『森のお家ニャンゴロー』事件

「じけんよ~! じけんよ~!」

 アユちゃんの声が暗闇に響いた。 


 驚いたマイちゃんは、ガバッと半身を起こし、辺りを見回した。心臓が、バクバクして胸から飛び出そうだ。広くて真っ暗な空間はシンと静まり返っている。

 叫んだアユちゃんは何処に居るのだろう。

 暗くてよく見えない。

 闇に目を凝らすと、累々と床に倒れている沢山の黒い小さなシルエットに気付いた。

 仰向け、横向き、俯せ。誰かに乗り上げている者もいる。腕を万歳と上げたり、足を交差させたり。

 すみれ組の皆のように見える。だが、動く者は誰も居ない。

 マイちゃんは混乱した。


(ここは、どこ? みんな、どうしたの?)


「……おにいちゃん、こわいよぉ」

 マイちゃんは、泣きそうな声で呟いた。

 こんな時にお兄ちゃんがいてくれたら。

 お兄ちゃんを探す。

 だが、怖い時に手を握ってくれるお兄ちゃんは、此処にはいないようだ。


(だれか……)


 ふと、自分の隣に倒れている子をよく見ると、阿形クリスティだった。クルクル巻き毛が微かに上下している。息をしているようだ。

「クリスちゃん、クリスちゃん。しっかりして!」

 横たわるクリスティの肩を揺さぶる。

「……ん、うん? ……マイちゃ、ん?」

 クリスティは、ぼんやりと目を開けた。

「あーよかった。クリスちゃん、いきていて」

 マイちゃんは半べその顔を近付けた。

「……んん?」

 クリスティは、目を擦りながら起き上がって座る。目が上手く開かない。

「……どう、したの? マイ、ちゃん」

「みんなが……」

 マイちゃんが声を詰まらせる。

「たおれているの」

 クリスティは半開きの目で、ゆっくりと辺りを見回した。

「……」

 その時、二人の背後から大きな影が、静かに近付いて来た。

「どうしたのかしら?」

 突然背後から聞こえる、押し殺した

「ひっ!」

 二人はビクッとして振り向いた。

「私ですよ!」

 ヨシミ先生は、懐中電灯で自分の顔を下から照らす。

 闇に浮かぶ鬼瓦。

 顔を見せて安心させようとしたが、逆効果だった。

 クリスティは、一気に目が覚めた。

「キャアアアアーッ!」

「いやああああーっ!」

 マイちゃんとクリスティの絶叫で、倒れていた(眠っていた)皆が、飛び起きた。

「えっ!」

「な、に? なに?」

「どうしたの?」

 手で目を擦っている。

「ウエーン、ママ~ どこ~?」

 驚いて泣きだした子もいる。

「じけんよ~! じけんよ~!」

 寝ぼけ眼のアユちゃんは、何だか分からなかったが、取り敢えず叫んだ。あちこちで泣き声や叫び声が聞こえる。

「何でもありませんよ。起こしちゃってごめんなさいね。大丈夫だから、皆、おやすみなさい」

 ヨシミ先生は、皆を見回して穏やかに言った。皆が元の様に横になると、クリスティ達に向き直った。

「マイちゃんとクリスティちゃんは、どうしたのかな? おトイレいきたいの?」

「ううん、そうじゃなくて……」

 クリスティは、マイちゃんに起こされたと話した。

 マイちゃんは、段々頭がハッキリして来て、ここが何処なのかを思い出した。皆が倒れていた訳も。

「あ、あの、ごめんなさい」

「寝ぼけちゃったのかな?」

 マイちゃんは恥ずかしそうに頷く。

「アユちゃんのこえが、きこえたの」

「あー……。アユちゃん、大きな声で寝言を言っていましたね!」

「ねごと、だったの?」

 マイちゃんは眉根を寄せた。

「ここは、『森のお家ニャンゴロー』ですよ。昨日から、お泊り保育で、皆で来たのを忘れちゃったかな?」



 すみれ組は、昨日の昼過ぎから、この宿泊施設にやって来ていた。

 初めて、親子離れて夜を過ごすということで、バスの出発を見送りに来た保護者の中には、涙を流す者もいる。人目もはばからず、顔をくしゃくしゃにして泣く誰かのお父さん。園児の乗り込んだバスに我が子の姿を見つけ、泣きながら手を振る誰かのお母さん。

 クリスティの母親もハンカチを握りしめて、涙ぐんでいた。

 子供の方も、お泊りにウキウキする者もいれば、「やだ、おうちかえる!」「おかあさーん!」と泣き叫ぶ者もいた。

 クリスティは、お友だちとお泊りするのに、ワクワク半分、母親が涙ぐむのを見て、お家に帰りたい気持ちが半分という感じだった。


 市街地から、やや山間部に入った森の中に建てられた『森のお家ニャンゴロー』は、管理人家族で運営されている。敷地に沿って川が流れ、基本は施設内で食事、入浴などできる。団体向け民宿といったところか。学校や幼稚園、部活の合宿、企業の研修などに需要があり、小規模なところが、アットホームと人気だった。


 バスが到着した時、管理人の夫婦が出迎えてくれた。

「ようこそ、『森のお家ニャンゴロー』に。私が代表の猫田ゴロウです。こちらは妻のサツキです。私達が、お世話させて頂きます」

 クリスティの両親より少し年上で、祖父母よりは、若いだろうか。ニコニコ笑顔の感じの良い人達だった。

「猫田ゴロウさんで、『ニャンゴロー』なんですね」

「バンガローっぽく考えました」

 ゴロウさんは、照れたように笑う。

「なるほど。こちらは、お二人で運営されていらっしゃるのですか?」

 ヨシミ先生は笑いながら続けて訊ねた。食事の世話だけでなく、掃除や施設のメンテナンス等を二人で切り盛りするのは難しいのではないかと。

「いえいえ、私共の他、両親もおります。繁忙期には、アルバイトを頼みますが、本日は四人でおもてなしさせて頂きます」

「そうでしたか。幼稚園児ですので、何かとご迷惑をお掛けするかもしれませんが、よろしくお願いします!」

 ヨシミ先生に続けて、ノリコ先生とユカ先生の号令で、すみれ組はご挨拶をした。

「せーの!」

「よろしくおねがいします!」

 皆で揃って頭を下げて、上げた時、クリスティの視界を何かが掠めた。管理人夫婦の背後に何かいた気がしたのだ。


(なんだろう?)



 その後、奥さんが敷地内を案内してくれた。

 広場に木組みがしてあり、夜にキャンプファイヤーをするのだという。

「たのしみだね!」

 アユちゃんが、鼻息荒くクリスティの顔を見る。

「はなびも、するって。わたし、はなび、だいすき」

 マイちゃんもウキウキしている。

 建物と離れた川の側に来た時、お爺さんとお婆さんが居るのを見て、クリスティは「あれ?」っと思った。

 二人は、何かの作業をしている。

「こんにちは!」

 ヨシミ先生が声を掛けた。

「こちらが、いずみかわ幼稚園すみれ組の皆さんです」

 奥さんが二人に紹介してくれる。

「こんにちは。ワシ等は、管理人の両親です。本日は、ご利用ありがとうございます」

 老夫婦は、お辞儀をした。

 二人は此処で何をしていたのだろう。

「おじいちゃんたちは、なにをしているの?」

 興味津々のタロウくんが訊ねる。

「こうしてな、冷やしておるんだ」

 お爺さんは、紐が付いた網に入ったスイカを川底に掘った窪みから取り出して見せた。

 川の水でスイカを冷やすのを見たことが無かったので、すみれ組の皆はびっくりした。

「れいぞうこ、ないの?」

「ははは、冷蔵庫はあるけど、こうして川の水で冷やすと、冷え過ぎなくて丁度いいんだよ」

「へぇー」

「そーなんだ」

「すごいね」

「後で、おやつに出すから楽しみにしてね」

 お婆ちゃんがニコニコしながら言った。

「おじいちゃんたちは、ずっとここにいたの?」

 クリスティは、さっき見た何かが、何なのか確かめたかった。

「ああ? 皆さんが到着する前から、ずっと、この辺りにおったが……」

 お爺さんは、何でそんな事を訊くのだろうというような顔をした。

「そっか」


(じゃあ、あれは?)


「なぁに? クリスちゃん。お爺さんが、どうかしたの?」

 ノリコ先生の言葉に、クリスティは「なんでもない」と首を振った。


(みまちがいなのかな)



 夕飯は、皆が大好きなカレーを施設の食堂で食べた。園のカレーと違う味だったけれど、お代わりする子が続出した。

 クリスティも、少しお代わりした。野菜がゴロゴロ入っていて、お家のカレーのようだった。ママを思い出して、ちょっぴり寂しくなった。


 キャンプファイヤーは、火の神様に扮したヨシミ先生が点火して始まった。

 炎に照らされたヨシミ先生の顔が一段と怖い。

「ヨシミせんせい、こわかったねぇ」

 タロウくんが、隣に座るヨッちゃんにひそひそ耳打ちする。

「ん」

 気のない返事をしたヨッちゃんの頭の中は、花火で一杯だ。正確には花火の袋で頭が一杯だった。

 ノリコ先生が持っているエイリアンマンの絵の付いた花火のパッケージが気になって仕方がないようだ。

「はなびの、ふくろが、ほしい」

「えーっ、ふくろが、ほしいの?」

「うん。はなびは、いらない」

 マイペースのヨッちゃんだった。

 クリスティの隣に座るアユちゃんは、キャンプファイヤーを、魂が奪われたように見入っている。

って、きれいだね。かたちが、かわるし、ずっと、みていられる」

 パチパチと燃える炎に照らされた顔が、少し怖い。

「あたし、もえるのを、みるのが、すき」

 それは、ちょっとアブナイのではないかと、クリスティは思った。物見高いアユちゃんは、火事が好きなのかもしれない。

 確かに炎は綺麗だった。

 キャンプファイヤーの炎は、満天の星空を焦がすように燃え上がる。

 皆で『燃えろよ燃えろ』を歌った後、お待ちかねの花火が始まった。

 手持ち花火を持つマイちゃんは、はしゃいで魔法使いになった。

「〇―モス! 光よ!」

 火の付いた花火を持つ手を前に伸ばす。

「あぶないよ」

 タロウくんが後退ってたしなめた。

「マイちゃん、花火は下に向けて持ってね。振り回しては駄目よ。人に向けてもいけません」

 ノリコ先生は、すかさず注意する。

「……ごめんなさい」

「動かすと、自分の足にも火花が落ちるかもしれないよ」

 ノリコ先生は、マイちゃんの手に手を添えて固定した。

「次の線香花火は、特に気を付けて。動かすと先っぽが、途中で落ちちゃうから」

「……わかった」

「花火は正しく遊びましょうね」

 ユカ先生は、燃えさしを水の入ったバケツにのんびりと回収していく。


 キャンプファイヤーが終わって、男の子と女の子に分かれてお風呂に入ると、大広間に皆の布団が敷かれた。

「今から、先生と一緒に順番におトイレに行きます。今は出ないよーっていう子も、念のためおトイレに行ってね。夜中におトイレに行くのは嫌でしょ?」

 男の子はユカ先生と一緒に、女の子はノリコ先生と一緒に、それぞれ五人ずつおトイレに行くことになった。

 クリスティはアユちゃん達と一緒に、おトイレまでの廊下を歩いている。

「いろいろ、かざってあるね」

 アユちゃんの言葉に、目をやると、壁に飾り棚があり、色々な動物の人形が飾られている。棚は、各窓の上部と、窓と窓の間の壁に作られていた。

「ほんとだ。クマさんとか、ネコさんとか」

「編みぐるみだね。上手だね」

 ノリコ先生は、毛糸で編んで作るのだと教えてくれた。

 窓と窓の間の棚には何も飾ってなかった。いずれ、ここにも何か飾る予定なのだろうか。棚が沢山あるから、編みぐるみが間に合わないのかもしれない。

 ふと目にした窓の外は、すっかり暗くなっていた。

 と、その時、クリスティ達が通り過ぎた背後で、ポスンと音がした。

 ノリコ先生とクリスティ達は、一斉に振り向いた。床の上に編みぐるみのウサギが落ちている。

「な、何で落ちたの? 窓閉まっているよね」

 怖がり屋のノリコ先生の声は、少し震えていた。

 続けて、ポスン、ポスンと音がして、皆が進行方向に向き直ると、床にライオンとキリンが落ちていた。

「ひっ!」

 ノリコ先生は息を呑んだ。

 おまけに廊下の蛍光灯が、パッパラと点滅しだした。

「き、きゃあああああ!」

 思わず叫んでしまったノリコ先生のエプロンにクリスティ達は、しがみついた。

「じけんよ~……、 じけんよ~……」

 アユちゃんの声は弱々しく、震えている。


「何事です?」

 声を聞き付けたヨシミ先生が、背後からノシノシと急ぎ足で近付いてきた。

「す、すみません。照明が……」

「ああ、廊下は、LEDじゃなくて蛍光灯なのね。パラパラして、交換時期かしらね。後で管理人さんにご連絡しときます!」

「あ、あの、それから、ウサギとライオンとキリンが……」

「さわっていないのに、おっこちてきたの」

 ノリコ先生の言葉を遮って、マイちゃんが怖そうに言った。

「あら、そうなの?」

 ヨシミ先生は、棚を見上げた。棚は床と水平に壁に固定されており、揺れるようには見えなかった。

「うーん、なんでしょうね」

「ポ、ポルター、ガイストなのでは?」

 怖がりのくせに、無駄にオカルト系知識のあるノリコ先生は、怯えたようにヨシミ先生を見る。

「そーんなこと、無いと、思う、けど……」

 ヨシミ先生の声は何だか尻すぼみな感じだ。

「とにかく、おトイレに行かないとね!」

 促されて、ノリコ先生とクリスティ達は、ビクビクしながらトイレに向かった。

 その後、ユカ先生に連れられた男の子達は、トイレに続く廊下で不審な物音を聞いたのだった。


「ねぇ、クリスちゃん、なんだとおもう?」

「どうして、あみぐるみが、おちてきたのかなぁ」

 トイレから戻ったすみれ組のみんなは、大広間に敷かれた布団の上で、クリスティの周りに集まった。

 ノリコ先生とユカ先生も近くに寄って来た。

「おとこのこが、きいたおとって、どんなおと?」

 クリスティは、タロウくんに訊ねた。

「ウーッとか、シャーッとか」

「ガリガリって、おとも、したよ」

 ヨッちゃんが付け加える。

「うーん」

 クリスティは、到着時の視界を掠めた影と、廊下を歩いた時の微かな臭いが気になっていた。


(なんだろう)


「もういちど、ろうかを、みたいの」

 クリスティは、ノリコ先生に頼んだ。

「うっ。じ、じゃあ、行きましょうか」

 ノリコ先生は、ユカ先生に後を頼むと立ち上がった。

「あたしも、いきたい」とアユちゃん。

「わたしも」とマイちゃん。

「おとこのこが、いたほうが、いいでしょ」とタロウくん。

 いつもの四人で、行くことになった。


 廊下の蛍光灯は、管理人さんが早速取り換えてくれたようで、もう点滅していなかった。

 明るいので、ノリコ先生は平気そうな顔をして歩いて行く。

 赤い伊達メガネを掛けたクリスティは、窓と窓の間にある、何も飾っていない段々の棚を調べていた。


(ない。あっちは、どうかな)


 廊下に窓は四つあったので、窓と窓の間は三つ。段々の棚は、窓の下端から窓の上端にかけて三段ずつ互い違いに付いている。

 上の方は背が届かないので、ノリコ先生に抱き上げて貰って見た。


(あった)


 三つ目の段々の棚で、クリスティは目的の物を見つけた。

 そっと、指で摘まみ上げ、よく観察する。

「なぁに? 何か、あったの?」

「うん。これをみて」

 クリスティは、見付けたそれを親指と人差し指で挟んで、皆に見せた。

「これは……」

 ノリコ先生は、顔を近付けた。

「何かの、毛?」

 タロウくんが顔を寄せる。

「ポンちゃんのに、にているけど」

「なにかの、どうぶつの、だね」

 クリスティは、マイちゃんに手渡した。

 マイちゃんとアユちゃんは、顔をくっ付けるようにして、手渡された茶色の数本の毛を眺めた。

「どうして、動物だと思ったの?」

 ノリコ先生は、納得がいかないというような顔をする。

「どうぶつのにおいが、したの。それに、おとこのこが、きいたおと、おもいだしてみて」

「ウーッとか、シャーッとか、ガリガリ?」

 タロウくんは、自分で言っている内に、納得したようだ。

「どうぶつの、おとみたいだ」

「でも、何だろうね。森の中だから、小さな動物が、入ってきちゃったのかしら」

 ノリコ先生は、動物の可能性が高まったので、ホッとした顔をした。


 大広間に戻って、皆に説明すると、皆安心すると共に、がっかりしたような顔をした。

「なーんだ、どうぶつ、だったの」

「つまんなーい」

 現金なもので、さっきまで怖がっていたのに、動物と分かったら、つまらないと言う。

「さあさ、もうお休みの時間ですよ!」

 ヨシミ先生に促されて、皆、お布団に横になった。

「つまんないね」

「テレビもないし」

 横になっても、何だか物足りなくて、とても寝れそうになかった。

「じゃあ、先生が、ご本を読むね。皆、お目目を閉じて聞いてね」

 ユカ先生は、持ち前の、眠くなるような話し方と癒し系の声で『眠れる森の美女』を読み始めた。

「ある国に王様とお妃様がいました……招かれなかった魔法使いは、お姫様に呪いを掛けました……そして、お姫様は勿論、王様もお妃様も、お城の全ての者が眠ってしまいました……」

 物語の中盤で、すみれ組の皆は眠りに落ちていた。あたかもいばらに閉ざされた、お城の如く。

「……皆、寝ましたね」

「さすが、ユカ先生の催眠ボイスですね」

 ノリコ先生は感心したように、ユカ先生の肩をポンッと叩いた。

「交代で仮眠を取りましょうか。ユカ先生、先にお休みなさい。私とノリコ先生が起きていますから!」


 夏の夜が静かに更けて行く。

 川の流れる水音や枝を揺らす風の音、地の虫の鳴き声。市街地の園では、経験できないものだ。

 途中、起きたサトルくんを、ノリコ先生がおトイレに連れて行ったが、二人とも中々戻って来ない。ヨシミ先生は、少し気になった。

 その時、静けさを破ってアユちゃんの声が、暗闇に響いた。

「じけんよ~! じけんよ~!」

 起きたのかと、ヨシミ先生が、そっと様子を見に行くと、アユちゃんは眠ったままだった。

「どんな夢を見ているのかしら」

 呟いて見回すと、近くで起き上がった子が居る。懐中電灯を持って近付いたが、驚かせてしまったようだ。二人は、叫び声を上げた。

 その叫び声で、眠っていた皆が飛び起きて、泣いたり、叫んだり。阿鼻叫喚とはまさにこの事だった。

「何でもありませんよ。起こしちゃってごめんなさいね。大丈夫だから、皆、おやすみなさい」

 皆を再び寝かしつける。

「マイちゃんとクリスティちゃんは、どうしたのかな? おトイレいきたいの?」

「ううん、そうじゃなくて……」

 どうやら、アユちゃんの寝言で飛び起きたマイちゃんが、寝ぼけていたようだ。

「二人とも起きちゃったから、ついでにおトイレに行きましょうか」

 ヨシミ先生は、ちっとも帰って来ないノリコ先生とサトルくんが心配だった。

 丁度起きて来たユカ先生に後を頼んで、様子を見に行くことにした。


 ヨシミ先生と、クリスティ、マイちゃんの三人が廊下を歩いて行くと、ノリコ先生とサトルくんの声が聞こえてきた。

「ねぇ、サトルくん、もうお部屋に戻ろうよ。お願い」

「もう少し」

「サトルくんと先生しか居ないのに、何回並べても、またすぐにゴチャゴチャになるのは、何でかな。先生、怖いから、お部屋に帰りたい」

 ノリコ先生は、困っているみたいな声だった。

「でも、ちゃんとしたい」

 何でもキッチリしたいサトルくんの声に、淀みは無い。

「ノリコ先生!」

 ヨシミ先生は、ノシノシ近付いて行って、しゃがみ込んでいるノリコ先生の横に立って、顔を覗き込んだ。

「どうしたの? ちっとも帰って来ないから、心配していたのよ」

 ノリコ先生は、縋りつくような目を向けた。

「おトイレが済んで、帰る時に、サトルくんがスリッパを揃えたんです。それで、お部屋の方に向かって歩き始めたら、何か音がして、振り返って見たら、スリッパがゴチャゴチャになっていたんです。それでまた、揃えて、ゴチャゴチャになって。それの繰り返しで……お部屋に帰れないんです」

「サトルくん、スリッパの整頓は、もう良いですよ。夜も遅いし、早く寝ないと!」

 ヨシミ先生は、サトルくんが屈んでる側に行って説得した。

「できた!」

 サトルくんの晴れ晴れとした声がした。

 見守っていたクリスティとマイちゃんが、ホッとしておトイレに行き、戻ってくると、ノリコ先生とヨシミ先生が、頭を抱えていた。見ると、またスリッパが、ゴチャゴチャになっている。

「目を離したほんの一瞬でしたね」

「何なのかしら! さっき、編みぐるみが落ちて来たのは、何かの動物の仕業ではないかと、話していましたね。おトイレの近くに、何かいるのでしょうか」

「……本当に、動物の仕業なのかな」

 ノリコ先生が不安げに呟いた。

「クリスちゃん」

 マイちゃんは、助けを求めるように顔を向ける。

「わたしの、でばんね」

 クリスティは、クイッとしようとして、赤い伊達メガネを枕元に置いて来てしまったことに気付いた。が、気を取り直し、顎にグーを当てて考え始めた。

 到着時に視界を掠めた何か。廊下の何も置いていない段々の棚。棚で見つけた動物の毛。上から落ちて来る編みぐるみ。ウーッ、シャーッ、ガリガリという音。何度揃えても、散らかるスリッパ。

 何だか、知っている気がした。


(もしかしたら)


 クリスティは、サトルくんと一緒に、トイレのスリッパを揃えるとこう言った。

「いまから、まちぶせしてみる」

「なるほどね」

 ヨシミ先生は、唇に人差し指を当てて、皆を壁際に誘導した。

 静かに待っていると、何かの前足がスリッパを散らかし始めた。

「あっ」

 思わずノリコ先生が声を上げると、それは、サッとトイレの奥に逃げてしまった。

 皆、壁から体を離し、トイレの奥の暗がりを見詰めた。省エネの為、人が居ない場所は照明を落としてある。暗がりに、緑色の二つの何かが光っていた。

「せんせい、あれ」

 クリスティの指差す先を見た、ノリコ先生とヨシミ先生は息を呑んだ。

「き、きゃ……!」

 驚いて叫びそうになったマイちゃんを止める。

「おいで、おいで。だいじょうぶ、こわくないよ」

 クリスティは、トイレの入り口にしゃがんで優しく呼びかけた。

 二つの緑色の光がゆっくりと近付いて来る。灯りの下まで来ると、それはネコであることが分かった。よく太ったトラネコだった。

 ニャーン、甘えるような声で鳴くと、の体を、クリスティの足に擦り付けてきた。ネコには、ネコ好きが分かるという。

 クリスティは、トラネコの両脇に片手を入れて、もう片方の手でお尻を支えるように抱き上げた。首輪をしている。管理人さんのネコだろうか。

「管理人さんに、この子の事、訊いてみましょう」

 ノリコ先生は落ち着きを取り戻した。

「さっきの編みぐるみも、この子が落としたのかしら?」

 ヨシミ先生は、皆と大広間への廊下を歩きながら訊ねた。

「たぶん。たなの、は、このこのかな」

 クリスティは、トラネコの後頭部を見詰める。思わず、スリスリすると、トラネコはクリスティの顔を見上げた。

「どうして、そう思うのか教えてくれる?」

「だんだんのたなには、なにも、かざってない」

「そうね」

 ヨシミ先生は相槌を打つ。

「たがいちがいに、なっている」

「そうだね」

 マイちゃんは、壁の棚を確認するように見た。

「これは、たなだけど、たなじゃなくて、ネコのかいだん、だとおもう」

「なるほど。互い違いにすれば、ネコが上って行けるね」

 ノリコ先生は頷く。

「このこは、かいだんで、かざりだなに、のぼって、あみぐるみを、おとした」

「ネコって、そんなこと、するの?」

 サトルくんは、驚いている。

「うちのミス・マープルも、ときどき、やるよ。テーブルやタンスのうえに、おいてあるものを、まえあしで、チョイチョイっておとすの」

「なんで、そんなことするのかな?」

 マイちゃんが訊ねる。

「あるくのに、じゃまだからとか、じぶんのなわばりをしめすためにとか、あそんでほしいからとか、おもしろがってとか。そういうときに、するって、ママがいってた」

 クリスティは、トラネコに話し掛けた。

「なんで、あんなことしたの?」

 トラネコは、前を向いたままニャッ、ニャッと短く鳴いた。

「タロウくんが、ウサギのポンちゃんが、するって、いってたけど、ネコもするんだ」

 ウサギもネコも、物を散らかしたりする。

 クリスティは、キッチリしたいサトルくんが飼うのは、難しいだろうなと思った。

「クリスちゃん、重そうね。先生が替わろうか?」

 ノリコ先生が、抱っこしようとトラネコの方に手を差し伸べた。

 けれど、トラネコはネコパンチで手を払った。

「ひとみしりするこ、みたい」

 クリスティは、トラネコを抱き直した。


 大広間の手前に差し掛かると、丁度、奥さんが管理人室から出て来た。

「ニャンゴロー、ニャンゴロー」

 体を低くして呼んでいる。クリスティ達に気付くと、近付いてきた。

「あら、珍しい! この子は、凄い人見知りなのに」

 腕に抱かれているネコを見て、奥さんは驚いた。

 どうやらネコを探していたようだ。

「ニャンゴロー?」

「ええ」

 トラネコは、奥さんを見ると、するりとクリスティの腕を抜けて床に降り、奥さんに飛び付いた。抱き上げた奥さんは微笑んだ。

「じゃあ『森のお家ニャンゴロー』のニャンゴローって」

 ヨシミ先生は重ねて訊ねる。

「夫の名前から、この子の名前を付けたので、此処の名称は、夫の名前でもあり、この子の名前でもあるんです」

 奥さんは、ネコのニャンゴローを重そうに抱き直した。

「この子は、人見知りで、お客様の前に姿を見せることは、あまりないのですよ。ですが、好奇心は強いようで、お客様の側に行って、物を落としたり、音を立てたりするようです。何か、ご迷惑お掛けしませんでしたか?」

 奥さんの言葉に、ノリコ先生は「いいえ」とすました顔で答えた。ネコの悪戯を、ポルターガイストと間違えたなどとは、恥ずかしくて言えなかった。

 すみれ組が此処に到着した時、管理人さん夫婦の後ろを横切ったのは、ニャンゴローだったようだ。



 翌朝も晴れ渡り、蝉の声が空から降ってくる。すみれ組は、広場でラジオ体操を終えたところだ。

「皆さん、よく眠れましたか? 今日は、朝ご飯を食べた後、森のお散歩や、川遊びをしてから、園に戻ります!」


 森では、虫取り網と虫かごを持って蝉やクワガタ、カブトムシなどを探した。

「う、うわぁ」

 タロウくんは、管理人のお爺ちゃんが取ってくれた蝉を掴めなくて後退った。

「えー、へいきだよー、ほらっ」

 マイちゃんは、お兄ちゃんの影響か、普通に蝉を持っている。

「クリスちゃんも、持ってみる?」

 手渡された蝉は、ジーッ、ジーッ大きな声で鳴きながらジタバタした。おっかなびっくり背中を持つ手に、蝉の命の振動が、ビリビリとクリスティの指先に伝わる。

「はなしてあげて、いい?」

 父親は以前、蝉は地中に何年も居て、やっと大人になり、外に出ると直ぐに死んでしまうのだと話していた。短いその時を、思い切り楽しく過ごして欲しいと思った。

「うん」

 マイちゃんの言葉と同時に、クリスティは蝉を持つ指を離した。

 蝉は、ジジッと短く鳴いて、抜けるように青い夏の空に飛び去った。

「うひゃっ、なんか、ぬれた」

 クリスティは、掌を見る。

「あー、それ、せみのおしっこ」

 マイちゃんは、白い歯を見せた。

 川では、水泳の得意なトオルくんが、水を得た河童みたいに生き生きとした。泳げるほど深くはなく、足を浸けて遊ぶ程度の深さだった。プールと違って、川底の石はぬるぬる滑るので、クリスティは、ちょっと怖かった。


『森のお家ニャンゴロー』での、お泊り保育は終了した。

 お別れの挨拶の時、ネコのニャンゴローは、やはり姿を見せなかった。

 クリスティが、視線を感じて見上げると、階段の手摺りの隙間から、ニャンゴローが顔を半分覗かせていた。


(バイ、バイ! ニャンゴロー。げんきでね!)


 心の中でお別れをした。

 バスが園に到着すると、迎えに来た保護者が集まっていた。クリスティの母親も、心配そうな顔をのぞかせている。

 簡単な解散式の後、子供達は帰路に就いた。



「そんな事があったのね」

「ミス・マープルのことを、おもいだしたから、かいけつできた」

「ネコの悪戯も、役に立つわね」

 母親は笑って、娘の愛猫を撫でた。

「いいこに、してたかな?」

 白いペルシャ猫のミス・マープルは、体を摺り寄せて、金と青のオッドアイで、クリスティを見詰めた。


「ただいま! クリスティは、帰って来たかい?」

 父親が、いつもより早く帰宅した。仕事を早めに切り上げて来たらしい。

「パパ! ただいま!」

 クリスティが飛び付くと、父親はクリスティを抱き上げた。

「お帰り、クリスティ! パパ、寂しかったんだよ」

 母親は、横で苦笑する。

「わたしも。パパとママとはなれて、さびしかったけど、じけんを、かいけつしたよ」

「おお、名探偵さんのお話、聞かせてくれるかい」

「その前に、パパは、お風呂に入って。お夕飯を食べながら、ゆっくり、お話ししましょうね」



 父親が、推理を褒めてくれたので、クリスティは嬉しかった。ベッドに入ると、瞼が重くなる。昨夜、夜中に起こされたから、とても眠い。

「ねぇ、こんかいは、ミス・マープルのおかげで、かいけつできたよ。ネコのや、におい、それから、ネコが、ものをおとすことも、しっていたからね」

 愛猫は、枕の横にいる。

「ネコじゃなかったら、わからなかったかも。もっと、いろんなことを、おべんきょう、しないとね……」

 ミス・マープルは、ゆっくりと瞬きをして、クリスティの顔に顔をくっ付けた。

 クリスティは安心して、眠りに落ちて行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る