に会ってみたい……きっと書かれるお話のように素敵な方なんだろうなあ、もし会えたら、ありがとうって言いたいな」


 白い女はゆるりと微笑んで、薄紫色の凛とした瞳でアメリーを見つめた。白い唇が、蠱惑的に動く。


「きっと会えるわ、その先生に」

「本当に?」


 アメリーは起き上がって、白い女を瞬く目で見つめた。ベッドに腰かける白い女に近づいて、問いを重ねる。


「本当なの、天使さま? どうして分かるの?」


 白い女は雪のように白い肌と同じ色をした睫毛を伏せると、アメリーだけに囁いた。


「私(わたくし)には必然が見えるから。アメリーちゃん、あなたと作家先生の人生は交差する、私が言えるのは此処までよ」


 アメリーは白い女の言葉を受けて、青白い頬をぱっと明るくした。花が綻ぶような笑顔が、咲いた。


「ありがとう天使さま……生きる支えが、一つ増えたわ」


 白い女は安らかに笑って、アメリーの髪に細い指を通した。

 アメリーは白い女を綺麗で安らかで、少しだけ怖いと思った。だがずっと親しい、気の置けない友人のような存在にも感じた。

 しかし白い女が誰なのか、気の毒なアメリーが悟ることは、なかったのである。


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