第2話『悪魔の訪れ』

 ある晴れた日のことであった。

 神の子や神のしもべたちが集まって、神の前に立った。神の子たちは久々の再会を喜び、兄弟たちは互いに積もる話に花を咲かせていた。神は末娘の白く長い髪を梳きながら、子供らや天使たちが楽しげに談笑している様子を、微笑ましく見つめている。

 神の子や天使たちが集う中、悪魔が一人だけ紛れ込んでいた。神の子らは皆白く、天使たちは白い羽を持っていたので、その侵入者が悪魔だということは一目瞭然であった。

 黒い翼こそなかったが、悪魔は目の痛くなるようなオレンジ色のくしゃくしゃの癖毛に真っ黒な瞳、黒い唇をしていて、貴族の貴公子のような格好をしていた。裂け気味の大きな口が、にやにやとしている。

 神は勿論、悪魔などを呼んだ覚えはなかった。年老いた神は美しい末娘の髪を梳く手は止めずに、悪魔に問いかけた。その間にも子供らは、思い思いに喋っている。


「悪魔よ、お前は何処から来たのか?」


 神の末娘が此方を冷たく、目を細めて見つめる視線に痛いものを感じながら、悪魔はへこへこと一礼した。


「ふらふらしていたら、此処に辿り着きました、ご主人様」


 悪魔は答えて、顔を上げた。白いが精力に満ちた悪魔の貌(かんばせ)は不敵に笑みを浮かべている。

 神は豊かにたくわえた白い口ひげを撫でたが、訝りはしなかった。


「我はお前の主人ではない……まあよいだろう、何用あって紛れ込んだ?」


 悪魔は畏れ多いと言わんばかりにへりくだりながら言った。頭の歪な角を触りつつ、足先の馬の蹄でかつかつと忙しなく地を踏んで、平身低頭した姿勢を崩さない。


「わざわざお出ましくださって下々のことをお訊きになる、いつも快く会っていただけるので、ついつい、紛れ込みました」

「何が目的だ?」

「目的など」


 神が厳かに尋ねると悪魔は意味深に口角を上げた。それから悪魔が言い出したのは、人間への不満であった。


「時にご主人様、人間というこの世のちっぽけな支配者ときたら世界がはじまって以来少しも変わり映えしませんな。あなたさまが天の光などをもう少しおすそ分けなさらなければ、もっとましな生き方が出来たでしょうに」

「……言いたいことはそれだけか。地上のことがいたく気に入らないようだな」

「気に入りませんとも。人間どもの行いときたら、もう流石のわたしでも哀れを催しますね」


 すると神はこんなことを言い出した。とある男の名を挙げる。


「ラウル・ドルレアクを知っているかね?」


 神の問いかけに悪魔はぴんと片眉を持ち上げる。腕を組んで、しばし中空を仰ぐと、何か思い当たったのか、悪魔は首をかしげて言った。


「あの作家先生ですか?」

「我のしもべだ」

「それにしては変な仕え方だ、あの頭の堅い偏屈者の売れない作家、自分でも自分が駄目なことには気づいています。売れることをこの地上で最高の喜びとして欲し、あてにならない他人からの評価に一喜一憂している」

「ああ見えて信心深いのだが、生き迷っているようだ。何とかしてやりたいと思っているところでね」


 悪魔はぱちんと指先を弾いて音を出した。神を相手にこんな提案をする。


「ならば一つ賭けましょうか? 作家先生の魂を、まんまとこの手に手繰り寄せて見せますよ」


 神ははじめて、娘の白い髪を梳く手を止めた。悪魔を見やって、力の抜けたような笑いを呈する。


「お前にはできまい」

「見くびられちゃあ困ります」

「まあラウルが地上にいる間、そうしたければするがいい」

「ありがたい! 猫が鼠をいたぶるようにやるとしましょう」

「よし、任せた。心をもぎ取って、好きなように引き回すといい」


 悪魔はにやりと笑った。


「引き受けた! 賭けはいただきだ。その代わりわたしが魂を奪うことに成功したら、何か褒美をいただきたい」

「お前が勝ったときには何なりと言いにくるがいい、お前たちは楽しい連中だ」

 悪魔はまた深々と一礼して、神の元から下がった。悪魔は神や神の子らから遠ざかると、ぼそりと一人言ちた。

「あの爺さんにはまた会っておこうじゃないか、悪魔にも分け隔てなく声をかけてくる」


 ――悪魔が去ると、神は小さく息をついた。末娘の髪を梳く手を止め、櫛を置くとしわがれた声で娘の名を呼びかける。


「……ラモール」


 白く長い髪を神の手に委ねていた美しい末娘は、ゆるりと神を顧みる。


「何でしょう、父上?」

 神は末娘に命じた。

「お前も地上に行きなさい」

「何故?」


 細い眉を物憂げに動かした末娘に、神は言った。落ち窪んだ目に鋭い光を浮かべて、呟く。


「地上に行って、悪魔よりも早くラウルの魂を刈り取るのだ。調子に乗った悪魔が何を要求するか分からないからな、賭けに勝つのは常に神である我なのだ」


 末娘は悪どい笑みを美貌に刻んで、


「悪い方、神が聞いて呆れますわ」


 末娘が長い髪を揺らして立ち上がると、さらさらと風になびいていた白髪が綺麗なマーガレット(西洋巻き髪の一種)に編みあがった。更にぱちんと指先を弾けば、白い繊手に似合わない大鎌が、何もないところから現れ、手の中に収まった。

 末娘は言った。


「では、参ります」

「行け、悪魔如きに渡すものなど、何一つありはしないのだ」


 神の言葉が終わると、神の末娘は一人、地上へ下りていった。

 残った神は、再び慈父の表情を取り戻すと、何事もなかったかのように、にこりと笑った。

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