再び、芽吹く
鈴ノ木 鈴ノ子
ふたたび、めぶく
2月の初旬、首都 東京
眞壁頼子は年々体に辛くなってくる混み具合の激しい朝の通勤を乗り越えてオフィスの自席へと辿り着いた。愛用の革のブランドバッグから自宅で仕上げてきた書類を取り出して、朝一番の会議の資料確認をとパソコンの電源を入れた途端のこと。
頭の中で何かが切れるような音が唐突に響いた。
「へ?」
視界の画面が傾いてゆく、持っていた書類が手を離れて机の上に散らばる、体が傾いていることを理解しているのに、手足は意志を忘れたかのように動かない。視界が急速に狭まり暗転すると同時に意識を失った。
目が覚めた頃には見慣れないベッドに寝かされていて、ここが病院であり急な脳疾患によって、救急車で搬送されて手術は成功したが、倒れた際に腰を打ち付けたことによって動かすことのできなくなってしまった下半身と、ゆっくりとでしか喋ることしかできなくなったことを担当医から説明された。いわゆる後遺症だ。もちろん担当医の説明は頭では理解はできたが、しかし、それを受け入れることなど到底できなかった。
会社で一目置かれるまでの努力と実力も病の前では無力だ。
病院の書類に震える手で歪んだ氏名を書いた時、ああ、回復の見込みは到底ないと絶望して諦める様にペンを投げ捨てた。後輩達にこんな姿を見せたくないとの思いから退職届を会社に提出して、今までの努力を消し去る様に職を辞した。
最初は留意するようにとの温かい心遣いがあったが、出向いてきた同期入社の人事部長との面談で自らの想いを伝えた。半場、自棄になっていたこともあるかもしれないが、それ以上に会話でもたつきと判断力の若干の鈍化は否めず自分自身に絶望したことが大きかった。結局、せめてもと会社都合での退職処理をしてくれた。
総務部長よりこっそりと教えられていた来年度の昇進話を基にして引き継ぎ資料をある程度作っていたのが、まさかこのような形で生かされるとは考えも及ばなかった。
「あ、春だ」
愛知県の山間部にある実家へと都落ちのように戻った頼子は、大急ぎでバリアフリーに作り替えた自室の窓から外を眺めている。庭先には気晴らしにと母の手で植えられた色とりどりのチューリップが揺れ、春の風が開け放たれた窓から心地よく吹き込んできて新しい季節の来訪を告げていた。
「よっこ、いるか?」
ニュッと陽を弾く坊主頭と懐かしい笑顔が窓から生えるように現れた。幼馴染で大工として営繕などを手掛けている達也だ。中学までは同じ学校に通学し高校からは天と地ほどの学力の差が開いてからというもの付き合いは途絶えていた。けれど、実家のバリアフリーの工事のために再会して以降、足繁く頼子の元に来ては、手すりの位置やそれ以外のあーでもない、こーでもないと話を聞いては改修工事に取り掛かっていた。
「いるよ」
「よ〜しよし」
まるで飼い犬でも可愛がるかのような言い回しで達也が空を撫でる仕草をした。
「なによ、そのよしよしって…犬じゃないのよ」
「確かに、犬よりおっかないからな」
「噛みついてやる」
「怖!」
幼い頃の冗談を言い合える関係に戻るのには、それほど時間がかからなかったことが今の頼子には心から嬉しかった。やたらめったらと早口に捲し立てては返事を迫る達也が最初はうっとおしく感じられたが、それがリハビリのようになったのか、会話のぎこちなさは消えてなくなっている。
庭先に拵えた車椅子用の出入り口より室内へと入って来た達也の装いに頼子は驚きを隠せなかった。いつもの名入り作業着ではなく、デニムに白シャツ、明るめのジャケットを羽織ってシンプルなスタイルだったからだ。
普段は厳つい顔つきとがっしりとした体形で近寄りがたい雰囲気を醸し出しているのに、今日は落ち着きのある爽やかな男性と言った感じで思わず見とれてしまう、ふっと吐息さえもが漏れた。
「えっと、もしかしてデートだったりするの?」
その姿から見れば相手が居てもおかしくないと考えてしまうと、少しだけ寂しい感じがする。
「よっこ、すまん、付き合ってくれないか?」
「え!?」
頼子の驚いた表情に、勘違いを悟った達也焦りを表すかのように両手を左右に振って否定した。
「違う違う、ちょっと出かけるから一緒に来て欲しいんだ」
実家に住み始めてから家から出かけたことは数えるほどしかなかった。庭先より伸びる急勾配の坂の上に市道が走っているが、車椅子では登ることも下ることも危なくて到底できない。仮に登り切ったとしても本数の少ないバスに揺られて街中まで1時間以上という長旅はトイレや女性特有の問題などで不安が募りとてもじゃないが乗り気にはなれない。
その結果、名古屋に住んでいる妹の弓子に頼みこみ、必要な買い物や病院までの送迎をお願いしている有様だ。高齢の両親にはとても迷惑をかける訳にはいかなかった。日々をパソコンと読書などで過ごしながら、ぼんやりと庭先を眺めることで気を紛らわせていた。
「何を言ってるの?出かけたら迷惑をかけるわ」
「俺だって一通りのことくらいできるぜ、だから、大丈夫だ。あとどうしても相談にのって欲しいことがあってさ、実際に現地でアドバイスが欲しいんだ」
いとも簡単に言ってくれると腹派が立ったが、どうしてなのだろう、頼子の中にも達也ならできてしまいそうな気がして意味もなく心が弾んだ。
「えっと…アドバイス?」
「ああ、よっこは宣伝とか広報とか得意だろ?」
「まあ、前の会社で関わっていたこともあったけど…」
「すまん、俺はあまりそう言ったことに疎くてさ、助けてほしいんだ」
禿頭の頭頂部が眼前に見えるほどに頭を下げられて頼子は狼狽してしまった。
こんなに真剣に頼み込んでくることなど未だかつてない。手伝ってあげたい思いに対して、こんな姿で役に立つ訳がないと不安で押しつぶされそうになる。
「よっこしか頼りたくないんだ。頼む。」
にこやかに微笑んで拝み手をした達也の言葉に心がふっと軽くなる。
「いいわ、詳しいこと、教えてよ」
幼馴染の優しい言葉と、言いようのない不思議な安心感、それが不安を吹き飛ばした。
「現地で話すよ」
嬉しそうにそう言った達也の後ろからひょいと弓子が顔を覗かせたので頼子は驚く、入れ替わるように室内に入ってくると、クローゼットに仕舞い込まれていた服から着やすさと春に向いた服を取り出してきた。
「お姉ちゃん、化粧をしっかりしないとダメよ」
いつも通りに済ませようと考えていたところに苦言が呈された。
「簡単でいいのよ」
そこまで着飾る必要があるのだろうかと訝しんでいると、トドメの一撃とを口にした。
「達也さんに恥をかかせる気?」
「それは…」
確かに達也は頼まれごとと言った。もしかしなくても人と会うことが予想される。
あの作業着姿で四六時中やってくる達也でさえ、きちんとした身なりで整えているくらいだ。箪笥の脇に置かれて埃を被ってメイクボックスを弓子がさっと取りに行って戻ってくると、膝の上にそっと優しく置かれた。
「さ、早く!」
「もう、わかったわよ」
初任給で買ってから大切にしていたメイクボックスに触れる。
気分を落ち着かせてくれるお気に入りの化粧品の香りに気分が安らぐ。もう使うことも滅多にないだろうと遠ざけていた。開けば過去を思い出して気分が落ち込んでか視界にも入れないようにしていたというのに、目の前の机に置かれたそれは色褪せるどころか輝いて見える。すっと魔法にでもかけられたように自然と手が伸びてゆく。
少しだけ震えた指先で蓋を開く。
化粧品達が久しぶりの陽の光のもと色を取り戻したように花開き始めてゆく、それはまるで春が箱庭に収まったように鮮やかだった。数多くの思い出が頭を巡って恐れていたことが現実のものとなってきて、指先が先ほどよりも更に揺れた。
「よっこらしいカラーリングだな、良い色で溢れてる」
窓辺から覗き込んだ達也がそう言って微笑んだ。何気ない一言なのも関わらず、それで不安が消えたわけではないのに、ほんの少しだけ震えが収まってゆく。
「そうかな」
「ああ。まぁ程よい季節だし用事ついでにドライブでもしようぜ」
窓辺から微笑みかけてくれる達也に指先の震えが更に薄れた。
近く机に置いた箱庭より季節に合いそうな色合い選び出してゆく。慣れ親しんだそれらは、肌の上を滑らかに走り、一輪の花が開花するように頼子の姿を彩っていった。全てを一通り済ませて達也の前に姿を見せると、目が点のように驚いた表情をしてから嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑んだ。
外の世界は春爛漫という言葉がぴったりなほどの景色ばかりだった。
空は白い雲が所々に浮かんで青空と日差しが眩しい。照らされた木々は新緑の緑を湛えて、針葉樹の葉でさえも色鮮やかだ。道々で咲き誇っている桜や花桃の花が彩を添えていた。照らされた車道のアスファルトの色もどことなく明るく見える。光を受けるすべての景色が数多くの色彩で溢れかえっていた。
車椅子を後ろに積み込み、コンパクトカーのリリスの助手席で頼子はその景色を堪能しながら達也からのお願いを我慢できずに聞き出した。
地域の支所の周りには沢山の花桃が植樹されていて、毎年春になると「花桃の里」というイベントが開催されている。それの宣伝活動を手伝ってほしいとのことだった。平均年齢60歳以上のおじさんと、若いけれどデジタルに疎い達也達ではSNSなどに太刀打ちできず、しかも、期日にあたる開催日は一週間後というありさまだった。
翌日から毎朝、達也の車で支所へ送ってもらい、そして帰りに迎えに来てもらう生活が始まった。田舎だけれど支所はバリアフリーで動きやすく、仕事に邁進していた頃のように慌ただしい日々となった。
「綺麗だな」
「うん、そうね」
開催日初日は人出が多く大盛況となっているのを、支所3階の観光協会地域支援室から眺めながら笑顔が溢れる会場にホッと心を撫で下ろした。手伝ったネット広告やSNSでの宣伝が少しでも役に立っていたら嬉しいと思う。その働きぶりから観光協会の常勤職員として採用にまで至った。
「さて、見回りに行くけど一緒に来るか?」
「うん、一緒に見て回ろうかな」
お揃いの観光協会スタッフの法被を羽織り、車椅子を押してもらいながらエレベーターへと乗り込んで、ボタンを押す手が重なり合う。視線が重なり年甲斐もなく恥ずかしくなる。
互いの途切れていた関係が新しい芽吹きを迎えたように思えたのは、花桃に負けないくらい同じように頬を染めたからだ。
会場に吹く春の風はそのすべてを祝福してくれているようで、とても暖かくて優しかった。
再び、芽吹く 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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