第4話『堕ちた悪魔』
ラウルは家に帰ると、いつもに増して質素な食事を摂ってから、ベッドに寝転がって禁書を開いた。
「黒魔術書か……」
ラウルはまたぱらぱらとページを繰った。図式や魔方陣の描き方まで丁寧に書かれた禁書を見て、ラウルはふと冷静になる。あの魔術師の商人はこの禁書を本物だと豪語していたが、今更になってこの禁書が本当に本物なのか疑わしく思えてきたのである。商人が自信たっぷりに言っていたことでさえ、もしかしたら全ての客に言っているセールストークであったのかもしれないと思えて仕方がない。
一体、この禁書を買ったときの自分はどうしていたのであろうか。酒は入っていたものの酔ってはいなかったはずである。自分は何に期待して、禁書に暗いきらめきを見出したのであろうか。高い金を払って禁書を買ったのはいいが、ラウルは我に返ってしまった。変な自嘲しか出てこない。
(馬鹿を見ただけだったな……)
ラウルは本を閉じてベッドから起き上がると、鞄から原稿の入った封筒を取り出した。まだ封をしていない封筒から出したのは、書きかけの原稿だ。今日担当に見せたもので、打ち切られた作品の続きに当たる物語であった。返却された一巻の原稿も引っ張り出してきて、粗を探すように文字で埋まった紙面を睨む。
ラウルは打ち切られた話を全面改稿して、他の出版社に持ち込みをかけてみようかと考えていた。万年筆を握り締めて、削除する記述に二重線を引き、原稿用紙の升目の隙間に細かい字で加筆していく……
だがラウルは思いのほか早くに行き詰った。いい案が浮かばず、筆が止まってしまう。
「うーん」
ラウルは万年筆を放り出して一ヶ月に一度だけ大切に飲んでいる林檎酒(シードル)を全部飲み干してしまった。口元を乱暴に拭って、虚ろな目を疲れきったように伏せる。
酷い行き詰まりを感じたラウルは、またベッドの上に置いた禁書に手を伸ばして、ぺらぺらめくった。
何か役に立ちそうな記述がないか、ラウルは目を皿にしてページを繰った。
(おれは売れたい!)
ラウルは願いを叶えてくれるような魔術を探したが、そんな魔術は本に記載されていなかった。勿論のこと、売れるための術もない。他力本願になったラウルは、ある術を応用することを考えた。
(これだ!)
ラウルが目をつけたのは悪魔召喚術であった。はじめて見たときは素通りしたページを開き、本文を読み込む。悪魔を呼び出して自分が売れるためにこき使ってやろうと考えたのだ。神への信心を捨てる覚悟で。
ラウルは本の内容を覚えると、作業をはじめた。必要なものを安く買ってきて、悪魔を召喚する鏡、召喚した悪魔を押さえつける天使の名前が書かれた三角形の呪具を手作りする。
そしてつくった鏡を決まった方角に、三角形の呪具の中央に鏡を置く。それから足の踏み場がない床を少し片付けて、魔方陣を本の通りに描いた。ラウルはその魔方陣の中に入る。身を守るためだ。本を手に、記載された呪文を唱えて、魔方陣の結界をつくる。不思議な気の流れを感じつつも、ラウルは半信半疑で術を続けた。
本当に悪魔は来るのであろうか。ラウルは最後の呪文を詠唱した。呪文を繰り返し繰り返し唱えて、鏡を見つめ、ありったけの想像力で悪魔をイメージした。
すると――
「!?」
突如として鏡から存在感が発生し、足に寒気が走った。室内に霧が立ち込める。窓は開いていない。
霧の中に片膝をついて現れ、立ち上がったのは――
「あ、悪魔……?」
晴れた霧の中から出現したのは、馬の脚と蹄を持ち、歪な角を頂いた若い男であった。短くてくしゃくしゃの癖毛はどぎついオレンジ色で、地獄の炎のように黒い瞳に、裂け気味の唇は真っ黒であった。
術は本物だ。ラウルはすがりたい気持ちがある一方で半ば悪魔召喚を馬鹿にしていて真に受けていなかったので、灰色の目を剥いた。
現れたどぎつい色彩の男は、ラウルに会釈した。
「お初に、ラウル先生」
ラウルは禁書を床に落とした。わなわなと震えて、男を指差す。
「な、何だお前は……!?」
「呼びつけておいて何を仰る」
男はばりばりと派手髪を掻いた。しかしラウルの驚きように満悦の態で、愛想のいい笑みを裂けた唇の端に乗せる。
ラウルは見開ききって乾いた目をこすると、改めて男に問いかける。
「ほ、本当に悪魔なのか?」
「いかにも」
ラウルは悪魔男の言を疑って、魔法円の中で足を踏ん張った。立ち尽くしたまま鋭く問う。目を細めて、飄々とした悪魔男を見据える。
「疑わしいな……名乗れ!」
「つまらないことを仰る先生だ」
悪魔男は大仰な身ぶりで肩をすくめると、言葉を継いだ。
「見た目ではなく正体を見極めないのか」
「いいから早く名乗れ!」
「はいはい」
ラウルが性急に言うと、悪魔は小さく息をついたが、禍々しいほどの精気に満ちた笑みを吊り上げた口角に添えて、胸に片手を置いて名乗った。
「おれさまは堕悪魔、バルタザールだ」
悪魔バルタザールは高らかに名乗ったが、ラウルの方はというと、聞きなれない言葉に眉を集めている。
天使が通ったあと、ラウルは悪魔の言葉を一部、反芻した。
「……だあくま?」
「そう、堕悪魔」
「何だそれは」
「堕ちた悪魔と書いて、堕悪魔だ」
「堕天使なら聞いたことがあるけど堕悪魔ってなんだよ」
「そのままの意味ですよ、堕ちた悪魔。ちょっと悪魔の頭領に歯向かって翼を落とされてしまいまして」
「だいたい悪魔って堕天した天使なんだろう? だとしたら堕ちっぱなしじゃないか」
「それは誤解だ、悪魔は最初から悪魔ですぜ」
「それにしたって堕悪魔の字面の頼りなさは酷いぞ」
ラウルは頭痛を覚えて額に手を乗せた。何だか変な奴を呼んでしまったではないか。疑いながら術を行ったからであろうか、それとも呪具の材料をけちって安いもので済ませたからであろうか……分からないがラウルはげんなりした。これは期待はずれというやつである。
自分で呼び出したものの、この堕悪魔とやらにお引取り願いたくて、ラウルは言った。
「おい堕悪魔、誰か違う悪魔と代わってくれないか」
「何故?」
「おれはちゃんとした悪魔に願いを叶えてほしいんだ」
だが案の定というべきか、ベルタザールは不吉に笑っただけであった。
「それは駄目だ、ラウル先生。おれさまは呼び出された以上、先生の願いを叶えなくちゃあいけませんからね」
ラウルは胡散臭いバルタザールに遠まわしに帰ってくれと食ってかかる。
「堕悪魔とかそんなふざけた奴に願いを叶えられるだなんて思えない、他の奴を呼んでくれ!」
「おやおや、そんなことを言っておれさまを追い返せる立場ですか? 売れない作家先生?」
「何だと」
ラウルの眉が跳ね上がる。バルタザールはけたけた笑って、青ざめたラウルを指差してくる。
「おれさまは知っていましてね……あんたが今に至る全てを」
爛々と光るバルタザールの渦のような黒い瞳にじろりとと見られて、ラウルはごくりと息を飲んだ。
バルタザールは尖った爪先をラウルの輪郭線につうっと這わせた。そしてラウルがどうして悪魔召喚術なんてものをつかってまで願いを叶えようとしたか言い当てて見せた。
「作家デビューして十年やってきたが一向に売れる気配がない。新作も打ち切られて出版社とは喧嘩別れ、八方塞、人生が袋小路……そんな現状を打破するには信仰を捨てて悪魔にでも願うしかなかったんでしょうな、違いますか、先生?」
バルタザールはラウルの置かれた窮地を全て把握していた。何もかも見透かされていたことに驚くと共に、ラウルは背中にうそ寒いものを感じた。バルタザールの言ったことは嘘偽り一つない事実であったので、ラウルは何も言えなくなってしまう。ぐうの音も出ない。
改めて現状を突きつけられたラウルは、しょんぼりと俯いた。するとバルタザールがラウルの肩をぽん、と叩く。顔を上げたラウルに大きな口で笑いかけ、自信たっぷりに言葉をかける。
「まあおれさまに任せて。おれさまは先生の願いを叶えに来た堕悪魔ですぜ」
「堕、は余計だ。おれはもっとまともな悪魔がよかったよ……」
ラウルは口の中で呟いて、黙り込んでしまう。少し会話をしただけだというのに、どっと疲れた。すっかりバルタザールに調子を乱されている。
ラウルが盛大な溜め息をついて魔法円の中に座り込んでしまうと、そんなラウルの心性などには我関せず焉とした風情で、バルタザールは見透かしていたラウルの願いを沈黙しているラウルに代わって言った。
「先生は売れたいんだろう? その願い、叶えてやってもいいんですぜ」
勿体ぶるバルタザールにうんざりしつつも、売れたいラウルはこくりと頷く。
バルタザールはうず高く積み上げられた本の山を崩すことなく上って、山の上に座ると、ラウルを見下ろして偉そうに口角を上げた。
それからバルタザールが言ったのは、何とも不思議な文句であった。黙っているラウルに対し、役者のように大きな身ぶりをして嘯く。
「世の中に踏み出すおつもりがあるのならそのお供に、先生が望むなら召し使いにも下僕にでもなりましょう。願いを叶えるために」
「……」
ラウルはい訝しむようにバルタザールの白面をじっと見た。濁りはじめた灰色の目で睥睨して、小さく息をつく。
どうにも話が出来すぎているのだ。
悪魔が人間のために好き好んで願いを叶え、ただ働きをするとは到底思えない。絶対に裏がある。ラウルは用心深く目を細めて、バルタザールに訊いた。相手は悪魔だ。ほいほい話に乗ってしまうのは危険すぎる。
「……願いの対価は? どうせただじゃないんだろう?」
バルタザールは歪な角を撫でながら、へらっと笑う。
「お返しはずっと先でいい」
「そうはいくか」
ラウルは鋭く吐き捨てた。にやにや笑いを終始浮かべているバルタザールを睨み据えて、曖昧に構えている様子に不快感を示す。ラウルはとても、慎重であった。
「条件ははっきり言え」
「何故?」
「悪魔が対価なしでただ働きするとは思えない、のめないような条件なら、おれはお前に願わない」
「成程」
バルタザールはラウルの言い分に納得したらしい。白い顎に手を添えて、何度も頷く。
「では条件を申し上げましょうか、何、簡単なことですよ」
バルタザールは絶妙なバランスで座っていた本の山から飛び降りると、足先の蹄で軽やかに音を立てて着地する。ラウルはバルタザールが何を条件として言い出すのか、固唾を飲んで待つ。
バルタザールの提示した条件はこうだ。
「この世では先生の願いを叶え、何でも指図に従いましょう。だがあの世で出会ったら、同じことをしてもらう」
「あの世で?」
「そう」
ラウルは失笑した。
「この世でおれさまは先生の召し使いにでも奴隷にでもなりましょう、あの世で出会ったら今おれさまがしたようにするだけですぜ」
ラウルは魔法円の中に座り込んだまま、あの世に対する疑問をバルタザールにぶつけた。
「あの世か……あの世でも愛したり嘆いたりするのか?」
「それは行ってみてのお楽しみ」
ラウルは今を生きるだけで精一杯であったので、死後の世界なんて考えたくなかった。飽き飽きした顔をして、言い捨てる。
「あの世なんて、死んだ後のことなんて、どうでもいい」
にやにや笑っているバルタザールを一瞥して、言葉をつなぐ。
「知りたくもない」
「それは好都合、話に乗りな、先生」
「悪魔風情に何が出来る?」
「見くびってもらわれちゃあ困りますぜ」
半信半疑のラウルは唸った。この、つい召喚してしまった一見不完全な悪魔は、いまいち信憑性に欠けたのである。
だが下手に自分を信じろとも言ってこないので、バルタザールの疑わしさがラウルの中で薄れていっているのもまた事実であった。ラウルは揺れた。
本当にこの堕悪魔とやらは願いを叶えてくれるのであろうか。売れたい、という願いを。契約をしたら、死後はこの堕悪魔の奴隷だ。でもラウルにとって死後のことなんて、心からどうでもよかったし、まずは窮している今をどう切り抜けるかが大切であった。これからよりよい未来を積み重ねていくためにも、今というのは重要である。
此処は太く短く、といったところであろうか。それに奴隷になるのはあの世で出会ったらの話だ。会わなければ問題ない。
ラウルはバルタザールに、今後の作家人生を賭けてみることにした。せっかく呼び出した悪魔、少々頼りないとはいえ利用しない手はない。
ラウルはバルタザールと契約することに決めた。
「分かった、堕悪魔、お前に賭けるとするよ」
「結構ですな(トップ)!」
バルタザールは胸の前でぱちんと手を打ち鳴らした。にやっと片頬をぴくりとさせて、ラウルに右手を差し出す。ずっと座り込んでいたラウルはバルタザールから差しのべられた手をつかむと、立ち上がって、約束の印としてかための握手を交わした。
「よろしく、堕悪魔」
「此方こそ」
かたくきつく握りしめた手を離すと、バルタザールが言った。
「契約は決まりですな」
「そうだな堕悪魔、さっそく何をしてくれるんだ?」
「いや、まずは契約書を頼みたい」
「契約書?」
ラウルは面倒くさそうに色素の薄い茶髪を掻いた。
「あとあとのために書いたものがほしいんですよ」
「小煩い奴だな、書きものなんかとってどうするんだ」
「一応悪魔にも契約の手順ってものがありまして」
「何の紙に書けばいい?」
「何でもいい、紙切れでもいい」
ラウルはテーブルの上に羊皮紙を一枚、ひらりと乗せた。羊皮紙は高価だが、いくら紙切れでいいとはいえ原稿用紙で契約書をつくるのも何だか締まらないので、羊皮紙に契約内容を書き付ける。
書類を作成すると、バルタザールが追加で注文をつけてくる。
「あとは血のひとたらしで署名を願いたい」
「注文が多いな、まあいいけど」
「血は特別な液体なんで」
ラウルは血の署名をすると、羊皮紙をバルタザールに手渡した。むすっとした顔をして、変わらずにやついているバルタザールに尋ねる。
「これで気がすんだか?」
「ああ、これで滞りなく契約は完了だ。晴れておれさまは先生の下僕になった」
バルタザールはラウルから受け取った契約書をひらっと電灯の灯りにかざして見つめ、一人言ちる。
「これで賭けはいただきだな」
「賭け?」
「いや、なんでもない、此方の話だ」
「それじゃあ堕悪魔、おれの願いを叶えてくれ」
バルタザールは大げさに跪いて見せると、恭しくラウルを仰ぎ見た。
「何なりと、先生。願いを仰ってください」
ラウルは片膝をついたバルタザールの前に腕を組んでどっしりと立ち尽くした。
「おれは売れたい、作家としての成功が、おれの願いだ。死んだ後に何処の誰様の奴隷になってもいい、堕悪魔、この願いを叶えるために、尽力してくれ」
バルタザールは裂け気味の口をにやっと引き裂いて、笑った。
かくしてラウルはその死後の自由をなげうって、堕悪魔バルタザールと契約を果たしたのであった。
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