見えない前進
ノズルを自分の方に向ける。あとは人差し指に力を加えて押すだけ。難しくともなんともない作業のはず。
でも、未だにスプレーのヘッドを押せない私がいる。
初めて買った香水。インフルエンサーの投稿を見て、動画を見て、レビューを見て。お店に行ってテスターまで試したはずの商品。
買ったその夜は、1人で馬鹿みたいに舞い上がっていた。
有名インフルエンサーと一緒。街ですれ違う綺麗な人たちと一緒。キラキラした世界の住人に仲間入り出来たみたいで、純粋に嬉しかった。
ただ香水をつけただけ。周りからすれば、些細なことかもしれない。それでも甘くて可愛いフローラルの香りが、私の背中を押してくれる。
そのはずだった。
「……よし」
気合いを入れ直すのも、これで何度目だろう。軽く息を吐いてもう一度指に力を込める。
しかし、押せない。
……だって化粧関係は校則違反だし。君が気付いてくれる保証もないし。気付いてくれても私には似合わないと思われたら嫌だし。そもそも別に今日じゃなくてもいいし。
湧水の様に出る踏み出さないための理由。もっともらしい理由に安心しつつも、不甲斐なさを心の片隅に感じる。
踏み出そうとして、諦めて。もう一度踏み出そうとして、諦めて。
軟くて脆い私の決意。踏み出せずにいる今この時間も、秒針の音は止まることはない。
「ふっ……もう時間じゃん」
机の上の時計を見つめ、困ったように笑う。気付けば針は家を出る時間を指していた。
もちろん普段から余裕を持って家を出ている。制服には着替えているし、今から荷物の準備をしても遅刻にはならない。
知らなかった。たかが香水が、ここまで人を不安にさせるなんて。
失敗するかもしれない。似合わないかもしれない。それでも可愛いって思われたくて努力する。
だからキラキラした人たちは輝いて見えるんだろう。それに比べて私はまだまだだ。
君のことをもっと知る。
メイクとかの勉強をする。
君の好みに合わせてイメチェンをする。
明るくて楽しい性格になる。
思い切ったアプローチをする。
他にも……
君の隣に並ぶために必要な事。数えたところでキリがない。笑っちゃうほどに発展途上だ。
それでもいつかは今以上の関係になって、君の笑顔を独り占めできるようになって。
今はまだ妄想だけの世界を現実にしたい。
これはそのための一歩なんだ。
指先に力を込める。プシュッと鳴る音。首元にかかるミストの感触。フローラルの匂いと一緒に広がる君への期待。
どうか私の勇気が君に届きますように。
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